第27話 無垢なる水辺の喧騒と、黄金色に輝く『フライドポテト』の洗礼
早朝の湿り気を帯びた空気が、スマホの微かな震動によって波打った。
枕元で明滅するのは「アスカ」の四文字。
かつて美食という名の迷路で巡り合い、今や不可思議な機縁で結ばれた友人からの着信である。
「……おはようさんどす。こんな早うから、何事どっしゃろ。アスカはんの辞書に二度寝という慈悲深い言葉はありまへんの?」
『あはは、おはようハンナリエルさん!格好いいこと言ってもダメだよー。日記見たよ、今日もプールのお仕事でしょ?』
スマホの向こうから夏の陽光を純粋培養したような明るい声が、こちらの眠気を鮮やかに薙ぎ払っていく。
アスカさんの声はいつ聞いても周囲の気圧を僅かに高めるような、抗いがたい熱量に満ちていた。
「さようどす。今日もまた、蒼き水面を神と崇める求道者たちの安全を高い玉座から見守る聖務が待っておりますわ」
『いいなぁ、プール!キラキラした水辺で涼みながらお仕事なんて聖女様みたいじゃない!アタシなんて今日もスタジオに軟禁だよ。羨ましすぎて、もう干からびちゃいそう!』
羨ましいとはまた。
彼女の脳内にある「プール」という楽園と、現世の過酷な「労働」という修練場の間には、マリアナ海溝よりも深い認識の乖離があるようだ。
「アスカはん、水辺とは申しましても、うちは水に触れることすら許されぬ監視の徒どすえ。灼熱の監視塔で供儀に供される心境は、涼やかさとは程遠き、砂漠の孤独に似たものどす」
『えー、そうなの?でも、仕事が終わったら思いっきり飛び込めるんでしょ?アタシも変装して遊びに行っちゃおうかな!水着と潜水セット持参で!』
「あきまへんえ。アスカはんのような眩き御方がこんな庶民の泉へ降臨されたら、プールサイドがたちまち狂乱の祝祭と化してしまいますわ。うちはこれ以上、事故の火種——いえ、騒乱の兆しを増やしたくはありまへん」
『ぶー、ハンナリエルさんのケチ!でも、熱中症には本当に気をつけてね。水辺の照り返しって、じわじわ魂を削って回路を焼き切るんだから!』
「ご心配、痛み入りますわ。では、そろそろ戦場へと向かう時間どす。アスカはんもお仕事、立派に成し遂げておくれやす」
『はーい!終わったらまた日記更新してね。食の教典、正座して待ってるから!』
通話を終え、短く、しかし深い吐息を漏らした。
アスカさんの天真爛漫な響きに僅かばかり魂の強張りが解けるのを感じながら、二日目となる監視塔への行幸に向け心を決然と研ぎ澄ませたのである。
***
「……梅雨、どこへ家出してしまいましたやろか」
監視塔の頂、風さえも熱を帯びた壇上で一人呟く。
天には雲ひとつなく、残酷なまでに澄み渡った空が無限に広がっている。
水面が反射する光の粒は、もはや網膜を直接穿つ魔術の如き鋭利さを備え、視界を白銀に染め上げていた。
ここは市民プールにしては、どこか華やかな空気が漂っている。
充実した売店や小洒落たパラソルが並ぶ光景は、ささやかな贅を尽くした空間だ。
「あははっ!本当だよね、ハンナリエルさん!この暑さ、情緒もへったくれもないよ!」
眼下から降ってきた快活な破砕音に視線を落とせば、そこには見覚えのある、生命の躍動を体現したような少女たちがいた。
ポニーテールを揺らし、眩しそうに目を細めるチサトさん。その隣にはどこか冷涼な、冬の静域を纏ったようなリンさんの姿。
「チサトはん、リンはん。炎熱の地へ、ようお越しやす」
「大げさだってば!ただのプールだよ?私たちはリフレッシュっていうか。学校のプール掃除、散々手伝わされたのに、肝心の水には浸かってなかったから、その反動っていうか……今日は完全に気分転換!」
「さまになってる。不純を許さない古の神殿の守護者みたいな威圧感。悪くない」
「リンはん、お褒めに預かり光栄どす。うちはただ、この灼熱の中で理性の細き糸をたぐり寄せ、現世に留まっているだけで精一杯どすえ」
二人は飛沫が弾けるプールサイドの縁に並んで立った。
チサトさんが纏っているのは、装飾を排した鮮やかな単色のビキニ。
しなやかにして女性らしいメリハリのある輪郭を際立たせ、周囲の視線を無意識に惹きつけていた。
対してリンさんは、紺一色のスイムスーツ。
学校指定の選択肢の中から「最も泳ぎやすそうだったから」という理由だけで選ばれたそれは、装飾性とは無縁の機能美の塊。
その布地の下に秘められた肉体はどこか通じるような、無駄のない聖女然とした清廉な佇まいを見せている。成長期の瑞々しさを湛えつつも、透明感を放っていた。
「二人とも、水着がよう似合うてはりますな。夏の色彩と成熟の理をそのまま形にしたようどす」
「えへへ、これ去年のなんだけど、ちょっとキツくなっちゃったかな。凛ちゃんのは学校の選択肢にあったやつだよね?」
「あたしのは実用性重視。水との摩擦を零に近づけるための機能美。……授業以外で泳ぐ予定なんてないし、これで十分」
「もうっ、凛ちゃんは相変わらずだなぁ。せっかくの夏なんだから、もっと可愛いのを着てみようよー。ねえ、ハンナリエルさん。今度、三人で新しい水着を買いに行きませんか?」
「新しい水着、どすか」
思わず、二の足を踏んだ。
今の機能性のみを追求した監視員用の水着でさえ、十分すぎるほどの大胆な衣服、いわば肉体の暴露に思える。
この無駄のない肉体、すなわち「聖なる器」をこれ以上過剰な装飾や色彩で飾り立てるなど、観る者の理性を揺るがす禁忌の術、あるいは神威の過剰供給に繋がるのではないか。
「想像するだけで賑やかな巡礼の旅になりそうどすな」
「よーし、決まり!休みに入ったら街で一番オシャレな店を襲撃しよう。で、新しい水着を買ったら……今度は本当の遊びとして泳ぎに来ようよ!」
「……まあ。確かに、学校指定の装備だけではレジャー用としての汎用性に欠ける。不測の事態に備えて予備を確保しておくのは理にかなっている」
「凛ちゃんの言い方!とにかく!ハンナリエルさんはお仕事頑張ってね。暑さに負けちゃダメだよ?」
「チサトはん……その眩き激励、魂の深淵まで届きましたわ」
二人はひらひらと手を振ると、弾けるような音を立てて水の中へと向かっていった。
ドーナツ状の浮き輪に二人で身を任せ、流れるプールをゆったりと漂う姿は、現世の重力から解き放たれた精霊のようだ。
かと思えば、直線の競泳エリアに移動した途端、リンさんが鋭い水しぶきを上げて、迷いのないストロークで水面を切り裂いていく。
一筋の光の如く突き進む彼女の背筋は、まさに機能美を体現する戦士の如き凛烈さを放っていたのである。
彼女たちの眩き若さ、迷いのない生命力は、この苛烈な陽光の下でさえ決して枯れることのない水脈のように、荒んだ心に瑞々しさを与えてくれた。
***
「ハンナリエルさーん!やっぱりここにいた!」
しばしの休息。
売店の喧騒へと足を向ければ、そこには売店のトレイを掲げたチサトさんと、冷たい飲料水を運ぶリンさんの姿があった。
「おや、チサトはんにリンはん。水底の楽園から再びこの酷熱の岸辺へと帰還されましたか」
「うん、お腹空いちゃって!ここに来るときは絶対ポテトって決めてたんだ。ね、凛ちゃんもそうでしょ?」
「否定はしない。この気温下での活動は、想像以上にカロリーを消費する。効率的な熱量摂取は、午後の生存戦略において不可欠だ」
チサトさんが満足げに指し示したのは、黄金色に輝く欠片たち。
ジリジリと灼ける油の深淵で、聖化されたばかりの棒たちが踊っている。
それは氷の冷徹さとは対極にある、熱き大地の鼓動。
「さようどすな。この油の海で試練を乗り越えた聖遺物は、うちら忘却の徒に力の源を授けてくださる福音……。リンはん、流石の慧眼どす」
「ハンナリエルさんの言い方、相変わらずだよね!ほら、せっかくだし一緒に食べようよ?はい、あーん……」
「な、なにを……!聖女たる者が受ける供儀としては、少々趣が奔放すぎはしまへんか?」
「えー、いいじゃん!お仕事頑張ってるご褒美だよ。ほら、凛ちゃんも何か言って!」
「……あたしも不意打ちでそれをやられた。回避不能だから諦めた方が早いよ」
「リンはんまで……分かりましたわ、そこまで仰るならこの聖なる供物を謹んで拝受いたしますえ」
「やった!はい、あーん!」
サクッ……。
軽やかな破砕音と共に、香ばしくも濃厚な油の薫香が鼻腔を暴力的に突き抜けた。
そして次の瞬間、中から溢れ出したのは、雲のように柔らかな大地の抱擁を詰め込んだ熱密な澱粉の海。
「っ……!!なんという……剛毅にして慈悲深き、炭水化物の暴力……」
「だよね!この揚げたてのザクザク感、五臓六腑に染み渡るっていうか、魂が洗浄される感じ!」
「……外皮の食感と、芯部の軟質。この落差が脳内の報酬系を強く刺激する……悪くない」
熱い。確かに、それは苦行に近い熱さだ。
だが、その熱さこそが、太陽に簒奪された活力を、根源から引き戻してくれる。
塩味の効いた黄金の皮が舌の神経を苛烈に刺激し、その奥に潜むジャガイモの素朴なる甘みが渇いた魂を優しく、しかし確信を持って撫で上げた。
「これどす……冷たさで感覚を麻痺させる救世もあれば、このように熱量を持って生命を再起動させる儀式もある。『フライドポテト』とは、まさに携帯可能な黄金の聖域どすなあ」
「聖域って!ただのポテトだよ、ハンナリエルさん。でも……そう言われると、なんだかこの一本が、すごく尊いものに見えてきちゃうから不思議だよね」
チサトさんは残りのポテトを惜しむように見つめ、リンさんは無言で、しかし確かな手応えを感じているかのように喉を鳴らした。
一本、また一本と、この黄金律に基づいた聖遺物を、神官が供物を捧げるが如き敬虔さで体内に受け入れていく。
水分を奪われた喉が、ポテトの辣腕な塩味に歓喜の悲鳴を上げ、たまらず水筒の冷えた麦茶を命の雫として流し込んだ。
「美味しいものは人を哲学者にする。……ジャガイモは偉大。あ、ハンナリエルさん。口元にまだ塩が残ってる。……じっとしてて」
そう言って、リンさんが躊躇いなくこちらの頬に指を伸ばした。
冬を思わせる冷涼な指先が火照った肌に触れた刹那、鮮烈な電気信号が走る。
「あ……リンはん、うちとしたことが、聖遺物の欠片を不作法に晒してしまいましたわ」
「不作法じゃない。ただの夏の不注意。……悪くない感触」
ふい、と顔を背けたリンさんの耳朶が、夕陽を待たずして僅かに赤らんでいることに、気づかないふりをした。
***
チサトさんとリンさんは、最後に渾身のひと泳ぎを終えると、精根尽き果てたような、しかし清々しき表情で帰路についた。
「ハンナリエルさん、またね!水着買いに行くの、絶対だからね!断るのは禁止!」
「心得ておりますわ。二人の若き精霊たちの感性に、うちの古い価値観がどこまで持ちこたえられるか、今から戦々恐々どすな」
「覚悟しておいたほうがいいよ。あたしも何を着させられるやら」
「リンはんはお見通しどすな。では、良き休日を!」
去りゆく二人の、陽炎に揺れる背を見送りながら、大きく天を仰いで伸びをした。
湿り気を帯びた風が、今日一日のご褒美のように優しく触れる。
新しい水着を探すという、未知の苦行——あるいは至福の供儀が待っている。
夏の攻防戦は、まだ始まったばかり。
「……さて。最後はやはり、コーラなる黒き聖水の氷菓で、この一日を完全なる円環として閉じるといたしまひょか」
独り言を呟きながら更衣室へ向かおうとした時、黒き氷を噛み砕く背中を見つけた。
「センパイさん。監視の務め、お疲れ様どす」
「あ、新人さん!お疲れ様。……ほら、自分へのご褒美。食べる?」
センパイさんが差し出してきたのは、通常のソーダ味ではなく「コーラ味」のゴリゴリ君。
「いただきますえ。この黒き炭酸の香気が、今日一日の熱狂を静めてくれる気がいたしますわ」
「いいでしょ、それ。さっきまで居た子たちと水着買いに行くんだって?自慢げに話してたわよ」
「あら、もう耳に入ってしまいましたか。二人の勢いに、今から戦々恐々どす」
「あはは!新人さんなら、何を着ても聖女様にしか見えないから大丈夫よ。ほら、溶ける前に食べちゃいなって」
センパイさんの言葉にはんなりと微笑み、冷たき黒き聖水を口に含んだ。
夏はポテトの熱とコーラの冷たさを混ぜ合わせ、実に心地よい終焉を運んでくれたのである。
***
【タイトル:[カテゴリ]黄金の聖遺物と、水辺に再び集いし若き魂への祈り】
『――太陽の神罰とも思える灼熱の下、本日の労働もまた峻厳な法難でありました。しかし、そこへ現れた二人の巡礼者の眩き生命力は、澱んだ空気を一掃する福音となりました。……そして本日賜った真の救済は、碧き氷だけでなく、油の海で試練を乗り越えた聖遺物――『フライドポテト』でありました。熱きものを以て熱き夏を制す。これぞ、現代における生存の黄金律。明日の空がどのようであっても、私はこの糧を胸に、再び聖域へ向かうことでしょう――』
『仕事終わりに揚げ物は胃がもたれそうね。少しは自重しなさいな』
『キリハラはん、手厳しいどすなあ。これもまた、聖女としての代謝を高めるための聖なる儀式どす。うちは至って健やかどすえ』
『その屁理屈も健勝なようで何よりだわ』
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