第29話 黄昏の聖域に響く孤独の和音と『だし巻き卵』の福音
いちごオレの子の二人称を修正。
西日に焼かれたアスファルトが、残暑の名残を惜しむように熱を放っている。
夕刻のスーパーマーケットの入り口には、さながら禁断の果実を求める軍勢の如き熱気が渦巻いていた。
目的はただ一つ。白き宝珠――卵の特売。
「あらまあ……。んにゃ丸、見ておくれやす。この熱気、まさに命の根源を懸けた聖戦どすなあ」
「んにゃ~ん」
「せやね。今日こそはあの黄金色に輝く『だし巻き卵』をあばら家へ招き入れたいんどす」
保冷バッグを戦斧の如く握りしめ、主婦たちの執念が渦巻く列の最後尾へ身を投じた。
お一人様二パック限りの限られた福音。
一人暮らしの質素な食卓に、ふっくらとした温もりをもたらすための試練としては、これ以上ない舞台といえる。
「……あれ、またアンタか。変な店員。こんなとこで何してんの」
静寂を望む背中に、硬質で、しかしどこか幼さの残る声が突き刺さった。
振り返れば脱色された髪を乱暴にまとめ、スカジャンを羽織った少女が立っていた。
深夜のコンビニで『いちごオレ』を奪い去るように買っていった、あの時の――。
「あら、いちごオレの子。偶然の再会どすなあ。この黄昏時に、孤独な魂が生活の聖域に導かれるとは。もしかして、あんさんも卵の洗礼を受けに?」
「そんなわけないでしょ。ただ、家の冷蔵庫が空っぽだったのと……うるさくて、居場所がなかっただけ」
「居場所どすか?駐車場で賑やかに排気音を奏でる、あのやんちゃなツーリングクラブの騎士はんたちではなく?」
「……最悪。アイツら、ただうるさいだけで大嫌い。ああいうの見て、あーしが仲間だと思われてるのが一番腹立つの」
「これは失礼いたしましたえ。……ですが、今のあんさんはまさに天からの遣い。うちはどうしても、四パックを手に入れたいんどす」
「はあ?何言って――」
「――聖なる共犯関係、結んでくれまへんやろか。うちが二パック、あんさんが二パック。代金は勿論うちが持ちます。その報酬として、うちの質素な夕餉の仲間になってくれまへんか?」
「卵買うだけでそんな大袈裟な。別に並ぶくらいなら減るもんじゃないし、いいけど。暇だし、付き合ってあげる」
ぶっきらぼうに言い捨てつつも、彼女は隣に一歩、歩み寄った。
特売開始の鐘が鳴る。
その瞬間、穏やかだったスーパーの空気は一変し、さながら生存圏を懸けた蛮族の侵攻の如き喧騒が沸き起こった。
「作戦開始どす!手を離しなや、人波の激流に呑み込まれたら最後、レジという名の彼岸へは辿り着けまへんえ!」
「ちょ、分かってるってば!なにこれ、みんな必死すぎでしょ!痛っ、押さないでよ!」
「んにゃぁああ!」
「これぞ現世の縮図、お互い様という名の無礼講どす!ほら、右前方三十度……黄金の山が見えてきましたえ。んにゃ丸、足元の哨戒お頼み申しますえ!いざ、突撃どす!」
押し寄せる主婦はんたちの圧力は、さながら城壁を穿つ破城槌の如き重圧を伴っていた。
彼女はその細い肩をすくめ、不慣れな戦場で翻弄されている。
その足元では、んにゃ丸が弾丸のような素早さで人の間を縫い、進路を確保しようと奮闘していた。
「うわ、もう無理!足踏まれた……っ、てか、誰よ今の肘打ち!最悪、マジで痛いんだけど!?」
「んにゃ、にゃあ!」
「案じることはありまへん!その痛みは明日への滋養、聖なる傷跡どすえ!んにゃ丸もあんさんを鼓舞しとります!ささ、今が好機!隙間を縫って、二パック確保お頼み申しますえ!」
「もう、……分かったわよ!ほら、取った!取ったから!早くここから出して!」
「見事な果敢さ、まさに聖戦士の鑑どすなあ!うちも二パック確保いたしましたえ。さあ、撤退どす!殿はうちとにんにゃ丸が務めますえ!」
怒号と熱気が渦巻く中、奇跡的な連携で四つのパックを死守し、人波を泳ぐようにして脱出した。
レジを抜き駐車場へ。朱に染まった空が戦果を称えている。
「ふう。死ぬかと思った。スーパーの特売って暴走族よりよっぽど暴力的じゃない」
「さようどすな。生きるための貪欲さは、時としてどんな法をも超越いたしますえ。協力に感謝いたしますえ……。あら、そういえば」
保冷バッグを抱え直しながら、重要な欠落に気づいた。
「うち、あんさんの高貴なる御名をまだ拝聴しておりまへんでしたわ。いつまでも『いちごオレの子』と呼び続けるのも、聖女としての礼節に欠けるどすなあ」
「あーし?別に、なんでもいいけど。……いちか。紅月いちか。アンタは?」
「これはまた、暁の光を予感させる素敵な響きどすなあ。うちはハンナリエル。今は迷える子羊たちを導く、はんなり系フリーターどす」
「……はんなりエル?なにそれ本名?変わってんね。てか、聖女とか」
ぶっきらぼうな彼女の言葉に、はんなりと微笑みを返した。
イチカさん。不意の共闘とはいえ、彼女がいなければこの四パックを揃えることは叶わなかった。
「あんさん。この卵は命の源泉、そして今日という戦場を共に駆け抜けた絆の証どす。協力の証としてうちのあばら家で黄金色の慈悲――『だし巻き卵』を食していきまへんか?」
「はあ?なんであーしが。お礼ならいらないってば」
「いえいえ、これは聖女としての矜持どす。極上の出汁を纏いし黄金の一巻、温かいうちに分け合うのが真の巡礼者というものどすえ。それに、んにゃ丸もあんさんに御挨拶したがっとりますわ」
「んにゃにゃ!」
「……んにゃ丸?この子の名前なんだ。まあ、暇だし、卵焼きくらいなら付き合ってあげてもいいけど。不味かったらすぐ帰るから」
「ふふ、腕によりをかけまひょ。では、コンビニで『いちごオレ』を調達していきまひょか」
「アンタ、やっぱり変。でも、いちごオレは賛成」
***
六畳一間のアパート『ことほぎ荘』。
傾いた古びたドアを開けた瞬間、イチカさんは露骨に顔を顰めた。
「……なにここ。本当になんにもないのね。てか、ここもしかして事故物件?ミシミシする音が聞こえるんだけど」
「ふふ、案ずることはありまへん。この音色は、歴史を刻んだ柱たちが奏でる歓迎の聖歌どすえ。さあ、遠慮せんと上がりやす」
「あーし、潔癖症じゃないけど……この狭さは逆に新鮮かも。んにゃ丸、キミはこんなとこで飼われてるの?狭くない?」
「んにゃぁ~」
狭いキッチン。二口あるはずのコンロは調理器具が乗ったまま。
買いたての卵を並べ、イチカさんの視線が刺さる中で深呼吸を一つ。
「さて、いざ『だし巻き卵』、開始いたしまひょか」
「ねえ、アンタ。本当に大丈夫?さっきから卵の殻、三回くらい飛ばしたでしょ。今のも殻入ってるってば」
「あ、あれ?おかしいどすなあ。『ふわとろオムライス』の時は成功したはずやのに。女神サマ、今日は少々御機嫌斜めのようどす。うちの指先と呼吸が合わへんどす」
「神サマのせいにすんな。……貸して、あーしが取るから。アンタ、火加減強すぎ。焦げちゃうってば。見てて怖いわ」
イチカさんの鋭い指摘を浴びながら、使い込まれたフライパンに黄金の液を流し込んだ。
快音が狭い部屋に響き、出汁の芳醇な香りが一気に立ち上がる。
「あわわ、巻かなあかん……!巻かなあかんのどすが、菜箸が反抗期どす!」
「反抗期なのはアンタの手でしょ!あーもう、ほら、そこ。ひっくり返して!……あ、破けた。もうボロボロじゃん」
「んにゃっ!?」
「案じることはありまへん、んにゃ丸!この歪さこそが世俗の苦難を象徴する造形美どす。女神サマ、今この瞬間、うちの指先に奇跡の加護を……!」
料理の心得など、この世界に来てから独学で身につけた端くれに過ぎない。
だが、隣で見守る影のある少女の冷え切った胃の腑を、この一切れの温もりで解かしたいという一念があった。
必死に形を整えフライパンを返し、どうにか皿の上に鎮座させたのは――。
少し不恰好で両端が不揃いな、しかし震えるほどに柔らかな『だし巻き卵』だった。
「……はい、はんなり聖女特製、黄金色の慈悲どす。不器用な一発勝負、冷めないうちに召し上がれ」
「不恰好すぎ。卵の形っていうか、石けずったみたいな形してんじゃん」
イチカさんは呆れたように溜息をついたが、割り箸を割る手には迷いがなかった。
一切れ。震える黄色い塊を口に運び、ゆっくりと咀嚼する。
「……ん」
「お口に合いまひょか?」
「普通。けど、なんて言うか。左右対称で完璧な形をしたやつより……なんか落ち着く味。これ、出汁を入れすぎじゃない?全然止まってないんだけど」
「ふふ、それはうちの真心が溢れ出しとるんと違いますやろか」
「アンタ、やっぱり変。でも……悪くない。不味かったら不味いって言うつもりだったけど、これ、また作ってよね」
「なんならおかわり作りまひょか~?」
「今はいいってば。お腹いっぱいだし。っていうかアンタ、食べ終わったんなら……ほら、これ」
イチカさんがぶっきらぼうに差し出してきたのは、先ほどコンビニで買ったばかりの、大きなパックの『いちごオレ』だった。
「あら。これはイチカはんの聖水、至高の嗜好品どすなあ。うちが頂いてしまってもよろしいんどすか?」
「だ、誰もあげるなんて言ってないでしょ。……半分だけだよ。アンタ、卵焼くのに必死で喉乾いてそうな顔してたから。あーし、別に優しいわけじゃないし」
「ふふ、かたじけないどすなあ。では、ありがたく……」
「ちょっと、直飲み禁止ね!コップくらいはあるでしょ!」
「心得ておりますわ。……ん、甘いどすなあ。この脳を直接撫でられるような甘美な痺れ……。まさに孤独を溶かす雫どすえ」
「でしょ。これ飲んでると、なんか……いろいろどうでもよくなるっていうか。……アンタ、また変なこと言ってるけど、気に入ったんなら、また卵焼いた時に飲ませてあげてもいいよ」
夕闇が迫る中、並んでいちごオレを嗜んだ。
一人なら軽かったはずの卵の重みが、今は不思議と、心地よい生命の拍動として胸に伝わってくる。
砂を噛むような孤独は、不器用な黄金色の救済によって、静かに解かされていくのだった。
***
【タイトル:[供儀]灼熱の戦場に咲く黄金の救済と『だし巻き卵』の洗礼】
『――祈り。それは生活という名の過酷な戦場で、一握りの黄金を掴み取らんと奔走する魂の叫びです。猛き主婦たちの軍勢が渦巻くスーパーマーケット、そこで勝ち取りし二つの宝珠。不器用な指先で熱を加え、幾重にも真心を重ねていけば、そこには不恰好ながらも神々しい輝きを放つ『聖遺物』が誕生します。立ち上る出汁の香気は安らぎのヴェールとなり、孤独を纏った少女の心さえも優しく解きほぐすのです。分け合う『だし巻き卵』の喜びは、甘美なる『いちごオレ』の如き滴となり、不器用な一巻こそが、現代という名の荒野を照らす最も確かな灯火となるのです――』
「アンタ、次はもっとまともな形のやつ焼いてよね。……ほら、んにゃ丸がまた狙ってる」
「んにゃぁああ」
「イチカはん。美味しいものを前に理性を保つのは、聖者であっても至難の業どすえ。さあ、冷めないうちに最後の一切れを分け合いまひょ」
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