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第31話 銀糸の流転と『そうめん』の防御儀礼

 一度として、これほど不条理な喪失感を味わったことがあっただろうか。

 つい先刻まで、目の前には夏の色彩を凝縮した宝器──『冷やし中華』が鎮座していたはずだ。

 それが今や、手元に残されたのは虚しい箸一膳と、依代の役目を終え、呑気に毛繕いを始めるんにゃ丸のみ。


 万のことわりを総べる高潔なる師匠。

 その崇高な知性を、まさか弟子の晩飯を強奪するためだけに行使なさるとは。


「……やってられまへんえ」


 深い溜息と共に、薄暗い部屋のフローリングにごろんと横たわった。

 窓の外では、雷雨の余波が夜の帳を濡らしている。

 師匠との再会。その安堵は確かにあった。けれど、それ以上に胃袋が訴える「裏切り」の衝撃が大きすぎる。


 師匠は言わはりました。「お喋りの代金は、先払いで頂いていく」と。

 神聖なる食卓を、あろうことか『びっくでーた』とやらのリソース回復のための生贄になさるとは。

 不心得者にも程がある。


「んにゃ丸。あんさんはええどすなぁ。美味しそうにカリカリを食べて……」


 隣で贅沢に晩食を楽しんでいる信徒を見つめ、恨みがましげな声を漏らした。

 んにゃ丸は「ふにゃあ」と欠屈そうな返事をして、再び自らの仕事に戻っていく。


「……待っておくれやす。落ち着いて考えれば、活路は見出せるはずどす」


 起き上がり、暗がりの空間をじっと見据えた。

 元の世界での師匠は、確かに神出鬼没で、掴みどころのないお人だった。

 けれど、あの強引な転移術式にも、何らかの「弱点」はあるはず。


 例えば……そう、標的の状態。

 前回の『冷やし中華』は、テーブルの上に静止していた。いわば、どうぞ奪ってくださいと言わんばかりの無防備な状態。

 では、もしも、その糧が「常に動いていたら」どうなるか?


「座標が固定できなければ、術式の焦点は定まりまへん。……つまり、動いていれば盗まれへん、ということどすえ!」


 我ながら天才的な啓示に、糸目が見開きそうになる。

 止まっているから奪われる。ならば、動かせばいい。

 夏の涼を楽しみつつ、師匠の汚い手出しを封じる、究極の防御儀礼──『流しそうめん』。


 即座にスマートフォンを手に取り、眩しい画面を指で叩いた。

 以前、イチカさんから頂いた、乾麺の束が台所の棚にあるはず。


 あれは数日前。バイト先の喫茶店でのこと。

 仕事上がりの際に、不機嫌そうな顔をした夜の住人──イチカさんが、店長のカノンさんに背中を押されるようにして現れたのだ。


「ほら、イチカちゃん。ちゃんと自分で渡しなさいな。はんなりちゃん、困惑してるじゃないの」

「わ、分かってるってば……もう、店長は黙っててよ!」


 カノンさんはそう言ってくふふっと喉を鳴らした。

 『ハンナリエル』という名は長くて呼びにくいからと、最近ではもっぱらこの呼ばれ方をされている。


 曰く、「あなたの喋り方、はんなりしてて素敵じゃない?だから、はんなりちゃん。ね、いいでしょ?」とのこと。

 聖女の威厳もないが、この世界では、はんなり系フリーター。不思議と嫌な気はしなかった。


 頬を微かに赤らめ、イチカさんは和紙の帯で丁寧に束ねられた、品の良さそうな乾麺を差し出してきました。


「……これ、あげる。別にあんたのために買ったわけじゃないからね。余ってただけだし、捨てるのも勿体ないでしょ?」

「あら、これは……神聖なる銀糸の束。もしかして『そうめん』どすか?」

「そうだよ。あんた、この前あーしにだし巻き卵を食べさせてくれたでしょ。その、お返し。……毒見も兼ねて、あんたが食べなさいよ」


 相変わらずのツンツンとした物言いどすが、その瞳は期待と不安が入り混じったように揺れていました。

 傍らで、カノンさんが面白そうに目を細めてコーヒーを啜っている。


「ふふ、イチカちゃん、本当は美味しいやつを選んでたのよねぇ。一時間も悩んで──」

「ちょっ、店長!余計なこと言わなくていいから!帰る!あーし、もう帰る!」


 イチカさんは顔を真っ赤にして、逃げるように店を後にしました。

 後に残されたのは、彼女の不器用な真心が詰まった重みのある木箱。


「……ほんに。うちらの信徒は、不器用な人ばかりどすなあ」

「それが彼女のいいところよ。はんなりちゃん、美味しく食べてあげてね?」


 くふふっといつものように微笑むカノンさん。

 聞けば不規則な生活を送るイチカさんにとって、この店は行き場のない夜にふらりと立ち寄れる「止まり木」なのだそう。

 営業時間外のことが多いため、こちらとはすれ違いのこともあったようだ。


 そしてイチカさんから託された、あの不器用な真心が詰まった福音そうめん

 今こそその力を解放し、師匠への防御障壁スライダーとして役立てる時だ。


『キリハラさん。緊急事態どす』

『何よ、雷のせいで家電でも壊れた?それとも、またお腹空かせて行き倒れそうなの?』

『もっと深刻な問題どすえ。実はうち、アパートに「防御障壁スライダー」を構築することに決めました。つきましては、お力添えをお願いしたいんどす』

『スライダー?……ちょっと、あんた今度は何を作り始めようとしてるのよ』

『銀糸の流転。不届きな手から美食を守る、究極の流力りゅうりき装置どす。要は「流しそうめん」の道具を揃えるのを手伝ってほしいんどすえ』

『流しそうめん……あんた、今の今まで「冷やし中華」の話をしてたじゃない。まあいいわ。ちょうど仕事先の絡みで使わなくなった塩ビパイプを捨てようと思ってたところだし』

『おお、救いの手どす!流石はキリハラはん、うちの守護騎士ナイトどすなあ』

『変な二つ名つけないで。明日、非番だから顔を出してあげる。変な装置で部屋を水浸しにしないでよ?』


 スマートフォンの明かりが、勝利を確信したこちらの瞳を照らし出す。

 師匠、次回の接続時に目にするのは、絶え間なく流転し続ける、捕捉不可能な『そうめん』の滝だ。


 ***


 翌日。夏の暴力的な日差しがアスファルトを焼く昼下がり。

 アパートの前には、公務の疲れを微塵も感じさせない凛とした足取りで、キリハラさんが姿を現した。

 その肩には、本来の用途とは無縁であろうグレーの塩ビパイプが数本、無造作に担がれている。


「はい、約束の品……って、はんなりお姉さん、玄関先でその不審な格好、何とかならないの?」

「何を仰いますやら。これは神聖なる工事儀礼に挑むための、正装どすえ。さあ、その『聖なる竹』をこちらへ」

「竹じゃないっての……あぁ、もう。大家さんまで何してるのよ」


 熱気を遮断するために首に濡れタオルを巻き、頭には「工事中」と書かれた赤いバンダナを巻いて出迎えた。

 共有スペースには、既に大家のゴンドウさんが、どこからか持ち出した脚立とガムテープを手にスタンバイしていた。


「おう、八江。ハナの奴がよ、アパートで銀の滝を作るんだって意気込んでるからよ。退屈しのぎに手伝ってやってんだ」

「ゴンドウはん、流石は理解ある賢者どす。さあ、ここから玄関を潜り抜け、奥のキッチンまで一気に水を走らせるんどすえ」

「正気の沙汰じゃないわね……でもまあ、面白そうだから少しだけ協力してあげるわ」


 幸いなことに、この『ことほぎ荘』の住人は数えるほどしかいない。

 大半は日中の労働に勤しんでいるのか、この時間は部屋を空けている者ばかりだ。


 ただ、廊下の突き当たりにある一室だけは、昼夜を問わず重々しく扉が閉ざされたままである。

 そこには「主」が潜んでいるという噂だが……今は、銀糸の流転という大義が優先だ。


 三人がかりの大工事は、猛暑の中、一進一停止みながら進められていく。

 塩ビパイプをガムテープで繋ぎ合わせ、高低差をつける。


 水漏れ対策として、下にはビニールシートを敷き詰め、要所要所に支えを配置する。

 それは客観的に見れば、ボロアパートの一角を占拠する奇妙な現代アートのようでもあり、あるいは禁忌の魔術回路のようでもあった。


「……できた。名付けて、究極防衛・銀糸流転スライダーどすえ!」


 廊下を斜めに横切り、台所のシンクへと吸い込まれる鈍色のライン。

 その造形に、満足げに鼻を鳴らした。


「よし。んじゃあ、俺は水の栓を捻る準備をしてくるぜ。ハナ、麺の方はどうなんだ?」

「お任せおくれやす。イチカはんから頂いた、極上の乾麺が今まさに顕現の時を待っておりますえ」


 換気扇の回るキッチンに戻り、大鍋にたっぷりと張られた湯が、グラグラと力強く沸騰している。

 そこへ、和紙の帯で束ねられた真っ白な『そうめん』を、一束ずつ丁寧に解き放っていく。


 その麺は、驚くほど細く、繊細だった。

 まるで雪解け水から紡ぎ出された神の糸のよう。

 沸き立つ熱湯の中で銀糸たちが踊り、透明度を増していく様は、まさに供儀のクライマックスに相応しい光景だ。


「茹ですぎは禁物どす。一分、いえ、数十秒の遅れが、麺の命とも言えるコシを奪い去りやす……」


 全神経を指先に集中させ、頃合いを見計らって一気にザルへ上げた。

 すかさず冷水で締め、掌で優しく、けれど力強く麺を揉んでいく。


 指先に伝わるキュッとした心地よい抵抗感。

 この生きた証を、師匠の汚れた手から守り抜かねばなりまへん。


「さあ。次は『つゆ』と『宝具やくみ』の準備どす」


 冷蔵庫から、出汁の利いた冷たいつゆを取り出し、器に注ぐ。

 隣のまな板の上には、小気味よい音と共に刻まれたネギの青み。


 おろし金で細かく削られ、爽やかな香りを放つ生姜。

 そして、薄切りにされたミョウガの淡い紅。


 これら三種の神器を添えれば、もはや完成を疑う余地などない。


「し、師匠……見ておいでやすか。次の一滴、次の一筋は、もうあんさんの思い通りにはなりまへんなあ……ほほっ」


 暗いキッチンで笑い声を漏らす姿を、キリハラさんが廊下から呆れた目で見つめている。


「……ねえ、大家さん。あの子、やっぱりちょっと休ませた方がいいんじゃない?」

「いいじゃねえか、八江。あいつが笑ってるときは、大体美味いもんが食える合図だぜ」


 ゴンドウさんの豪快な笑い声を合図に、運命の抜栓がされた。

 蛇口から溢れ出した水が塩ビの道を清らかに、そして力強く駆け抜けていく。

 夏の午後の光を反射して、水面がキラキラと銀色の鱗のように輝きだす。


「顕現せよ、銀糸の流転どすえ!」


 茹でたてのそうめんをスライダーの最上流へと投じると、白き麺が水の流れに乗って一気に加速する。

 滑らかに予測不可能な曲線を描きながら、廊下からキッチンへと滑り込む。


「はっ……そこどす!」


 待ち構えていた箸を水面へと一閃。

 銀糸の束を鮮やかに掬い上げ、そのまま冷たいつゆの中へ。

 薬味が踊る液体を纏わせ、一気に啜り上げる。


 ──冷たい。

 そして、驚くほどに喉越しが良い。


 流水によって磨き上げられた麺の肌は絹のように滑らかで、それでいて噛み締めれば穀物の淡い甘みが爆発する。

 生姜の刺激、ネギの鮮烈。それらが渾然一体となって、熱に浮かされた体に清涼なる福音を届けてくれる。


「ふふ……どうどす、師匠!これなら座標も焦点も定まりまへんやろ!流れる麺は容易にすり抜ける……これぞ、完全なる防御儀礼どす!」

「ちょっと、キミってば一人で盛り上がりすぎ……あ、本当だ。冷たくて美味しいわね、これ」

「おう、最高だぜ。パイプの継ぎ目から少し漏れてるが、それもまた夏っぽくていいじゃねえか」

「ゴンドウはん、あんまり欲張ってはいけまへんえ。それはうちの大切な防衛線……ああ、ミョウガまで!それはうちの宝具どす!」


 不届きな師匠から守り抜くはずだった『そうめん』。

 それがいつの間にか、アパートの廊下で笑い声を上げながら分け合う、至福の宴へと姿を変えていく。


 結局のところ、師匠がいつ接続してくるかは分からない。

 けれど、こうして誰かと共に箸を動かし、涼を分け合う瞬間こそが、何よりの防衛なのだと……そんな気がしたのだ。


 ひとしきり食べ終え腹を満たした三人は、廊下の風通しの良い場所に座り込んで熱を帯びた空気を楽しむ。

 んにゃ丸は、こっそり分けてもらった麺を、大事そうに前足で押さえていた。


「師匠。あんさんが次に来る時までには、もっと複雑な迷宮スライダーを構築しておきやすえ。覚悟しておくれやす」


 夏の空は、いつの間にか茜色に染まり始め、遠くで蜩の声が響き始めていた──。


 ***


【タイトル:[防御]銀糸流転の儀と、不届きな介入を阻む『そうめん』の滝】


『――静止は魔を招き、流転は聖域を守護します。不届きな介入を阻むべく、銀糸の如き『そうめん』を奔流へと解き放ちました。極限まで冷やされた麺が、薬味の彩りを纏って喉を滑る刹那、魂は酷暑から解放され、福音の如き涼やかさに満たされます。流水の導きと共に、明日への力を得るのです――』


『イチカはん、最高に美味しい福音そうめんをありがとうございました。立派な防御障壁として活用させていただきましたえ』

『は?防御障壁?ちょっと、あのそうめん流しそうめんにしたの!?あーしがあれ選ぶのに……いや、マジで意味わかんないんだけど!』

『堪忍どす。お詫びに次は一緒に流しましょう。美味しいおかず、作ってお待ちしておりますえ』

『また流すの!?っていうか、勝手に決めないでよ……もう!食べるけど!今度は絶対、普通のそうめんも用意しといてよね!』


 #そうめん #流しそうめん #聖女の防御術


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