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第30話 豪雨に響く師の雷鳴と『冷やし中華』の再会

 空を真っ二つに引き裂くような稲光が、鈍色の街を白銀に染め上げた。

 直後に、内臓を揺さぶるような爆鳴が轟く。

 アスファルトを叩きつける雨粒は、もはや雫というよりつぶての如き暴力性を帯びていた。


「あらまあ……これはまさに、天の神々がバケツをひっくり返して喧嘩しとるような凄まじさどすなあ」


 濡れ鼠のような有様で、アパート『ことほぎ荘』の狭い玄関に滑り込んだ。

 予定されていた道路工事の交通整理の仕事は、現場が川のようになり開始十分で中止を告げられた。

 日給の保証は雀の涙。残ったのは、ぐっしょりと湿った作業着の重みと、やり場のない空腹だけ。


「んにゃぁ……」

「んにゃ丸、堪忍え。あんさんも、うちのフードの中でえらい窮屈やったどすなあ」


 パーカーのフードから這い出してきたんにゃ丸をバスタオルで包んでやる。

 液晶のような瞳に、外の激しい雷光が反射してチカチカと輝いている。

 湿った空気と、古びた畳の匂いが混じり合う。


「こんな日は、もう何もせんとボーっと過ごすのが一番の贅沢どすなあ。下手に動けば、雷さんにおへそを取られてしまいまひょ」


 窓の外では、視界が真っ白になるほどの豪雨が続いていた。

 大家のゴンドウはんなら、今頃コンビニの裏で「……降るな」と吐き捨てながら、気ままに水でもあおっているのかもしれない。


「またゴンドウはんから『ハナ、博打のツラしとるな。暇なら丁半でもやるか』なんて、物騒な誘いがあるかもしれまへんえ」

「んにゃん、んにゃにゃ?」

「うちは博打より、まずは胃袋の安定どす。……ああ、でも。元の世界におった頃は、師匠によく『お前さんは食事を軽視しすぎている。それに星の導きを疎かにしすぎだ』と小言を言われたものどすなあ」


 ふと思い出したのは、常に飄々と、それでいて人を操るように微笑んでいた「あの人」の姿。

 詩的な言葉を吐きながら、現代的な感覚で弟子うちを翻弄し、時に教えを適当に投げ出す、食えないお人――。


 ――ビカッ!!


 窓のすぐ外が、網膜を焼くほどの白光に包まれた。

 アパートの建物自体が悲鳴を上げ、古い木造の躯体がガタガタと震える。

 鼓膜を突き破らんばかりの衝撃波。


「んにゃっ!?んにゃぁああああ!」


 んにゃ丸が、全身の毛を逆立てて跳ね上がった。

 電子的な瞳が、これまでにないほど激しく明滅し、ノイズのような文字が高速で走り始める。


「んにゃ丸!?どうしたんどす、しっかりしなはれ!」

『――ヤバいな。出力、ちょっと高すぎたか?』


 不意に。

 んにゃ丸の口から、聞き慣れた、しかしここにあるはずのない声が響いた。

 静かながらも芯があり、どこか人を食ったような、涼やかな女性の声。


「……え?そ、その声、まさか……」

『私を師と呼ぶ以上、俗世の礼儀作法など麓に置いて行け。……とは言ったけど、今のお前さんは少々、俗世に浸かりすぎじゃないか?リエル』

「師匠……!?『バンリ』師匠どすか!何てこと、よりによってんにゃ丸を通じて現れるとは、相変わらずの手癖の悪さどすなあ!」


 落雷という巨大なエネルギーが、世界を隔てる壁をほんの一瞬だけ、薄く引き裂いた。

 んにゃ丸の瞳に映し出されたのは、元の世界での師――バンリ師匠の飄々とした表情だった。

 本来なら交わるはずのない二つの世界が、信徒であるんにゃ丸を介して、奇跡的な接続を成し遂げている。


『人聞きが悪いな。こっちは「びっくでーた占い」の結果に賭けて、お前さんの生存を信じて探し出していたんだよ。……元気そうで何よりだが、少し痩せたんじゃないか?』

「え?痩せた、どすか?」

『お前さんはあの戒律だらけの世界で常に質素に過ぎたからね。私のいない場所で、ろくに食べずにやせ細っているんじゃないかと……実のところ、気が気じゃなかったんだよ』

「師匠……案じることはありまへん。うちは見ての通り、この世界の食という福音に守られて、むしろ向こうにおった頃より生き生きしとるくらいどすえ。ほら、この頬の艶を見ておくれやす」

『確かにその緩んだ顔を見れば、どうやら私の杞憂だったみたいだね……安心したよ』


 その声は電子的なノイズを含みながらも、向けられた慈愛は本物だった。

 質素な美徳こそが尊ばれる戒律の世界で、常に空腹を抱えていた愛弟子の姿を案じていた師の偽らざる安堵がそこにはあった。


「その、さっきから言うてはるびっくでーた占いとは?うちは聞いたこともあらへんどすえ。そんな不確かなものに頼って、うちが生きているかもしれへんと案じていたんどすか?」

『不確かじゃないさ。周囲には、「聖女は生きている」と説得するためにそう呼んでいるだけだ。お前さんが居ない間、その座を他人に明け渡さないための、私のちょっとした方便だ』

「方便どすか?それにしては、えらい最新技術めいた名前を付けはるんどすなあ……周りの人達には、うちが今頃どこで何をしとるか説明してはるんどす?」

『「どこかの俗世で、自由を謳歌しながら美味しいものでも食べているはずだ。びっくでーたがそう言っている」……とね。みんな私のハッタリにコロッと騙されて、お前さんの帰りを律儀に待っているんだよ』

「……師匠。あんさんは相変わらず、人を食ったようなお人どす。けど、そんな出鱈目な方便が、うちの存在を繋いでいたんどすか」

『正直、私も最悪の事態は覚悟していたさ。だが、私の教え子がそう簡単にくたばるはずがない。私はその「生きている」方を選んで、周囲に賭け(説得)を続けていたんだ』

「……師匠も元の世界の方々も。そしてこの世界の大家はんまで。どこもかしこも博打好きばかりどすなあ。お陰でうちの存在が繋がっとるのなら文句は言えまへんけど」


 幻影の師匠は、相変わらず掴みどころのない微笑を浮かべている。

 懐かしい。けれど、腹立たしい。


「……はあ、相変わらずどすなあ。適当なハッタリで人を煙に巻いて自分だけ涼しい顔をして。向こうにおった頃も、うちが必死で冷たい滝に打たれとる横で、師匠は焚き火で芋でも焼いてはったんと違いやすか?」

『おや、心外だね。あれは芋を焼いていたんじゃない、熱力学的な……ま、実際は勘と経験と、あとは気合のアルゴリズムだ』

「ほら、すぐそうやって誤魔化さはる!気合でどうにかなるなら、うちはあんな修行、三日で放り投げてましたわ。大体、そのびっくでーたとかいう得体の知れん言葉を自分の都合のええように使いはって……周囲の人らも、あんさんの口車に乗せられとるだけで、内心は呆れ果ててはるんと違いやすか?」

『おいおい、私のびっくでーたを甘く見ないでくれよ。……ま、向こうの連中もそれなりに私の嘘を楽しんでいるみたいだよ。お前さんの空席を守る口実をみんな欲しがっていたからね』

「うちはこの平穏な日本で、日々の労働と食の洗礼に忙しいんどす!師匠こそ、まだあの退屈なところで適当なことを言うてはるんどすか?」

『適当とは失礼だな。これでもお前さんを探して接続を試みるのに、どれほどの計算と資源を費やしたと思っているんだい?……ま、それ以上に弟子が変なものを食べてお腹を壊さないか、それなりに心配してたんだよ』

「変なものやありまへん!これは夏をのり越えるための聖なる供物……『冷やし中華』どすえ!師匠にこれを自慢できるのなら、用意した甲斐もあったというものどす」


 その言葉に導かれるように、台所に用意していた食材に目をやった。

 仕事が中止になる前に、せめてもの涼を求めて買っておいた、色鮮やかな夏の予感。


 薄暗い中で細い首をすくめながらも準備を始めた。

 窓を叩く雨音は激しさを増し、時折轟く雷鳴に腰が浮きそうになる。


 暗がりに慣れた目でも、手元の包丁の刃先を追うのは案外難儀だ。

 ましてや、んにゃ丸の瞳を通じて、あのバンリ師匠がじっとこちらを観測しているのだ。


「……ひゃっ!?」


 不意の落雷に肩を揺らし、胡瓜を切る手が少しだけ狂う。

 普段なら寸分の狂いもなく「はんなり」と刻んでみせるうちはどこへやら。

 お節介な視線のせいで、なんだか修行時代に戻ったような器用で不器用な手付きになってしまう。


「……師匠、そんなにまじまじと見んといておくれやす。手元が狂って、指まで刻んでしまいそうどす」

『おや、それは困るね。指の旨味は必要ないよ。……だが、そうやって必死に包丁を動かす姿は、かつての毒草のすり潰しよりは、幾分か様になってきたんじゃないかな』

「……一言、多いんどすえ」


 頬を膨らませ、茹で上げた細麺を氷水に放り込んだ。

 キュッと引き締まった麺の感触に、少しだけ心が落ち着く。


 その上に、錦糸卵、細切りのハム、そして厚さがまちまちになってしまった胡瓜と、真っ赤な紅生姜を盛り付けていく。

 最後に、酸味と甘みの利いた特製の醤油タレをたっぷりと。


「ご覧やす。これぞ『冷やし中華』。夏の芸術品どすえ」

『ほう……。色とりどりで、なかなか詩的な造形だね。その細長い赤いものは、もしかして魔除けの呪符かな?』

「これは紅生姜どすえ。呪符どころか、酸味の利いた刺激的な名脇役どす。ささ、まずはこの麺の喉越しを見ておくれやす……と言いたいところどすけど。今の師匠には、この味も、匂いも、この喉越しも、何一つ伝わりまへんのやね。……お可哀想なことどすなぁ」

『おいおい、肉体を欠いた不便さを突くのは、いささかアンフェアじゃないかな?……ま、その幸せそうな表情の揺らぎを見ていれば、大体のアルゴリズムは読み解けるからね。私にはそれで十分だ。匂いに関しては、お前さんの記憶から逆引きすれば済むことだ。その胡瓜とやらの切り方も、向こうにいた頃の適当な薬草刻みよりはマシみたいだね』

「一言多いのは相変わらずどすなあ。では、修行時代の不器用なうちは忘れて、今のうちの『涼』を堪能しておくれやす」


 んにゃ丸を通じたバンリ師匠の視線を浴びながら、うちは器を手に取った。

 落雷の余波か、まだ指先が少し痺れているけれど。


「いただきますえ」


 啜り上げれば、冷たい麺が喉を滑り抜け、爽やかな酸味が鼻へ抜ける。

 ハムの旨味と胡瓜のパリパリとした食感。

 そして何よりこの涼が、湿り気を帯びた体に染み渡る最高の福音どす。


「んん~……!美味しおす!これなら、雷さんに奪われそうになったおへそも、一瞬で忘れてしまいまひょ。師匠にもこの喉越しを味わせて差し上げたいどすなあ」

『いい食べっぷりだね。見ているだけで私の空腹まで満たされそうだよ。そんな幸せそうに目を細めて……お前さんは本当にどこへ行っても、そこを自分の聖域に変えてしまうんだな』

「それは褒め言葉として受け取っておきまひょ。……あら、師匠?お姿が少し、霞んできましたえ?」

『……残念だが、そろそろ限界みたいだ。落雷の余波も収まってきたしね。貴重な通信時間を弟子の食事風景を眺めるだけで使い切るのも、悪くない』


 幻影の影が、淡くノイズに溶け始める。


『安心しなよ。今回の落雷でお前さんのいる場所の座標はびっくでーたに固定させてもらった。次回はもう少し、長くお喋りできるはずだ。……さて、お喋りの代金は、先払いで頂いていくよ』

「代金どすか?そんなもの、一銭も持って……あっ!」


 接続が切れる寸前。

 んにゃ丸の瞳が、これまでにないほど強く黄金色に輝いた。


 ――シュンッ!


 目の前にあったはずの、彩り豊かな冷やし中華の皿が……。

 空間が歪み、音もなく消失した。


『うん、美味しそうだ。弟子のお手製なら尚更かな。あ、ヤバ。本当に切れそうだ。こちらでもびっくでーたな味を再現できるか、試してみるよ。……またね、リエル』

「あ……あ、あ……!?」


 転移なんていう掟破りの秘術が使えるのなら、普通は真っ先に弟子を向こうへ戻すとか、もっと他にするべきことがあるのではないか。

 よりにもよって、空腹の聖女から食を奪うことを優先するなんて……!


 バチン、と音を立ててんにゃ丸の瞳がいつもの色に戻った。

 同時に、部屋の電灯がパッと灯る。


 外の雨は、いつの間にか小降りになっていた。


「ふふ、笑止千万どす。万のことわりを総べるだの、最新のびっくでーただのと、大層な御託を並べながら……結局、あんさんが次元の壁を穿ってまで成し遂げた偉業は、弟子の困窮を救うことではなく、冷え切った麺の強奪どしたか。不心得者も極まれり。師匠としての威厳やら、あの刺激的な紅生姜と一緒に、どこか異次元へ流しはったんと違いやすか?『つまみ食い』に貴重なリソースを費やさはったとは。呆れて開いた口が塞がらへんとは、まさにこのことどすえ──」


 手元に残されたのは、虚しくも箸だけ。

 隣では、師匠の依代としての役目を終えたんにゃ丸が、何事もなかったかのように欠伸をしている。


「んにゃ丸……うちら、これから何を食べたらええんどす?」


 師匠が次元の壁を穿ってまで通信してきた目的。

それは、単なる弟子の生存確認と、不届きな「つまみ食い」だけだったのかもしれない。


 けれど、久しぶりにあの掴みどころのない声を聞き、飄々とした顔を拝めただけで、胸の奥に灯った安堵は本物だった。

 終末災害『幻想郷』によって質素な美徳に縛られ、常に空腹を抱えざるおえないでいた、あの世界。


 だが、師匠の周りだけはどこか風通しがよく、あちらの人々もまた、未来を信じて上を向いて歩みを進めている。

 そんな「故郷」の現在いまが、ノイズ混じりの通信越しにも、確かな重みを持って伝わってきた。


 一度は完全に断ち切られたと思っていた絆が、再び結び直されようとしている。

 その揺るぎない安心感は、この天井の下で過ごす生活を少しだけ誇らしいものに変えてくれたような気がした。


「……それはそれとして。一食の恨みというものは、そう簡単に消え去るものでもありまへんえ」


 いちことわりからばんに至るまで、師匠の行いは万死に値する、神聖なる食卓への冒涜だ。

 次に繋がる時こそは、奪われた冷やし中華の皿を利息と共に特盛で三杯分は取り立ててやらねばなるまい。


 このやり場のない、切実すぎる空腹の報いも含めて。


 ***


【タイトル:[供儀]天の鳴動と地に咲く彩りの輪舞曲、そして『冷やし中華』の再会】


『――祈り。それは天を引き裂く雷鳴をさえも、聖なる食卓への祝砲へと変える、魂の旋律です。驟雨に煙る午後のひと時、舞い降りたのは懐かしき福音と、現代いまという名の毒に染まりし師の軽妙なる訓戒。不意に漏れ出た「ヤバい」という名の古代魔術スラングに、隔絶された時の流れと、それでも途切れぬ絆の重さを知るのです。供儀として捧げられし『冷やし中華』は、彩り豊かな具材を纏い、酸味という名の慈愛によって、湿り気を帯びた心身を鮮やかに浄化してゆきました。たとえその一器が、掟破りの秘術によって不可視の彼方へ奪い去られようとも。聖女の魂は飽くなき美食の探求を止めず、新たなる福音がもたらされるその時まで、はんなりと、そして貪欲に続いてゆくのです――』


『……「ヤバい」って何よ。聖女様の先生にしては、随分と世俗にまみれた言葉選びじゃないの』

『世俗にまみれているというか……単に、うちより毒されやすいお人なだけどすえ。おまけに食い意地まで人一倍なんどす。キリハラさん』

『まあ、キミを焚きつけた本人なら、それくらい世俗的うさんくさいな方が納得いくけどね。……あ、返信不要。おやすみー』


 #冷やし中華 #夏グルメ #落雷 #聖女の邂逅


お読みいただきありがとうございます。

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