第33話 暁の律動と『卵かけご飯』の供儀
学生たちが夏休みの解放を目前に控えた、ある猛暑の朝のことだ。
まだ夜の帳が完全に溶け切らぬ、紫がかった静寂。
それを無慈悲に切り裂くように、アパートの窓の外から異質な「轟鳴」が響いてきた。
「……何どす。この、脳髄の奥底を直接掻き回すような勇壮なる旋律は」
布団から這い出し、重い瞼を擦りながら窓を開けた。
近所の公園から響くのは、軽快すぎるピアノの伴奏。
そして、拡声器を通した何者かの快活すぎて逆に邪悪さすら感じる高らかな号令。
『さあ、皆さん!今日も元気よく始めましょう!まずは腕を前から上にあげて、大きく背伸びの運動から!』
「背伸び……もしやこれは、天に座す太陽神を無理やり引きずり出すための、夜明けの強制召喚儀礼どすか?」
思わず、異世界で国を挙げて行われていた「暁の典礼舞踏」を思い出した。
あちらでは聖女が祭壇の上で三日三晩、倒れるまで踊り続ける過酷な神事だったが。
この地では一般市民までもが、早朝からこのような修練に励んでいるというのか。
「んにゃ丸。あんさんも行きやすえ。修行の果てには、きっと未知なる聖なる糧が待っておりますえ」
「んにゃぁ……」
信者も眠そうに欠伸をしているが、これも修行だ。
寝巻きの上から適当な羽織をひっかけ、広大な戦場――公園へと足を踏み入れた。
***
公園には、既に数多の信徒──もとい、地域の子供たちと隠居された賢者たちが集っていた。
夏休みの予行演習か何かだろうか。皆、一様に「聖典」を首から下げ、真剣な眼差しで拡声器を囲んでいる。
「……ほう。これはなかなかの密度どすなあ。んにゃ丸、はぐれたらあきまへんえ」
最後尾でんにゃ丸を足元に置くと、ピアノの旋律が一段と激しさを増した。
『はい!腕を振って、足を曲げ伸ばしましょう!一、二、三、四!』
「一、二……なるほど。これは肉体に眠る魔回路を強制的に再起動させる、極めて機能的な舞踏どすな」
優雅に、けれど正確に、周囲の動きを模倣し始めた。
日頃、建築現場の荷運びや交通整理という過酷な労働に勤しんでいる身だ。
異世界の聖女としての矜持にかけてもこの程度の律動、造作もないこと。
「ふふ、他愛おへん。腕を回す動作は結界の構築、上体を倒す動きは不届きな介入の回避……完璧どす」
隣で同じく「儀式」に励んでいた小学生の少年が、私の動きを二度見した。
「ねえ、お姉さんの動き、なんか……格闘技みたいでかっこいいね!」
「ふふ、若き信徒はん、目の付け所が良いどすな。これは『はんなり流・空間制圧舞踏』の一端どすえ」
「へー!じゃあボクも負けないよ!」
少年がライバル心を燃やし、激しく手足を振り回し始めた。
聖女が子供相手に遅れを取るわけにはいかない。
「おやおや、威勢が良いどすなあ。ならば、この暁の捻りについてこれやすかえ?」
号令に合わせて、勢いよく上体を捻った。
日々の労働で鍛え抜かれたはずの背骨が、かつてない遠心力を描いた、その刹那。
「……ギ、ッ」
腰の奥底で、何かが致命的な音を立てた。
異世界の魔力による神罰か、あるいは単なる慢心への警鐘か。
「あ、あう……カッ、カハッ……ッ!」
衝撃が脊髄を駆け抜け、視界が真っ白に染まる。
上位魔族の呪いを受けた際にも、これほどの鋭い拒絶反応はなかったかもしれない。
『はい、次は元気に跳躍の運動!一、二、一、二!』
「無理どす……跳ねたら、うちの魂が粉々に砕け散りやす……ッ」
周囲の子供たちが元気に跳ねる中、私は生まれたての小鹿のように震えながら、その場に蹲った。
冷や汗が滝のように吹き出し、はんなりとした笑顔が鬼気迫る苦悶の形に歪んでいく。
「お姉さん、大丈夫!?」
「……案じ召さるな。これは……大地のエネルギーと……同調しすぎただけ……どす……」
結局、その後の「深呼吸」までどうやって耐え抜いたのか、記憶が定かではない。
ただ、配られた小さなシールを震える手で受け取ったことだけが、戦いの証として残されていた。
***
痛む腰を摩りながら、命辛々アパートに辿り着いた。
「……おう、ハナ。何だそのツラは。幽霊にでも腰を抜かされたか」
「……ゴンドウはん。幽霊どころか、暁の神の怒りに触れて、腰を破壊されやした。うちの魔回路が……悲鳴を上げておりますえ」
「あ?ラジオ体操か。お前さん、慣れねえことするからだ。体力があるのと腰が強いのは別モンだぜ」
玄関先には大家のゴンドウさんが、いつものように首にタオルを巻いたジャージ姿で立っていた。
呆れたように鼻を鳴らすと、手元の大きな紙箱から艶やかな褐色の卵を取り出した。
「ほら、これ持ってけ。そんじょそこらの卵とはワケが違う。知り合いの養鶏場から貰った高級品だ」
「これは……もしや、伝説の幻獣の卵どすか?」
「ただのブランド卵だ……ちゃんと栄養摂って、とっとと腰を治せよ。バイトに行けねえと干からびるぞ」
ぶっきらぼうにそう言って、ゴンドウさんはアパートの奥へと消えていった。
手に残された、黄金のたまご。
部屋へ転がり込むなり、限界に近い震える指でスマートフォンを手に取り、メッセージグループ『聖女ホットライン』を叩いた。
『暁の律動に敗北。腰が……魂が砕けよりました。救済を。救援物資を所望……どす……』
『ハンナリエルさーん!?なにそれ、大丈夫!?通知が真っ赤なんだけど!ごめん、私これから弓道場の掃除だから行けない!凛ちゃん、お願いできる?』
『これから直行する』
画面を閉じ、床に這いつくばった。
支援の約束は取り付けた。あとは黄金のたまごを糧に、救命騎士の到着を待つのみだ。
***
キッチンへ這いずり、腰に響かないよう慎重な動作で準備を始めた。
炊飯器の中で一晩水に浸しておいた白米が、眩しいほどの純白に炊き上がっている。
「さあ……顕現の時どすえ」
小さな茶碗に、炊き立ての米を丁寧に盛り付ける。
その頂を少しだけ掘り、そこへ──黄金の球体を解き放った。
パカッ、という天の門が開くような軽やかな音。
現れたのは、驚くほど盛り上がったオレンジ色の黄身と、弾力に満ちた白身だった。
それはまさに、炊き立ての雪山に昇った新たな太陽。
「……美しおすなあ。これこそが、大地の恵みの集大成どす」
そこへ、ゴンドウさんから以前伝授された特製のだし醤油を数滴だけ垂らす。
醤油の黒が黄金と混ざり合い、視覚的な汚染が食欲を極限まで引き上げる。
箸を入れ、黄身を崩す。
ドロリと溢れ出す濃厚な液体が、白米の一粒一粒を慈しむように包み込んでいく。
我慢できず、一気に入口へと運んだ。
「……言葉もおへん」
濃厚。
卵の宇宙が、口の中で大規模な爆発を起こしている。
黄身のコクはもはやバターを凌ぐ重厚さになり、白身は喉ごしの良い透明なベールとなって、米の甘みを一層際立たせる。
「腰の激痛すら、この福音を味わうための最高の前菜に思えてきやすな……ふふ、幸せどすえ……」
茶碗の底を箸で叩く音が静寂に響く頃。
玄関のチャイムが、無遠慮に鳴り響いた。
へっぴり腰で玄関を開けると、そこにはリンさんの姿が立っていた。
「ハンナリさん、生きてる?」
「リンはん。うちは今、卵神の一部と一体化していたところどす」
「腰を痛めても食欲は落ちないんだ……グループの通知、凄かったから、家にあったシップを持ってきた。それと、お見舞いの牛乳」
「おお……慈悲深き支援物資どす。リンはん、あんさんはまさに聖域の救急騎士どすなあ」
感激しつつも、痛みが引かぬ腰を摩りながら部屋へ招き入れた。
「……ハンナリさん。これ、貼る必要がある」
リンさんはシップのパッケージを無造作に破り、鋭い眼差しでこちらをフローリングにうつ伏せにさせた。
「あ、あの、リンはん。うちはこれでも年頃の聖女どすさかい、そんなに乱暴に……」
「問答無用。腰は要。汚れと同じ、放置は悪」
冷たい空気と共に、リンさんの指先がこちらのシャツを少しだけ捲り上げた。
そして、獲物を狙う鷹のような速さでシップが腰の核に貼り付けられる。
「──ッ、冷たぁい!?氷河の呪いどすか、これは!?」
「我慢して……これが、癒やしへの唯一の道」
小さな手で、シップの上からぐいぐいと腰を圧迫し始めた。
痛覚と冷覚が混ざり合い、脳裏に不可解な幾何学模様が浮かび上がる。
「あ、あう……お、お上手どす。リンはんの指先から鎮静エネルギーが流れ込んできやす……」
「ただのシップ。でも貼る場所は正確に。水守の湯で培った知見」
しばらくの間、無表情な少女による「湿布の儀」が続いた。
チサトさんがいたらきっと「あはは、エルさんがまな板の鯉みたい!」と笑い転げていただろう。
リンさんの静かな、けれど確かな世話焼きは、冷たいシップとは裏腹にどこか温かい心地がした。
「完了。一時間は安静にしていること。それじゃあたしは学校へ行くから」
「おおきに、リンはん。お陰様でうちの腰もはんなりとした安寧を取り戻しつつありやす……」
フローリングに這いつくばったまま、窓から差し込む夏の陽光を仰ぎ見た。
暁の試練、黄金の供儀、そして放課後の騎士による救済。
「夏休み前のアトラクションとしては、少々刺激が強すぎたどすなあ……んにゃ丸、あんさんもシップ貼りやすか?」
「んにゃぁ……(全力拒否)」
逃げ出す信徒を横目にシップの清涼感に包まれながら、静かに眠りへと落ちてゆくのだった。
***
【タイトル:[饗宴]暁の律動と、黄金に輝く『卵かけご飯』の供儀】
『――静止は魔を招き、律動は魂を浄化します。暁を告げる名もなき旋律に合わせ、聖女は不器用な舞踏を捧げました。代償として腰に神罰を賜りましたが、その果てに待っていたのは、白き雪山に昇る黄金の太陽――『卵かけご飯』がもたらす奇跡です。至高の球体を解き放ち、醤油が織りなす闇を混ぜ合わせれば、そこには福音の如き濃厚さが広がります。たとえ腰が砕けようとも、命の洗濯を終えた後の食事は、何物にも代えがたい祝福なのです。はんなりと、そして少しだけ腰を庇いながら、聖女の探求は続いてゆくのです――』
『ハンナリエルさーん!ラジオ体操の重圧に負けたってホント?予備シップ、弓でベランダまで射ち込んであげようか?』
『チサトはん。シップを射ち込まれたら腰の前に窓が粉々になりやすえ。リンはん、助かりましたわ』
『アイス、二個。それで手を打つ』
『ちゃっかりしてますなあ、リンはん』
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