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第26話 灼熱の監視塔と碧きアイスバー、水辺に佇む『水着の聖女』という名の救済

 朝からじりじりと焼けつくような陽射しが、容赦なくアスファルトを白く炙っていた。

 スマホの画面には、キリハラさんからの短いメッセージが点滅している。


『今日も酷い暑さね。熱中症にはくれぐれも気をつけなさいよ』

『ご心配痛み入りますえ。本日は水辺での任務ゆえ、涼やかに過ごせる見込みどす』

『水辺?まさか海の家で浮かれているわけじゃないでしょうね?』

『プールの監視補助どす。幼き命を預かる尊き聖務ですえ』

『……監視員って、キミ、本当に泳げるの?』

『水中における機動力につきましては、現時点ではノーコメントとさせていただきますわ』

『不安しかないんだけど……まあいいわ。不審者と間違われないようにね。あと事故にはくれぐれも気を付けてね』


 水辺という響きに、淡い期待を寄せていた。

 しかし、その期待が脆くも崩れ去ることをまだ知る由もなかったのだ。


 ***


 更衣室で支給された装束を手に取り、言葉を失った。


「これが……現代日本における『水の戒衣』というものどすか……」


 濃色の下地にラインが共存する競泳水着。

 四肢の自由を極限まで追求したそれは、驚くほど身体に密着し、逃げ場のないシルエットを露わにする。

 鋭い切れ込みと、背中を大きく開放した大胆な意匠。


 在りし日の聖女時代、身を包んでいたのは、幾重にも重なる重厚な聖衣であった。

 それに比べれば、なんと無防備かつ、清々しいほどに簡素な装いだろうか。


 湿り気を帯びた空気の中で髪を高い位置に結び上げた。

 鏡のなかに佇む姿を静かに見つめる。


「ふむ……」


 しなやかに伸びた四肢。

 引き締まった腹部。

 布地が描く、一切の誤魔化しを許さない肉体の輪郭。


「悪くありまへんな。むしろ、このくらいの方が動きやすうてええかもしれまへん」


 満足げに深く頷いた。

 食への執着が過ぎる生活ではあるが、日々の多様極まる労働が、図らずも最良の鍛錬となっているらしい。


 自転車を全力で漕ぎ、重い荷を担ぎ、大地と対話するように腰を落として働く。

 そのことわりに基づいた積み重ねが、この均整を形作っているのだ。


「元の世界では『聖女の身体は神聖なる器』と教えられ、大切に守られてきましたが……この地においては労働こそが肉体を磨き、魂を律する修行そのもののようどすな」


 独り言を呟き、決然とした足取りで更衣室を後にした。


 ***


 プールサイドへと踏み出した瞬間、峻烈な熱気の塊が全身を真っ向から殴りつけた。


「……暑い」


 水面は宝石を散りばめたように煌めき、子どもたちの透明な歓声が空に溶けていく。

 それは、一見すれば完璧なる平和の象徴であった。

 しかし、指定の監視台へと登り詰めた瞬間、その光景は峻厳な試練の場へと変貌を遂げた。


「暑い……暑すぎますえ。水はこれほど近くにあるというのに……」


 太陽は容赦なく火を注ぎ、照り返す水面と灼けたコンクリートが逃げ場を塞ぐ。

 四方八方から押し寄せる熱は、魂をじりじりと炙る供儀くぎの火のようであった。


 体内の魔力を巡らせ、体温を調整しようと試みる。

 だが、この天から降り注ぐ根源的な熱の前には、小手先の術など焼け石に水であった。


(……あきまへん。魔力を使っても暑いものは暑い。この地のことわりは、なんと強固なのどっしゃろか)


 あまりの熱気に、思考さえも陽炎の中に溶けていきそうになる。


「おーい、新人さん。魂、抜けてない? 大丈夫?」


 隣の監視台から、一人の女性が快活な声を掛けてきた。

 センパイさんは、日差しの下で小麦色に輝く肌を持ち、精悍な印象を際立たせている。


「ええ、かろうじて現世に踏みとどまっておりますわ……。ただ、この想定を超えた熱量に、うちの理性が摩耗していくのを感じますえ」

「あはは、最初はみんなそう言うのよ。水の近くって逃げ場がなくて反射がすごいんだから。ある意味、砂漠より過酷かもね」

「砂漠……聖なる水辺が、瞬く間に難行の地と化しましたなあ」

「面白いこと言うね!でも、ここでの私たちの役割は、その難行からみんなを守ることだから。ほら、あそこを見て」


 センパイさんの指差す先で、幼い少年たちが全力でプールサイドを駆けていた。


「コラー!そこ走らなーい!転んで泣いても知らないよー!」


 センパイさんの声は、喧騒を貫く雷鳴のように響き渡った。

 子どもたちは静かに、しかし速やかに歩行へと切り替える。


「お見事どす……。一言で混沌を律するとは、まさに守護者の鑑どすな」

「慣れよ、慣れ。あの子たちの安全こそが、私たちの存在意義だからね」


 センパイさんは白い歯を見せて笑い、瞬時にその眼差しを鋭き監視のそれへと戻した。


「この仕事で重要なのは、絶対に水面から目を離さないこと。水の事故は静かに、そしてあまりに一瞬で訪れるの」

「一瞬……静かなる事故の訪れどすか……」

「そう。だから私たちはこの暑熱に焼かれようとも、視線だけは水に縛り付けておかないといけない。命の重さを背負っているのよ」


 その真摯な言葉が、凍てついた心を貫いた。

 命を守る。それは、かつての世界で聖女として背負っていた、不可避の宿命と同じではないか。


 ただ高座に座して祈るのではなく、この身を持って脅威を監視し、防ぐ。

 これは、現代日本における聖務なのだ。


「……承知いたしましたわ。この灼熱、しかと我が身に刻みまひょ。聖女の目は節穴ではありまへんえ」

「いい返事!でも、油断して水分補給を怠ったら承知しないわよ。監視員が倒れたら、それこそ悲喜劇コメディにもならないんだから」


 センパイさんが誇らしげに掲げた水筒を手に取った。

 ぬるま湯と化した麦茶が、喉を湿らせていく。


 ***


 時間は残酷なまでの重圧となって身体の芯に沈殿していった。

 眼下では子どもたちが無邪気に水を掛け合い、深淵へと飛び込み、生命の躍動を謳歌している。


 なんと羨ましく、なんと残酷な光景だろう。

 あの冷徹なる水の中に、今すぐ全てを委ねてしまいたい。


「……これほど水に近い場所に身を置きながら、一滴の飛沫に触れることすら許されぬとは。監視者の宿命とは、なんと非情な極刑どすか」

「ちょっと新人さん!顔が般若はんにゃみたいになってるわよ!怨霊でも見つけたの?」

「いえ……怨霊ではなく、己の内側に潜む渇望というおぞましき獣が、理性の檻を食い破りそうどして……」

「ぷっ……!何それ、詩人どころか哲学者じゃない!でもわかるわ、この暑さだもの。一種の拷問よね、これ」

「ええ。眼前に広がる豊穣なる泉を前にして、渇きに喘ぐ亡者の心境どすわ」


 額から伝う汗が睫毛を濡らし、容赦なく瞳を刺す。

 水着の生地は、もはや皮膚の一部になったかのように不快に張り付いていた。


「そこのお嬢さん、飛び込みは禁忌どすえー!命は一つしかありまへんよって!そっちの少年、お友達を沈めて遊ぶのは、慈悲の心に背く所業どす!それは遊びやのうて討伐ですえ!」


「注意の仕方が中世の僧侶みたいだよ!」とセンパイさんが噴き出したが、こちらは生命を維持するだけで精一杯なのだ。

 言葉を放つことで、どうにか薄れゆく輪郭をこの世界に繋ぎ止めていた。


 ***


 幾千ものこうが過ぎたかと思われる頃、ようやく救済の鐘——交代の時間が訪れた。

 センパイさんに肩を叩かれ、魂の抜けた殻のように監視台を降りた。


「さあ、現世への帰還よ。自分への供物は何にする?ってね」

「そうどすな……火照った細胞を根源から冷却する、強力な魔道具を所望いたしますわ」


 売店の冷凍庫を覗き込むと、そこには極彩色の氷菓たちが、静かにその時を待っていた。

 しかし、いま求めているのは甘美な誘惑ではない。

 もっと鋭角的で、破壊的なまでの「冷たさ」だ。


 視線は、一つの青きパッケージに釘付けとなった。

 そこには、筋骨隆々の野獣——ゴリラが不敵な笑みを浮かべて鎮座している。


「これ……どす。これ以外にありまへんわ」

「おっ、『ゴリゴリ君』を選ぶなんて、あんたおとこだねぇー!この国が誇る氷の守護神だよ。安くて、デカくて、凶暴なほどに冷たい。夏を統べる王様だよ」


 代金を払い、包装を引き裂く。

 現れたのは、透き通るようなソーダ色をした、美しき四角い氷柱であった。


「では、いただきますえ。……いざ」


 口を開き、角に向けて渾身の力で歯を立てた。

 ガリッ!


「っ……!!」


 瞬間、世界が静止した。

 脳天を直接叩き割るような、あまりに鮮烈な衝撃。

 ゴリゴリ、ガリガリと豪快な音を立てて砕ける氷の粒が、灼熱に冒された口内を猛雪で覆い尽くす。


「これは……!暴力的なまでの冷徹さ……!!」

「効いたでしょ?脳の回路が一つ二つ、ショートする感覚」

「ええ……!上品さなど塵芥にも等しい、だがそれゆえに……至高の救済どすえ……!」


 灼けた身体を氷の魔力が駆け巡る。

 血液の温度が一気に零度へと向かい、熱に浮かされていた意識が氷の刃のように研ぎ澄まされていく。

 これぞ、形ある福音。


「この碧き棒状の氷柱が……灼死の試練に喘ぐ魂を問答無用で浄化してくれましたわ……!」

「本当、あんたの語彙力には脱帽だよ!私はソーダ味も好きだけど、実はコーラ味派なんだ。強くなれる気がしてさ」

「コーラ味……黒き聖水までをも氷菓にするとは、この地の錬金術は底知れまへんなあ」

「他にも梨とか、季節ごとにいろんな変異種が現れるんだから。たまにコンポタ味とかを試すのも一興だよ」

「なんと……美食の世界の混沌は、深淵よりも深うございますな」


 一心不乱に、その角を削り続けた。

 洗練された氷菓子では成し得ぬ、この無骨な破壊衝動。

 それこそが、夏の太陽という巨大な敵に対抗し得る、唯一の盾なのだ。


 最後の一欠片を慈しむように飲み込み、残された木の棒を眺める。

 そこには、墨書きのような力強い文字が。


「『はずれ』……?」

「あはは、どんまい!『あたり』なら、奇跡の二本目を無償で授かれるんだけどね」

「そのような敗者復活の福音が存在したのどすか!」

「運試しよ、運試し。今年はまだ一度もその奇跡を見てないわ」

「次こそは……このゴリラの祝福を、必ずやうちの手に掴み取ってみせますえ!」


 誓いを立て、空の棒をゴミ箱へと捧げた。

 これは次なる試練への、大いなる儀式なのだ。


 ***


 午後の部も平穏に幕を閉じ、最後の利用客が西日に背を向けて去っていく。

 笛の音が静寂を呼び戻し、無人となったプールは、夕陽を受けて燦然とした黄金の海へと変わった。


「お疲れ様!新人さん、初日とは思えない完璧な守護だったよ」

「恐縮どす。センパイさんの慈しみ深い導きがあったからこそ、この防衛線を守り抜けましたわ」

「導きっていうか……本当にお姉さん、面白いね。ていうかさ、改めて見てもスタイル抜群だよね。その水着、もはや芸術品だよ」

「まあまあ、お上手どすな。うちはただの、しがないはんなり労働者どすえ。この身体も度重なる苦難と労働のなかで削り出された、生存のフォームどす」

「生存の形……カッコよすぎ!……ねえ、よかったらさ」


 センパイさんは、優しく微笑んで水面に目をやった。


「もう営業も終わったし、着替える前に水に触れていかない?」

「……よろしいのどすか?監視者の掟に背く不義理となるのでは?」

「役得だよ。今日一日、誰よりも熱心に見守ってたんだから、水も喜ぶはずだよ」


 その言葉に、心は春の雪解けのように綻んだ。

 並んで縁に腰を下ろし、熱を帯びた足をそっと水面に沈めた。


「……っ……はぁ……」


 冷たい。

 あまりに清冽な冷たさが、足首から、膝へ、そして全身の血管へと流れ込んでいく。

 一日中、太陽という名の祭壇で供儀に供されていた筋肉が、劇的に癒やされていくのを感じた。


「これどす……うちが真に希求していたのは、この安らぎどした……」

「わかるなぁ。この瞬間のために、一日中地獄を耐えてるようなもんだもんね。……あ、そういえば」

「はい?何か不備でもありましたえ?」

「ううん。明日なんだけどさ……人手不足になっちゃって。お姉さん、明日も入れる?」

「へ……?」


 思わず、はんなりとした顔が引き攣った。

 明日。この灼熱の監視塔に、再び登れと言うのか。


「お姉さんの監視、すごく助かるんだよね。子どもたちも懐いてるみたいだし。ね、お願いっ!」

「……っ。守護者の任を解かれるのは、まだ先のようどすなあ」


 もとより日雇い系の聖女に、定休日の概念などない。

 苦笑いとともに、首を縦に振った。

 夕陽に照らされた水面が、二つの長い影を優しく揺らしていた。


「あはは!助かるー!また明日よろしくね」

「心得ましたわ。……次は『遮光の結界』を忘れないようにしますえ」


 顔を見合わせ、穏やかな笑い声を夕闇に溶け込ませた。


 ***


 帰り道。

 スマホが震え、キリハラさんからのメッセージが届く。


『どうだった?仕事にかこつけて、子どもたちと遊んだりしてないでしょうね?』

『ご安心くださいまし。本日も鉄壁の布陣。水難事故ゼロという名の勝利を収めましたえ』

『へえ、やるじゃない。で、ちゃんと生きてるの?』

『もちろんどす。さらに、『ゴリゴリ君』なる碧き氷の戦士に魂を救済されましたわ』

『……ああ、あれね。ソーダ味?』

『さすが、慧眼どすな。キリハラはんもこの剛毅なる氷の洗礼を受けた口どすか?』

『夏場は冷凍庫に切らさないわよ。安上がりな聖女様ねえ』

『ふふ、それは奇遇どすな。……しかしキリハラはん、緊急事態どす。明日、追加の聖務が課せられましたわ』

『あ、そうなの。明日もプール?』

『さようどす。明日のうちは、さらに灼熱の深淵へと足を踏み入れることになりますえ』

『大げさね……まあ、がんばりなさいな。応援くらいはしてあげる』


 スマホを懐に仕舞い、群青色に染まる空を仰いだ。

 火照った肌を撫でる夜風が、今日一日の報酬のように心地よい。


 水を見守り、命を防衛し、傲慢な太陽に抗う。

 明日、この灼熱の物語はさらなる展開を見せることになるだろう。

 これこそが、現代日本における聖務の続き。


「明日はコーラなる黒き聖水のリベンジに挑みまひょか」


 小さく独り言を呟き、夕陽の名残を追うように家路を急いだ。

 腕に残る、淡く赤い日焼けの跡。

 それは、監視塔という名の聖域を守り抜いた、誇り高き勲章であった。


 また明日。


 ***


【タイトル:[救済]碧き氷塊『ゴリゴリ君』、あるいは監視塔に降り立つ冷気の守護神について】


『――水を見守る者は、水に触れてはならない。これが監視者の不可侵なる掟であります。灼熱の監視台で、私は渇望という名の峻厳な試練と向き合いました。魔力を巡らせようとも、この地の陽射しは容赦なく魂を削ります。眼下には誘惑のように冷たく輝く深淵、まさにタンタロスの責め苦でありました。そこへ現れたのが、この碧き無骨な救世主——『ゴリゴリ君』。その野性味溢れる氷柱を噛み砕けば、凍てつく福音ソーダが魂を白く塗り潰します。頭を貫くあの痛みは、灼熱の迷いを断ち切るための清らかな代償。……しかし、話はここで終わりではありません。聖女の試練は明日へと続く。監視塔に再び英雄が降り立つ時、新たな救済が待っているのかもしれません――』


『……で、結局当たったの?明日もやるの?』

『「はずれ」の啓示を受けました。女神サマは、うちにさらなる修行を求めておられるようですわ。明日、さらなる奇跡を求めてゴリラに挑みますえ』

『ただの連食でしょ……』


 #ゴリゴリ君 #プール監視 #水着の聖女 #聖女の監視 #続く予感


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