第3話 迷える聖女、宝石箱に隠された『五目ちらし寿司』を授かる
春の訪れを告げるのは、何も桜の開花だけではない。
スーパーの陳列棚がピンクや緑の淡い色彩に染まり、柔らかな苦味と甘みを予感させる食材たちが顔を揃える瞬間こそが、真の春の到来なのだ。
そして何より、風に乗って漂う『酢』の爽やかな香りが、眠っていた胃袋を優しくノックする。
「ご機嫌麗しゅう、街の治安を守る崇高なる騎士サマ。今日も今日とて、その紺色の制服が凛々しく輝いておられますなあ。春の陽光に映えて、ほんまに眩しおすわ」
ガラス戸の向こう側、交番のカウンター越しに声をかける。
椅子に座っていた警察官――桐原八江は、書きかけの書類から顔を上げて、あからさまに呆れたような溜め息をついた。
「いらっしゃい、『はんなり』お姉さん。戸籍の件が片付いてからよく働くわねぇ」
「ふふ、記憶の彼方に消えた無垢なる魂が、この大地に根を下ろしたいう証どす。星の導きは、うちに新たな歩みを許してくれはったんやねえ。ほんま、ありがたいことどすえ」
「その言葉遣いは、いつ改善されるやら。設定もまだ続けるつもりなのね──身元不明の記憶喪失者として保護期間を経て、法的にキミの居住実態が認められたのも、大家さんが身元引受人を快諾してくれたおかげだよ」
大家さんの顔を思い浮かべる。
あの厳つい顔立ちの裏に、どれほどの慈愛が隠されているのか。
こちらの顔を見て「いいツラ構えだ、バクチに強そうだな」と呟きながら判を押してくれたあの姿は、まさに聖域の門番そのものだった。
「ほんまに、大家はんには足向けて寝られまへんわ。うちはただの迷える子羊やのに、保証人になってくれはるなんて。あのお方は、この地において至高の糧を司る、寡黙なる賢者に違いありまへん」
「そこまで知り合いが褒められるのは複雑だけど……。それで、今日は何?またお腹を空かせて交番へ迷い込んだわけじゃないわよね?」
「うちはただ、日頃の感謝と、春の喜びを分かち合おうと参ったんどす。決してそこに鎮座する、鼻腔をくすぐる『酢』の香りを放つ包みが気になったわけやありまへんえ。……ほんまどすえ?」
キリハラさんは、隠しきれていないこちらの視線に気づくと、苦笑しながら包みを引き寄せた。
それは鮮やかな桜色の風呂敷に包まれており、中から爽やかな酸味と甘く煮付けられた具材の香りが漂ってきている。
「……あーもう、分かったわよ。戸籍のお祝いは焼き肉で済ませたけど、これは別件。実家のおばあちゃんが作りすぎたから、はんなりお姉さんにもお裾分けしてあげる。ちょうど休憩に入るところだったし」
「おお、なんと慈悲深い騎士サマのお言葉。暗闇を照らす松明みたいな輝きを感じますえ。さあ、その包みを開いて、春の福音をこの地に解き放っておくれやす。期待で胸がいっぱいどす」
「はいはい、大げさなんだから。ほら、開けるわよ」
風呂敷が解かれ、重箱の蓋が持ち上げられる。
その瞬間、閉じ込められていた鮮やかな色彩と、『酢』の香りが一気に溢れ出した。
湯気こそ立たないが、そこには確かな生命の輝きがあった。
白い酢飯の上に、宝石のように散りばめられた具材たち。
ピンク色の桜でんぶ、黄金色の錦糸卵、新緑のような絹さや、滋味深く味のしみ込んだ蓮根、そして琥珀色に輝く椎茸の煮染め。中央には、真珠のように光を放つ海老が鎮座している。
五感すべてが刺激され、魂が歓喜に震えた。まるでお花畑のような華やかさだ。
「これぞまさに、春の訪れを告げる、色とりどりの福音やわあ。ふふ……騎士サマが、かくも慈悲深い春の恵みを持て余してはるとは。迷える食材たちの救済こそ、聖女たるうちの務めどす。その重い十字架、喜んで共に背負わせてもらいまひょ」
「十字架じゃなくて『五目ちらし寿司』だからね。おばあちゃん、具材を細かく切るのが好きで、すっごく手間がかかってるのよ」
差し出された割り箸と、取り分けられた紙のお皿を、まるで聖剣を受け取る騎士のように恭しく受け取る。
交番のパイプ椅子を引き寄せ、その宝石箱の正面へと陣取った。
間近で見ると、その色彩の暴力はさらに際立つ。
これは単なる料理ではなく、小さな重箱の中に閉じ込められた『春』という概念そのものだった。
「ほな、大いなる春の恵みと、おばあ様の愛に感謝を込めて……いただきますえ。この彩り、まるでお浄土を器の中に写し取ったみたいで、食べるんが勿体のうなってしまいますわ」
「そんなこと言ってるとワタシが食べちゃうぞー。いただきまーす」
こちらの作法に合わせ、箸を伸ばす。
狙うは、全ての具材が混然一体となった黄金のバランス地点。
箸先でそっとすくい上げると、酢飯特有の少し冷たく、それでいて湿り気を帯びた重量感が指に伝わる。
口へと運ぶ。
その瞬間、鼻腔をくすぐる爽やかな酸味。
それは冬の澱んだ空気を切り裂く、春一番の風のようだった。
「ふふ……これは、なんと賑やかな。口の中で、春の精霊たちが舞踏会を開いとるみたいどす。酸味と甘みのステップが絶妙で、うちの舌が喜んで踊り出しそうやわ。ほんま、眼福ならぬ口福どすなあ」
「精霊かどうかは知らないけど、レンコンと椎茸の戻し汁が良い仕事してるでしょ?ウチのおばあちゃん、そこだけは譲らないから」
「ええ、分かりますえ。深淵な大地の記憶を宿した、旨味の賢者どすなあ。この蓮根の歯ごたえが、まるで春の足音みたいに軽快で噛むたびに元気が湧いてくる気がしますわ」
口に入れた途端、酸味が舌を心地よく刺激し、次いで砂糖と塩で絶妙に調味されたご飯の甘みが広がる。
噛みしめれば、シャキシャキとした蓮根の食感がリズムを刻み、甘辛く煮詰められた椎茸からジュワリと溢れ出す旨味の爆弾が炸裂した。
桜でんぶのふわふわとした甘さが、酢飯の酸味を優しく包み込み、えも言われぬ幸福感を演出する。
異世界では、保存食としての酢漬けはあったが、これほどまでに『酸味』を『美味』へと昇華させた料理など存在しなかった。
酸っぱいのに、甘い。冷たいのに、温かい。
相反する要素が、見事な調和を保って共存している。
「不思議な食べ物どすなあ。色んな具材散りばめられとるのに、決して喧嘩せんとて、お互いを引き立て合うてるわ。まるで、この街を象徴するかのようどす。うちも、この具材みたいに馴染めてるやろか」
「また大げさな表現を……。でもまぁ、『ちらし寿司』ってのは、将来食べるものに困らないようにとか、彩り豊かに育つようにって願いが込められてる縁起物だからね」
「縁起物……願いどすか……。それはまた、なんて温かい魔術なんやろ。誰かの幸せを祈りながら具材を刻む時間は、きっと神殿の祈祷よりも尊いものに違いありまへんわ」
箸を止め、重箱の中の鮮やかな色彩を見つめる。
家族のために、見ず知らずの他人のために、手間暇をかけて具材を刻み、願いを込めて調理する。
その行為こそが、かつて神殿で捧げていた祈りよりも、よほど尊く、力強い魔術のように思えた。
「……キリハラさんの騎士道精神の源泉は、おばあ様の愛にあるんやね。この酢飯の一粒一粒に込められた優しさが、騎士サマの強靭な胃袋と正義感を育んだんやわ。うちも、あやかりたいもんどす」
「強靭な胃袋は余計よ。……で、味はどうなの?合った?」
「合うもなんも、魂が浄化される心地どすえ。特にこの、黄色い細切りの卵……『錦糸卵』いうん?これが雲のように軽やかで、かつ濃厚。ほんま天使の羽衣みたいで、口の中で溶けてしまいますわ」
パクパクと、行儀悪くも箸が止まらない。
『酢』のさっぱりとした後味が、次の一口を無限に誘発するのだ。
何度取り分けてもらったであろう。重箱の底が見え隠れしていた。
この満腹感と幸福感。これこそが、何よりの報酬であり、生きる糧だ。
「……ふぅ。ごちそうさま、どした。春の息吹、確かにこの身に宿しましたえ。これでまた明日から、聖なるアルバイトに精を出せそうどす」
「ごちそうさまでしたっ。どこに収まっているのか不思議なくらい綺麗に食べたわねぇ。おばあちゃんも喜ぶわ」
空になった重箱を満足げに見つめ、キリハラさんから差し出された熱いお茶を口に含む。
ふと窓の外を見れば、春の陽だまりがアスファルトを照らしていた。
本来ならば、この満ち足りた魔力を使用して、元の世界へ帰るための痕跡を探すべきなのだろう。
あるいは、古代の文献を求めて、図書館へ赴くべきかもしれない。
だが、胃袋が満たされ、お茶の温かさが全身に染み渡った今、そんな焦燥感は春の霞の彼方へと消え去っていた。
「それで、例の『帰る方法を探す』ってやつ、進展はありそうなの?」
「ふふ……星の巡りは、まだその時と違う知らしてはりますわ。それに、春を味わい尽くすまでは、本格的な調査は無粋どす。今はただ、この街の春を慈しむのが、うちの使命やと思っとります」
「お、おう……。本人が納得してるなら、まぁいいや。おばあちゃんへ報告するから、一枚撮らせてもらうわよ。はい、チーズ」
キリハラさんが取り出したのは、例の光る板――スマホ。
この世界の人間が、魂の一部を切り取って保存するために使う魔道具だ。
おばあ様への報告とあらば、聖女として最高に神々しい姿を残さねばなるまい。
「聖女が感謝の祈りを捧げるポーズ、とくとご覧あれ。これで、おばあ様にもうちの感謝の波動が届くはずどす。光の加減はよろしおすか?」
「いや、普通にピースでいいから。あと、その糸目は開かないの?」
「心の瞳で見ているので問題ありまへん。さあ、写し絵の儀式をおくれやす。うちの精一杯の笑顔を、その板に刻み込んでほしいんどすえ」
居住まいを正し、空になった重箱を、まるで聖遺物を捧げ持つかのように胸の高さへ掲げた。
カシャッ、という無機質な音が響く。
「……うーん。なんか、『幸せになる壺』を売りつけてきそうな笑顔ね。まっ、これでおばあちゃんが喜ぶことは確定かな」
「これは慈愛に満ちた聖女の微笑みどすえ?壺やなくて、幸せを配るお役目どす。……あ、でもその壺、おいくらで売れそうどすか?」
「知らんって。さて、写真も撮ったしお腹もいっぱいになったでしょ?はい、休憩終了。ほら、行った行った。何かあったら通話なり、メッセージなり、遠慮せずにしなさいよ」
感傷に浸る間もなく、キリハラさんはシッシッと手を振って、こちらを追い立てにかかる。
食べ物の恨みは恐ろしいと言うが、食べさせた恩を即座にチャラにする、このドライさ。
これこそが、彼女がこの街で治安を守れる秘訣なのだろう。
背中を押され、春の日差しの中へと放り出される。
ガラスの向こうで、キリハラさんはすでに真剣な表情で書類に向き合っていた。
口元が緩む。
邪険な扱いをしながらも、その机の端には、先ほど撮ったスマホの画面が表示されたままになっているのを、聖女の目は見逃さない。
「さて……帰ったらこの感動を綴らなあかんね。おばあ様の魔術の凄さ、世界に知らしめてあげまひょか」
歩き出しながら、脳内で次なる福音のタイトルを練り上げる。
春の陽気と、酢飯の酸味、そして不器用な優しさ。それらを表現するには、ありきたりな言葉では足りない。
【タイトル:[春雷]酸味が織りなす桜色の宝石箱、祈りが込めた『五目ちらし寿司』にまつわる未来への彩りについて】
「……完璧どす。まさに春爛漫、平和な昼下がりやねえ。次はどんな美味しいもんが、うちを待っててくれはるんやろか」
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