第20話 熱狂の盤上に渦巻く欲望、火の神の抱擁が生みし『豚の角煮』と祝祭の福音
「……ハナ、着いたぞ。ここだ」
ゴンドウさんの低い声が、雑居ビルの廊下に響く。
鉄の扉。その先から漏れるのは煙草の煙ではなく、甘辛く芳醇な醤油の香りと、幾重にも重なる熱い吐息――そして。
「あらまあ……。この鉄扉の先が、キリハラはんに言えない類の秘密の集会所どすか」
「……ああ。ある意味では人生の縮図だ。入るぞ」
割れんばかりの絶叫と、何やら実況めいたダミ声が隙間から漏れ出していた。
扉が開いた瞬間、そこには十数名の大人が円卓を囲み、血走った目で中央を見つめる光景が広がっていた。
「ハナ、ここのルールは一つだ。この戦いを生き残り、最強の座を掴むこと。勝った組だけが、あそこにある『特製豚の角煮』を胃に納めることができる」
「角煮はん、確かにただならぬ霊気が漂っておりますなあ。んにゃ丸、あんさんも感じはりますか?」
「んにゃっ!」
「ふふ、これほど高濃度な脂質の残滓を感じるのは、暗黒龍を討伐した時以来どす」
「……暗黒龍だか何だか知らねぇが、あいつは手強いぞ。圧力鍋を使わねぇ不退転の煮込みだ。心して掛かれ」
「承知いたしましたえ。アパートの一室を格安で借りさせてもらっている身。すべてをこの盤上の聖戦に注ぎ込むときが来たようどす」
闇のボードゲーム大会の始まりである。
「ところで、ゴンドウはん。なぜ麻雀やチンチロリンではなく、ボードゲームなんやろ?」
「……ここの連中は本気だ。麻雀なんてやらせてみろ、朝には店の一軒や二軒、誰かの手に渡ってんぞ。それに嫌な過去があってな」
「過去、どすか?」
「ああ。以前『手牌が透けて見える』だの『コンビ打ちしてる』だの言い出した奴がいてな。大の大人が掴み合いの喧嘩になって卓がひっくり返った。それ以来、ここでは『実力と運が公平に見える』ボードゲームしかやらねぇことになってんだ」
「手牌が透ける……。それはまた、随分と便利な――いえ、難儀な御仁がいたもんどすなあ」
ゴンドウさんの視線は、熱気の渦巻く円卓の中央へと向けられていた。
店を賭けていないとはいえ、そこに漂う勝ちへの執念は、肌を刺すような重圧となってこの空間を支配している。
(うっかり癖で魔力を使うと、同じ惨劇を招きかねまへんな)
甘辛い醤油の香りと大人の汗が混ざり合った重たい空気が、参加者たちの煮え切った視線に震えていた。
「ささ、ゴンドウはん。そんな怖い顔してんと景気良く参りましょ」
「ああ……座れ。ハナ、いいか、これはただの遊びじゃねぇ。角煮を賭けた命のやり取りだ」
「ふふ、承知いたしましたえ。……皆様、寄せてもらいます。どうぞよろしゅうお頼み申しますえ」
背もたれのない丸椅子を引き寄せ、円卓の末席に腰を下ろした。
***
『あああっと!中華の親父、ここで痛恨の『連帯保証人』マスに直撃弾!資産は雲散霧消、残ったのは借金地獄という業だぁぁ!』
「嘘だろ!?さっきまで店三軒並べて絶好調だったじゃねぇか!なんで俺だけこんな目に……!」
「ふふ、中華の御仁。人生は時に過酷な二択をお与えになりますなあ。さて、うちの番どすえ。えいっ」
背後で、首に手ぬぐいを巻いた見知らぬ酔漢が、ビールの空き缶をマイク代わりに絶叫している。
それに応えるように卓を叩いて悔しがるのは、近所でも有名な中華料理屋の親父さんだった。
ルーレットが高速で回転し、カチカチと乾いた音を立てて止まる。
止まった先は――『宝くじ当選』。
『きたぁぁぁ!聖女、ここでまさかの強運発動!中華の親父の不幸を養分にして、逆転満塁ホームラン並みの資産形成だぁぁ!!』
「聖女さん……あんた、人の店が潰れるのをそんな涼しい顔して見てるのかい?これじゃ今日のチャーハン、全部焦がしちまうぞ!」
「あらまあ。これは女神サマが授けてくれはった新たな施しどす。あんさんにはうちから『立ち直りの祈祷』という温かな眼差しを差し上げまひょ。あ、チャーハンの焦げたところ少し分けておくれやす」
「祈祷じゃ腹は膨れねぇよ!それに目玉が見えてねぇ!勝手に注文すんな!畜生、ビール追加だ!」
運命ゲーム。
一歩進めば不幸、二歩進めば絶望。
そんな世知辛い人生の縮図に、仕込みを終えたばかりの商店主たちが阿鼻叫喚の声を上げている。
「明け方の静寂を切り裂く、熱き魂のぶつかり稽古どすなあ」
「ハナ、ぼさっとすんな。次の競技『モノホリー』が始まるぞ」
ゴンドウさんが顎で指したのは、原色に彩られた土地と紙幣が飛び交う、不動産独占ゲームだった。
参加するのは、酒屋の若旦那に八百屋の隠居。皆、この世の富を独占せんとする強欲な表情を浮かべている。
『さあさあ盛り上がってまいりました!酒屋の若旦那、『駅前一等区』を三箇所独占!家賃収入という搾取が始まるぞ!』
「ふふ、若旦那。その駅前、うちの『商店街の空き店舗』と交換しはらへん?ここは風通しもよろしおして、精霊はんも喜びはる一等地どすえ」
「なっ……!?この土壇場で、まさかの『空き店舗三連投』だと……。詐欺師か!?」
「失礼な。これは将来的な発展を見据えた、聖なる再開発の第一歩どす。空き店舗には夢と希望がこれでもかと詰まっておりますわ」
「……ぐぬぬ。しかし、俺の手元には何が残るんだ!?夢と希望だけじゃ酒は仕入れられねぇぞ!」
「あら、一等地のオーナーという名の『徳』が積まれますやろ?それにこの空き店舗は、いつか伝説の聖遺物が顕現するかもしれない宝箱どす。ねえ、ゴンドウはんもそう思わはりますよね?」
「……ああ。そこには俺が昔隠した『へそくり』の記憶が埋まってるかもしれねぇな」
「ほら!土地の守護霊さんもこう仰っておりますわ。今なら特製の『祝福』もお付けいたしますえ」
「……よし、乗った!はんなりさんの言葉に、俺の未来を賭けるぜ!」
これは知略ではない。
ただ、相手の強欲が招く「少しでも得をしたい」という心の隙間に、はんなりとした幻想を流し込んだだけのこと。
『交渉成立ぅぅぅ!聖女ハンナリエル、胡散臭い笑顔で一等地の権利を無償に近い条件で強奪!これはもはや奇跡を超えた、理不尽な啓示だぁぁ!!』
「うわあああ!なんだよこの家賃!聖女の土地、高すぎるだろ!」
「あら、これは修行という名の授業料。お支払いおおきに」
こうして、不夜城の喧騒は最高潮に達し、最終決戦『大富豪』へと突入した。
『さあ、ハンナリエルさん!手札は残り二枚!ここで八百屋の隠居が「2」を三枚出し!これは最強の牽制だぁぁぁ!』
「……隠居はん。それは少しばかり無慈悲な一手どすなあ」
「フォフォフォ、勝負は非情だ聖女さん。その手札、もう価値がないんじゃないか?明日の野菜でも賭けてみるかい?」
「ふふ、承知いたしましたえ。女神サマは、時に逆境こそを楽しめと仰いますわ。……えいっ」
手札に運命を投げ込み『革命』という名の奇跡が炸裂し、卓を囲む大人が頭を抱えてのけぞる。
「うわあああ!!ここで革命!?最弱のカードたちが最強の軍勢へ変貌したぁぁ!!ゴミだと思ってたカードが聖遺物になったぞぉぉぉ!!」
「んな……!?そんな馬鹿な!!ワシの最強の『2』が、ただの数字の羅列に……!!」
「あらまあ。どん底から這い上がるのも聖女の務めどすえ。……さあ隠居はん、年貢の納め時どす」
明け方のビルの一室。
大の大人がプラスチックの紙幣や紙のカードに一喜一憂し、明日の腰痛など恐れずに拳を振り上げている。
そのバカバカしくも純粋な闘争心。
「皆様、良い汗をかかはりましたなあ。さて、審判の時は満ちたようどす」
「ハナ、よくやった。さあ、勝者の特権を行使しろ」
集計の結果、僅差で勝利を収めた。
ゴンドウさんに促され、今や自分のものとなった聖なる鍋の前へと歩み寄る。
箸を差し入れ、狙いを定めたのは、最も美しく脂の乗った『豚の角煮』の一片。
「ふふ……このプルプルとした震え。まさに生命の輝きそのものが凝縮されとるよう。では、遠慮なく洗礼を授からせていただきまひょか」
口に含んだ瞬間、意識が彼方へと飛びかけた。
繊維の奥深くまで染み込んだ出汁が、舌の上で爆発的な旨味を解き放つ。
トロリと溶ける脂身の甘さと、コリッとした軟骨の食感。
それは過酷な労働を耐え抜いた者のみに与えられる、究極の救済。
「う、うわあああ……!見てくれよあの聖女さんの顔、完全に向こう側にイッちまってるぞ!」
「……畜生、あのプルプルの角煮。ワシが八百屋を継いだ時に親父から教わった秘密のレシピよりも旨そうだ……」
「若旦那、よだれ、よだれ!……ああ、でも俺もガマンできねぇ!誰か余ったタレだけでも瓶に詰めてくれ!」
敗北した戦士たちの阿鼻叫喚が、最高のスパイスとなって鼻腔をくすぐる。
これもまた、勝者にのみ許された悦楽。
「この一噛みが大地の恵みと時間の魔術が織りなし、摩耗した霊脈を再起動させていくのが分かりますわ」
「……食レポ全開かよ。冷める前に全部食え。んにゃ丸、お前さんもだ」
ゴンドウさんが呆れたように笑い、んにゃ丸専用の小さな皿に、一番柔らかいところを分けてやる。
んにゃ丸は「んにゃ~!!」と歓喜の産声を上げ、液晶の瞳に無数のハートマークを浮かべて肉に食らいついた。
「ふふ。これでまた、うちの徳の貯金が一つ増えましたなあ。ゴンドウはんも一口、いかがどす?この救世の味を分かち合いましょ」
「……いや、いい。俺はさっきのハナの勝ちっぷりの余韻だけで、十分胸焼けするほど満腹だ」
「あら、左様どすか?それは勿体ない。ところで、次回の『円卓』はいつ開催されますん?」
「ここは持ち回り制だ。次は八百屋の隠居がホストだが、あいつが勝者に捧げる『一品』の準備ができ次第、招集がかかる」
「ほう、一品……。次はどんな洗礼が待っているのやら」
「隠居の野郎、帰り際に『次はジャガイモで勝負だ』って息巻いてたからな」
「ジャガイモはんも、なかなか手強いライバルになりそうですなあ」
朝焼けが、街のビルの隙間を白く染め始める。
聖女と白く丸っこい信徒は、角煮の残り香と支給されたバイト代を懐に、己の聖域へと帰還するのだった。
キリハラさんの説教は怖いが、今はただ、満たされた胃袋の平穏だけを信じれば良いのだから。
***
【タイトル:[浄化]盤上の聖戦を制し英雄に授けられる『豚の角煮』と、深夜の狂宴における勝利の福音について】
『――静寂を切り裂く盤上の雷鳴。勝利という名の審判の末に拝受せし『豚の角煮』は、火の神の抱擁という名の加熱を耐え抜いた生命の聖遺物。そのプルプルとした黄金の脂身は、タレという名の慈愛を纏い、一噛みごとに魂を浄化する真の福音を放つのです。圧力鍋という名の禁忌に頼らず、ただひたすらに献身という名の時間を重ねて生まれた柔らかな身は、まさに至高の供儀。我らは深夜の労働という名の試練を忘れ、ただ一つの皿に星宙を纏め、絶対的な充足を見出すのです。これこそが、摩耗した現代人の霊脈を再起動させる、至高の福音なのです』
「ふふ……夜勤終わりにテンションを上げ過ぎて、眠気がこうへんわ」
「zzz」
はんなりと微笑み、寝ることを諦めたのだった。
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