第21話 熱砂の如き酷暑を払う猛火を纏いし『ソーセージ』と黄金の泡『ビール』の聖なる共鳴
逃げ場のない湿った熱気が、街の色彩をわずかに霞ませている。
暦の上では「入梅」を迎え、世界が分厚い水膜の一歩手前で足踏みしているかのような、重苦しい静寂がアスファルトから立ち上っていた。
ただ息をするだけで、肺の腑に熱い霧が溜まっていく感覚。
これはもはや空気ではなく、誰かが丹精込めて煮出した「温かな出汁」を肺いっぱいに吸い込んでいるかのようだった。
「……あ、あつい……。これでは聖女としての霊脈もオーバーヒートを起こして熱暴走してしまいそうですわ……」
額に張り付いた髪を乱暴に払い、アパートの自室で力尽きていた。
安物の扇風機が首を振りながら、微風のぬるま湯をこちらに押し付けてくる。
足元では、んにゃ丸が瞳を青色の冷却モードにし、小さな音を立てながら「んにゃ……ひえひえ……」と力なく鳴いていた。
信徒の知性さえも、この日本の湿気の前には無力化されてしまうらしい。
その時、枕元でスマホが短く、鋭く震えた。
表示されたのは、キリハラさんからの招集命令——否、緊急の福音だった。
『非番なのに暑くて死にそう。駅前の広場。強制暑気払い。早く来なさい』
知り合ってから既に半年以上。
今やこの警察官の女性は、不審者として自分を追う監視者ではなく、共に「美味しい正義」を追い求める友人になりつつあった。
「あらまあ。キリハラはんも、この湿気に当てられたのですやろか。暑気払いとはまた。きっと邪気を払うための尊き儀式に違いありませんなあ。ふふ。聖女として、その迷える魂を救済しに行かねばなりませんわ」
重い腰を上げ、んにゃ丸を伴って熱気の渦巻く外へと這い出した。
陽炎に揺れるアスファルトを歩くたび、サンダルの底から熱が伝わってくる。
駅前の広場に近づくにつれ普段の喧騒とは違う、陽気な金管楽器の音色が響いてきた。
そして、重苦しい風に乗って漂ってきたのは——香ばしく焼けた肉の脂、どこか野性味を感じさせる濃厚な麦の香り。
そこに広がっていたのは、見慣れた駅前の光景を異界へと塗り替えるような、巨大なテントと原色の旗。
『オクトーバーフェスト』。
「十月。この暑さで暦の歪みまで歪んでしもうたのやろか。いえ、そんな些末なことはどうでもよろしい。見なはれ、んにゃ丸。あの琥珀色に輝く黄金の泉を!」
テントの喧騒の中に、白いTシャツ姿で大きなガラスのジョッキを傾けているキリハラさんを見つけた。
「遅いわよ、聖女さま。……なんてね、はんなりお姉さん。干からびる前に到着できてよかったわね」
キリハラさんはジョッキを置くと、少し上気した顔でこちらを手招きした。
呼び方も、今ではどこか親愛の情を込めた冗談のように響く。
その隣には既に一本目の任務を終えたのか、空になったジョッキと、真っ赤なソースの付いた皿が置かれている。
「ふふ。麦の香りに導かれるのは、生きとし生けるものとしての本能どすなあ。それにしてもキリハラはん。その盾の如き重厚な聖遺物。表面に漂う水滴がまるでイグドラシルの朝露のようで美しいどすなあ」
「ただの結露よ。とにかく座りなさい。独り占めしようと思ったけど、やっぱりこの祝祭の空気を誰かと浴びないと、ただの一人酒に見えて自制心がなくなるのよ」
「おおきに。では、郷に入っては郷に従え。うちも、その正義を一杯拝受することにいたしまひょか。ところで、今は入梅の時期。十月の祭を今やるのは……もしや次元の狭間が開いた影響……」
「日本人はね、夏が近づくとビアガーデンを開きたがる人種なのよ。オクトーバーなんて名前はただの飾り。ビールが飲めれば何でもいいの。さあ、余計なこと言わずに飲みなさい」
注文口へ走り、伝説を感じさせる名前のビールを注文した。
手渡されたジョッキは、驚くほどに重い。まるで、大地の恵みをそのまま結晶化させたかのような質量感だった。
ジョッキの底から立ち昇る気泡は、まるで天へと昇る天使たちの階段のようで、眺めているだけで喉が鳴りそうになる。
「キリハラはん、見ておくれやす。このグラスの表面を伝う雫。冷気が意志を持って外の世界へと滲み出しているかのようどす」
「いいから、そんな観察してないで早く飲みなさいよ。温まったらそれはただの麦ジュースなんだから」
「焦らんといて。いざ、異世界の聖域を喉へ拝受いたしますえ!」
一気に、その黄金の液体を喉へと流し込む。
「――――ッ!!」
冷たさが、灼熱の砂漠と化した喉元を一気に駆け抜けていく。
圧倒的な麦のコク、そして舌の奥を支配する、凛としたホップの苦味。
炭酸の泡が、疲弊した細胞の一つ一つを弾けるように再起動させていく快感。
「はぁあ。なんと、なんと力強く、誇り高い味わいどすやろか!これはもはや大地が醸した飲むための聖遺物そのものどすわ!」
「いい飲みっぷり。でも、これだけじゃ終わらせないわよ。激辛カリーブルスト。アタシはこのストレスをスパイスで焼き切るの。いい?ソーセージをこのソースにたっぷり絡めて……」
キリハラさんに促され、真っ赤なソースに溺れた極太のソーセージを口へ運ぶ。
カレー粉の芳醇な香りが鼻に抜け、直後に暴力的なまでの唐辛子の刺激が、ビールで冷やされた口内を焦土へと変える。
「ッ!?ふふ。なんと、なんと過酷な洗礼。ですが、このヒリヒリとした痛み、不思議と嫌とはおへん」
「でしょ?そこにビールを流し込むの。最強の組み合わせよ!」
あおられるまま、再びジョッキを傾ける。
辛さによって敏感になった神経に、冷たく苦い琥珀水が沁み渡る。
熱狂と静寂の反復運動。それはまさに、口の中で繰り広げられる聖なる円舞曲だった。
「今はただ、この黄金の泡が消える前にもう一杯、捧げ物を捧げたい気分どすえ」
「意外と呑めるじゃない。見かけによらず肝が据わってるわね。いいわ、アタシも今日は管区の苦労を全部この泡に溶かしてやるつもりだから」
「キリハラはんも色々とお辛いことがおありどすか?」
「そりゃそうよ。変なコスプレ女に出会ったり、かつ丼で盛り上がったり、何か口に入れると食レポ始めるし。挙句の果てにアタシの非番の日に付き合わされたりとかね!」
「それは難儀なことですなあ。では、その苦労も、このジョッキで粉砕してしまいまひょ。さあ、二杯目に突入どすえ!」
「ええ。付き合うわよ。今夜は黄金の泡が尽きるまで放さないから。ビール!ビール!ビール!」
キリハラさんの野性的な、それでいて清々しい笑い声が、入梅の湿った熱気の中に溶けていく。
……はずだったのだが。
三杯目のジョッキが空に近づく頃、キリハラさんの瞳には、獲物を追い詰める猟犬のような「危うい光」が宿り始めていた。
「……ねえ、聖女さま。ちょっと、署まで来てもらおうかしら」
「あらまあ。ジョッキ片手に職質とは、また乙な演出どすなあ。何かうちが不浄なことでもいたしましたやろか?」
「しらばっくれないの。……キミ、この間の明け方にどこで何してた?」
「明け方、どすか?ふふ。深夜の労働という名の巡礼を終え、ゴンドウはんのところで聖なる瞑想に耽っておりましたえ」
「嘘つき。アタシの……ううん、警察官としての鼻がね、クンクン匂うのよ。キミから醤油と大人の汗と……得体の知れない熱狂の匂いが染み付いてる。あれでしょ、また賭場か何かで、はんなりスマイル決めてたんでしょ?」
キリハラさんは身を乗り出し、人差し指でこちらの鼻先をツンと突いた。
その顔は赤く、吐息には芳醇な麦の香りが混じっている。完全に「酔っ払いモード」に移行した警察官の追及。
「賭場だなんて。うちはただ人生の荒波を象徴する盤の上で、皆様と調和を図っていただけどすえ。角煮という名の救済を誰が授かるべきか……その審判を見守っていただけのこと」
「……それ、結局何か賭けて大騒ぎしたってことでしょ?ったく、あの大家も大家よ、商店街のオヤジたちと不夜城作って。怪しい動きがあればアタシがガサ入れ……ううん、カチコミ……じゃなくて、正式な職務として介入するんだからね!」
「ふふ。そんな怖い顔してはると、せっかくのビールが震えて泣いてしまいますわ。ほら、この黒光りする『カリーブルスト』を一つ。辛さは罪を焼き払い、旨味は心を解きほぐす福音どす。召し上がれ」
「……あむっ。……ふ、んんん!辛いっ!でも、ビールで流し込むと、脳が正義に目覚める感覚だわ……!あ、話題そらさないでよ。キミ、あの大家とどんな取引したの?酒屋の若旦那が泣いてたって噂があるんだけど」
「うちはただ、空き店舗に夢と希望を詰めて差し上げただけ。若旦那も将来的な『徳』のオーナーにならはった。これこそが共存共栄、平和の証どすえ」
「……絶対に何かハメたでしょ。……まあいいわ。今日は非番。このテントの中だけはアタシもただの麦の信徒。その『徳』とやらをアタシのジョッキにも並々に注いでもらおうじゃないの!」
「承知いたしましたえ。では、さらなる黄金の洗礼を追加いたしまひょか」
聖女と警察官。
異なる世界の住人が、重たいガラスのジョッキを通じて、確かに「今」という名の福音を共有している。
足元では、んにゃ丸がソーセージの端っこを齧り、満足げに目を三日月型にして笑っていた。
***
【タイトル:[恩受]灼熱の砂漠に湧き出でし黄金の泉『ビール』と、猛火を纏いし『ソーセージ』がもたらす祝祭の福音について】
『――ああ、天より降り注ぐ無慈悲なる熱気。それは万物を萎縮させる不毛なる試練。しかし、その砂漠の中に突如として湧き出でし、琥珀色に輝く『ビール』という名の奇跡。重厚なるガラスの杯に注がれた黄金の液体を、腰を据えて一気に喉へと流し込むとき、麦の魂が弾け、ホップの苦味が魂の澱みを浄化するのです。これに『カリーブルスト』という名のスパイスの供儀を加えれば、停滞は打破され、明日の巡礼へと立ち上がる活力が漲る。これぞ、暑さという名の闇を照らす、聖なるバカンスの福音なのです』
「ふふ。さて、キリハラはん。次は、あちらの液体にも挑戦してみまひょか?」
「……キミって、もしかしてザル?ウワバミ?」
賑やかな広場に、何度目かの乾杯の音が響く。
入梅の熱い風の中で異世界の聖女は、黄金の泡と共に、この世界の「夏」をはんなりと愛し始めたのだった。
#ビール #カリーブルスト #オクトーバーフェスト #聖女の乾杯




