第28話 水面に揺らぐ危うき境界と、乾きを癒やす『ラムネ』の福音
夜の帳が降りた安らぎのなか、枕元でスマホが微かに震えた。
画面に浮かんだのは、柳原奏音――カノンさんからのメッセージ。
『ハンナリエル、プールの仕事はどう?私は最近、肌の機嫌が悪くて困っちゃう。日焼けをするとすぐに赤くなって、熱を持っちゃうの。だから、この季節のお出かけはちょっとした冒険ね』
『カノンはん、それは難儀なことですなあ。うちは今、太陽と対峙する日々を過ごしておりますえ。日焼けは聖女の刻印のようなもの。でも、カノンはんの白き肌が赤く染まってしまうのは、どこか痛ましく感じますわ』
『くふふっ。聖女の刻印だなんて。でも、熱中症には本当に気をつけて。私もせめて海や川で冷たい水に足を浸すくらいはしたいけれど』
『さようどすな。全身を浸さずとも、ただ足首を清冽なる水流に委ねるだけで魂の火照りは静まるもの。いつか、カノンはんをうちの知る『涼やかなる聖域』へお連れしたいものですわ。そこなら陽光を遮る深き緑がございますえ』
『それは楽しみね。お仕事、頑張りすぎないようにね』
画面を閉じ、仰向けに横たわる。
目を閉じれば、今も網膜の裏側で水面の乱反射が踊っている。
また、あの青き深淵を見守る務めが待っている。
***
「……あちち。今日も今日とて、世界は火刑に処されておりますなあ」
監視塔の上で一人、熱波の洗礼を受ける。
天を仰げば、空は透き通るような冷たさを装いながら、実際には地上の生命を無慈悲に炙り立てていた。
だが、そんな蜃気楼の揺らぎを貫くように、見知った人影がこちらへ近づいてくる。
「その仏頂面。設定を守りすぎて本当に悟りでも開きかけてるわけ?」
聞き覚えのある、涼風のような――それでいて鋭い声。
視線を落とせば、そこには非番のはずのキリハラさんの姿があった。
「おや、キリハラはん。今日は不審者の討伐ではなく、巡礼での降臨どすか?」
「仕事が非番だってのに、キミの顔が浮かんで不吉だったから偵察に来てあげたのよ。ほら、監視員。持ち場を離れちゃダメでしょ」
「心得ておりますわ。ところで、その装束……なかなか、勇ましいどすな」
キリハラさんが纏っているのは、凛さんのそれによく似た、紺色の機能性水着。
過剰な装飾を排し、水との調和を優先したその姿は、警察官としての生真面目さをそのまま形にしたようで、どこか凛々しい。
「泳ぐならこれが一番効率的だって。キミみたいに水着を『聖衣』なんて呼ぶ変人の相手をするには、これくらい動ける格好じゃないとね」
「キリハラはん、その姿やとプールの治安を乱す狼藉者たちも、その眼力一つで平伏してしまいそうどすわ」
「キミね……警察官をなんだと思ってるのよ。ワタシはただ、市民として泳ぎに来ただけ……で、どう? 聖女様の監視は」
「さようどすなあ。水面に映る人々の欲動と静まり返る底知れぬ深淵。その境界を見守る日々は、まさに精神の限界を試される苦行どすえ」
「はいはい、お疲れ様。で、昼休みは何を食べるつもり? また炭水化物の暴力に身を委ねるわけ?」
「ふふ、キリハラはん、うちの嗜好をよう分かっておいでどすな。今日は何を所望しまひょか……」
そんな他愛もない、気楽でくだらない言葉の応酬。
規律を重んじる彼女が、非番の日にわざわざ不審者のために足を運んでくれる。
その事が、灼けた身体にどれほどの微風を運んでくれるか、彼女は知る由もないだろう。
「キミのその糸目が時々、真っ黒な深淵に見えるのが怖いのよ……ほら、あっちの子、走り出したわよ」
「コラー!走ったらあきまへんえ!飛沫とともに魂まで飛ばしてしまいますえ!」
「注意の仕方を少しは考えなさい。ほら、ワタシも少し泳いでくるわ。溺れたりしたら聖女様の力で救ってちょうだいね」
「縁起でもないこと言わんといておくれやす。無事の帰還を楽しみにしておりますえ」
キリハラさんは軽く手を振ると、迷いのない足取りで水の中へと消えていった。
***
――異変は、唐突に訪れた。
喧騒のなか、不自然に欠落した静寂。
水面が僅かに、呼吸を忘れたかのように引き攣る。
監視塔の上で、脊髄を冷たき戦慄が駆け抜けた。
(……!!)
思考よりも早く、魂の奥底で眠る根源の力が目覚めていた。
人目を憚る理性よりも、失われゆく命への慈悲が指先を動かす。
かつて世界を癒やし、あるいは守護した、聖なる『理』の行使。
「――主よ、この静寂なる深淵を、我が腕のなかへ」
唇が、無意識に古の祝詞を紡ぐ。
監視塔を蹴った瞬間、足下で水面が「道」となった。
物理法則を嘲笑うかのように、沈みゆく影へと向かって、水の上を滑走した。
背後に尾を引くのは、飛沫という名の輝ける銀河。
周囲が「えっ?」と息を呑む暇すらない。
時間の流れを歪めたかのような神速。
水しぶきすら上げず、直接、蒼き深淵の手から少女を奪い取った。
「案じなさんな。うちはここに……おりますえ」
少女の細き体を腕に抱き、逆巻く水流を優しく鎮めながら、一気に岸辺まで到達した。
周囲は騒然となっていた。
監視員たちが駆けつけ、キリハラさんも驚愕のあまり引き上げようとした腕を止めたまま、凍りついたように注視している。
講習で習った知識を正確に紐解きつつ、微かな魔力を通わせて少女の気管を浄化する。
少女を横向きに寝かせ、背を優しく叩く。
ほどなくして、少女は「ゲホッ」と水を吐き出し、大きく呼吸を再開した。
「……う、うわあああああん!」
恐怖の波が遅れてやってきた少女が、堰を切ったように泣き叫ぶ。
震える小さな肩。
泥だらけの絶望を包み込むように、少女を優しく力強く抱擁した。
「よしよし。もう大丈夫どすえ。あなたは水鏡の精霊に少しだけ悪戯されただけどす。うちはあなたの味方どすよ。ほら、ゆっくりと天を仰いでおくれやす」
それは、実戦的な救護技術ではない。
ただ、かつて多くの傷ついた魂を癒やしてきた、聖女としての本能が少女の怯えた心を温め、安堵の光を灯していく。
胸に顔を埋めた少女は、やがて呼吸を整え、微かな安堵の吐息を漏らした。
周囲から、安烈な溜息と、爆発的な歓喜の喚声が沸き起こった。
水面を駆けるという、物理法則を冒涜するかのような不可解な現象。
しかし、この街の人々は知っていた。白昼堂々、古風な衣服を纏いはんなりと微笑みながら、胡散臭き奇跡を小出しに振りまく「あの聖女」のことを。
「……また、あの聖女様がかましたのか?」
「道理じゃないけど、まあ、あのお姉さんなら……な!」
あり得ぬ奇跡への畏怖よりも、目の前で幼き命が紡ぎ止められたという、圧倒的な善意の勝利。
誰からともなく始まった拍手は、波紋のようにプールの縁を伝わり、夏の陽光に溶けていった。
「新人さん!!あんた、最高だよ!!信じられない、本当に救世主じゃない!!」
監視員のセンパイさんが、弾けるような歓喜を爆発させながら駆け寄ってきた。
その小麦色の肌は興奮で上気し、太陽さえも気圧されるほどの輝きを放っている。
「センパイさん。うちは、ただ……」
「いいのよ、理屈なんて!あんたがいなきゃ、あの子は……本当にありがとう!!」
センパイさんは肩を力強く掴み、何度も何度も揺さぶった。
その無骨な掌から伝わる熱量は、言葉以上に胸を熱くさせる。
そこへ、水を滴らせたキリハラさんが、震える肩を抱きながら歩み寄ってきた。
「……ハ、ハンナリエル」
「キリハラはん。ご無事で何より……」
「キミ、バカじゃないの!?あんな無茶して……でも、でもね」
キリハラさんの鋭き瞳が、今は剥き出しの真理と、隠しきれぬ慈愛で潤んでいた。
彼女は両手をぎゅっと握りしめると、これまでの毒舌など微塵も感じさせない、熱き魂の叫びを放った。
「よくやったわ!本当によくやったわ!ハンナリエル、キミは最高によくやったわ!!」
三度繰り返されたその言葉は、警察官としての規律も、一個の人間としての躊躇いも超えて、魂へと直接打ち込まれた。
「キリハラはんに、そこまで言われてしまうとは……光栄を通り越して、恐縮してしまいますわ」
「当然でしょ!ワタシ、見てたんだから!キミがどれだけのお節介焼きで、どれだけ頼りになる設定の聖女様か、世界中に言いふらしてやりたいくらいよ!」
「あはは、それは勘弁してほしいどすなあ。うちはしがない監視の徒……少し、祈りが通じただけのこと、どす」
照れ隠しにはんなりと微笑む。
あり得ない現象、物理法則の蹂躙。
そんな不条理など、彼女たちの放つ眩き生命の輝きの前では、もはや語るに足らぬ余興に過ぎないのだ。
「ま、怪奇現象については後でたっぷり問い詰めるけど……今は、あの子が笑ってる。それだけで十分ね」
「さようどすな。命の輝きこそが、この救済の最大の報酬どすえ」
***
閉園の鐘が響き、燃えるような夕陽がプールを朱に染め上げる。
人影が消えた静寂の淵で、売店のベンチに腰を下ろしていた。
「お疲れ、新人さん。はい、私からの奢り。今日は本当にかっこよかったわよ」
センパイさんが差し出してくれたのは、琥珀色に透き通る『ラムネ』の瓶。
隣には、まだ興奮の余韻を隠しきれないキリハラさんも座り、同じ瓶を手にしていた。
「……いただきますえ。今日は、なんだかこの瓶の重みがいつもよりずっしりと感じられますわ」
栓を押し込めば、ビー玉がカランと清らかな音を立てる。
立ち上る気泡。口に含めば、炭酸の刺激の後に懐かしくも優しい甘みが喉を潤していった。
いつもなら、この瞬間の「味」について語り継ぐところだが、今はただ、静かにその冷たさを噛み締めたい気分であった。
夕日に照らされた水面のように、心は静かに、しかし深く満たされている。
「……ねえ、ハンナリエル。キミがどんな『設定』を抱えていようと、今日あの子を救ったのは事実よ。ワタシ、キミを友人に持って少しだけ……いえ、かなり誇らしかったわ」
「キリハラはん、今日は滅多にないほど素直どすな。明日は槍でも降るのではありまへんか?」
「うるさいわね!せっかく誉めてあげてるのに!」
ふふ、とはんなりと微笑む。
美食は何物にも代えがたい救いだが、こうして一つの命が紡ぎ止められ、それを共に見守った者たちと静かに飲み物を分かち合う時間は、何よりも得がたい報酬のように思えた。
「よーし!今日は新人さんのお祝いだ!キリハラさんもこの後どう?私、奮発しちゃうよ!」
「いえ、今日はワタシが奢るわ。あまりにも気分がいいから焼肉にでも行きましょう」
「焼肉……!聖なる肉の供儀どすか!喜んでお供いたしますわ」
その時、校門の影から、待っていたかのように丸っこい白き影が躍り出た。
「門」の監視という名の散歩を終えた、んにゃ丸である。
「んにゃあ!」
「あ、んにゃ丸。ちょうど良いところに来ましたなあ」
「その子も連れて行く気?……あ、あそこの個人店なら座敷の端っこに入れてもらえるかな。顔見知りだし融通が利くから」
「助かりますわ。んにゃ丸も頑張ったご褒美を分かち合いたいと思っておりましたので」
「んにゃ!んにゃあ!」
「あははっ、人懐こい子だね、新人さんのペット?器用に二本足で歩いてご主人を迎えにくるなんて!」
「相変わらず猫のように見えて明らかに猫ではない、不思議な生き物ね。まっ、食べても問題ないなら一緒に行くわよ!」
「んにゃあ!」
救われた命の熱量と、これから始まる宴の予感。
夏の夜気は、いつになく軽やかで、優しい福音に満ちていた。
***
【タイトル:[守護]水面に揺らぐ危うき境界と、乾きを癒やす『ラムネ』の福音】
『――水辺の監視者として、私は今日、最も尊き糧を賜りました。それは黄金のポテトでも、碧き氷でもなく、この腕の中に確かな熱を持って戻ってきた「命」という名の福音でした。任務の終わりに、戦友たちと分かち合った『ラムネ』。ビー玉の奏でる音色は、張り詰めていた魂を優しく解きほぐす安らぎの旋律であります。救済の余韻を胸に、私は再び聖なる円卓――焼肉という名の供儀へ向かうことでしょう。この夏、救われた輝きは、私の魂に永遠に刻まれることになります――』
「キミ、今日は本当に……お疲れ様。焼肉、遠慮しないで食べなさい」
「心得ましたわ。キリハラはんの慈悲、骨の髄まで噛み締めさせていただきますえ……あ、んにゃ丸、網に手を出しちゃあきまへんえ!」
「んにゃあ!」
「賑やかで楽しいな!新人さん、キリハラさん、よかったら友達になろうよ!」
「ええ、喜んで!」
「ワタシも!」
「んにゃ!」
#ラムネ #焼肉 #水辺の終焉 #聖女の救済
お読みいただきありがとうございます。
祝日であることを忘れていました。




