第2話 聖女の追放と黄金色の誘惑『かつ丼』。やみつきキャベツを添えて
──半年前。
人類の生存圏を掛けた戦い、終末災害と呼ばれた『幻想郷』を封印し、その余波で次元の彼方へと弾き飛ばされて目覚めたのは、ゴミ捨て場の隣だった。
聖なる加護も魔力もほとんど失った状態、残ったのは豪奢で目立つ聖衣のみ。
「……ここは何処、どすえ?」
周囲を見渡せば、夜だというのに星が見えないほど明るい街並み。空を飛ぶ鉄の塊。
行き交う人々は、手のひらサイズの光る板を眺めながら歩いている。
「ちょっと、そこのキミ。こんな時間になにしてるの?家出?それともイベントの帰り?」
「ふふ……星の導きにより、この地に追放された迷い人……とでも申しましょうか。これもまた、大いなる運命の悪戯です」
「あー、うん。そういう設定ね。とりあえず、話を聞かせてね」
余所行きに合わせた言葉遣いを『設定』の一言で切り捨ててくる、紺色の服を着た女性。
こちらが状況を整理する間もなく、慣れたように尋問を開始する。
咄嗟に聖女として最も得意とする『慈愛に満ちた微笑み』を浮かべ、目を細めた。
「……えーっと、ステキな笑顔を向けてくれるのは嬉しいけど、こっちも仕事だからね?身分証とか、連絡先とか、確認させてもらうよ?」
「申し訳ございません。身分を証明する類の物は、生憎と持ち合わせていないのです。故郷では、わたくしの顔と名前こそが通行証そのものでしたので」
「そっかー、それで笑顔を見せてくれたんだね。でも残念、日本では笑顔じゃ住民票の代わりにはならないのよ。お姉さんのお名前、教えてくれるかなーっ?」
顔が引きつった。まさか、聖女の慈愛に満ちた微笑みが通用しない世界が存在するとは。
「……わたくしの名はハンナリエル。かつてはそう呼ばれておりました。今はただの石ころのようなものです」
「はいはい。えーっと、メモメモ……『はんなり』……『える』……『ふ』?……え、エルフ?もしかして芸名とか、そういう感じなのかな?」
「芸名、ですか。ふふ、面白いことをおっしゃる。わたくしにとっては、この世のすべてが舞台であり、そこに生きる人々こそが共演者なのですから」
「あー分かった分かった、もうその設定はいいから。とにかく、このままだと補導案件だから、ちょっとそこまで付き合ってくれるかな?」
女性が指差す先には、ガラス張りの扉が付いた小さな小部屋と、その入り口で妖しく光る赤い灯火が見えた。
あれがこの世界の牢獄、あるいは断罪の場なのだろうか。
「ふふ、けったいなこと聞かはるなあ。この顔こそが、何より確かな通行手形であり、聖なる保証そのもの。うちの名を知らへん者やら、辺境の土竜くらいのものやろうに……あら、まさか本気でご存知あらへん?……こら驚きましたわあ──」
「──お姉さん、お姉さん。イヤミを言いたくなるのは分かるけど、胡散臭い京言葉と関西弁、素が出ちゃってるわよ?言葉とイントネーションが絶妙に迷子なの、自分で気づいてないの?」
「……わたくしの言葉が迷子?まさか、この洗練された言葉から発せられる悪口──失礼、高尚な皮肉を、こうも的確に読み取るとは。ふふ、貴女のその鋭い洞察力、ただの人間とは思えませんね」
余裕ぶった笑みで返してみせたが、内心では冷や汗が流れていた。
こちらの本音を見透かすとは、この世界の人間はどれほど高度な読心術を備えているのか。
――ぐぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……。
警戒レベルを引き上げようとした矢先、その緊張感は腹の底から響き渡った情けない咆哮によって粉砕される。
「あら、どうやらわたくしの内なる野獣が、少々騒がしいようで」
「野獣っていうか、ただの空腹だよね、それ。……はぁ、仕方ないなぁ。本当はダメなんだけど、話は何かお腹に入れてからにしようか」
促されるまま『KOBAN』と書かれたガラス張りの建物へ足を踏み入れた。
無機質な机と椅子、壁に貼られた手配犯らしき紙。
殺風景なその場所で、女性は光る板を取り出した。
「あ、もしもし?いつものカツ丼、一つお願い。……うん、大盛りで。迷子のお客さんにご馳走するからさ」
カツドン。
その未知なる響きを想像する。破裂するような音と、重く響く音の組み合わせ。
きっと、岩をも砕く剛腕の戦士が好んで食べる、干し肉を叩き潰して固めたような、無骨で力強い料理に違いない。
「あら、ご馳走してくださるなんて、太っ腹ですね。見返りに魂を要求されたりしませんでしょうか?」
「しないしない。お腹が空いてるならご飯くらい食べさせるよ。それが日本の警察官。魂の代わりに、後でちゃんと身元は教えてね」
軽口を叩きながらも、紺色の服の女性――警察官は、こちらの警戒を解こうとしてくれているようだった。
やがて遠くから聞こえてくる、けたたましい音と共に扉が開き、目の前に蓋付きの器が置かれた。
わずかな隙間から漏れ出す湯気。それは、かつて大聖堂で焚かれていた聖香よりも、遥かに扇情的に鼻腔をくすぐる。
「はい、おまたせ。冷めないうちに食べて。あ、一応言っておくけど、これ食べたからって自白を強要したりしないからね?お姉さんがドラマの見過ぎじゃないことを祈るけど」
「ふふ……供物はありがたく頂戴するのが礼儀。では、開帳と参りましょうか」
蓋に手をかけると、じんわりとした熱が指先に伝わった。
おそるおそる蓋を持ち上げると、凝縮されていた三つの香りが、まるで封印を解かれた精霊のように解き放たれ、一斉に襲いかかってきた。
まず鼻腔を焼いたのは、黄金色の液体で揚げられた油の、背徳的なまでに香ばしい香り。
次に、その衣に閉じ込められていた獣の肉が放つ、猛々しくも官能的な生命の賛歌。
そして最後に、それら全てを優しく抱きしめるかのような、甘塩っぱくも複雑な、文化と叡智の香り。
三位一体の暴力的なまでの芳香が、脳髄を直接揺さぶる。
聖女として長年、質素な食事で清めてきた魂が、この未知なる誘惑の前に、いとも容易くひれ伏していくのが分かった。
「ふふ……これが、カツドン。神々の宴でしか許されぬと伝わる、禁断の果実そのもの……」
「いや、ただの出前だけど。熱いから、火傷しないようにね」
「では、大いなる恵みに感謝を込めて……」
「どうぞどうぞー」
思わず細めていた目が、ほんのわずかに見開かれる。
黄金色に輝く衣を纏った肉の塊が、とろりとした半熟の卵に抱かれ、湯気の向こうで艶めかしく輝いていた。
用意されている木の棒を手に取り、まずは分厚い肉塊、その一切れへと狙いを定めた。
衣に汁が染み込み、しっとりとした部分と、まだ揚げたての荒々しさを残した部分が混在する、黄金色の聖衣。
持ち上げると、ずしりとした重みが指先に伝わってくる。
肉の甘い脂と、何かが煮詰まった香りが、最後の理性を麻痺させた。
覚悟を決めて、口へと運んだ刹那、世界が反転した。
(何という……暴力的なまでの旨味……!)
ザクッ、と小気味良い音が鼓膜を揺らした刹那、口内に熱量の奔流がなだれ込んだ。
肉の厚み、卵の滑らかさ、白い粒の甘み。
閉じ込められていた肉汁がじゅわりと溢れ出し、凝縮されたとろりとした汁が、舌を包み込む。
「お、いきなりがっつくねぇ。美味しい?」
「……っ!ふふ、言葉もありません。貴女は悪魔ですか?これほど罪深い味を、無防備な乙女に教えるとは」
「あははっ、そこのカツ丼は天下一品だからねぇ」
楽しそうに笑いながら、女性は熱い緑色の液体を差し出してくれた。
口に含めば、脂で満たされた口内をさっぱりと洗い流し、次の渇望を煽る。
これは、ただの料理ではない。
肉の持つ『暴力』、卵が司る『慈愛』、汁に秘められた『叡智』、そして全てを受け止める白い粒の『包容力』。
三位一体ではなく、四つの概念が器の中で奇跡的な調和を果たした、一つの完成された夜空の星々。
世界を救う旅路で口にしてきた干し肉や硬いパンとは、存在する次元が違う。
言葉は、もはや無意味だった。
思考は溶け、分析を放棄した脳が、ただ一つの命令を全身に下す。
――喰らえ、と。
「んっ……んんぅ……!」
ザッ、ザッ、ザッ。
もう一切れの肉塊を、ためらいなく口へとかき込む。
ハフ、ハフ、と熱い息を漏らしながら、ひたすらに咀嚼を繰り返す。
肉、粒、肉、粒、そして時折現れる、汁でくたくたに煮込まれた玉ねぎの優しい甘み。
それが単調になりかけた味覚をリセットし、再び食欲の炎を燃え上がらせる。
「……」
無言。
無心。
無我の境地。
目の前の警察官が呆気に取られていることにも気づかず、箸は止まらない。
これは戦いだ。冷めてしまう前に、この熱量の塊を全て胃袋に収めるという、聖なる戦い。
いつの間にか手にしていた、空になった器をテーブルに置いた時、ようやく長い旅が終わったかのような静寂が訪れた。
「ふう……。ごちそうさま、どした」
「……うん、お粗末様。気持ちいい食べっぷりだったよ。お姉さんはいったい、どこのグルメレポーターさんなのかな?」
「……悔しいですが、この味、一生忘れられそうにありません。ありがとうございました」
「この会話のかみ合わなさっぷり。まぁそれは良かったよ。それでなんだけど、住所を教えてもらえるかな?」
「わたくしはハンナリエルと申します。ふふ、以後お見知りおきを」
「いやいや、『はんなり』さんの名前はさっき聞いたから。それに警察官と顔馴染みになるのもどうかと思うけど……家出じゃなくて、帰り道が分からなくなっちゃっただけなら、送っていくよ?」
その問いに答えられず、困ったように首を傾げた。
異世界から来ました、などと言えば、先程のカツドンの対価として、精神鑑定される未来が見える。
かといって、嘘をつくのは聖女の矜持に関わる。悪口は別として。
「……それが、家と呼べる場所を失ってしまいまして。今は、天を屋根とし、地を床とする身の上なのです」
「えっ、もしかして……ホームレス?その恰好で?」
「ふふ、まあそのようなものです。ですがご心配なく。星の導きが、きっとわたくしに雨風をしのぐ場所を――」
「あのねぇ、今は冬だよ?そんな恰好で外にいたら凍え死んじゃうから!」
目の前の警察官は、呆れたようにため息をつくと、真剣な眼差しでこちらを見据えた。
「うーん、人を見た目で判断してはいけないとはいえ……。口調が気になるところだけど、日本語のやりとりで苦労しなさそうだし……」
カツドンを食べ終えた満足感に浸っていたが、どうやら審判の時はまだ終わっていなかったらしい。
「本当に、帰るアテはないの?その服、すごく高そうに見えるんだけど、何か複雑な事情があるってことなのかな?」
「ふふ、ご覧の通り無一文。この身一つで降り立った、哀れな子羊と思っていただければ幸いです」
最も得意とする、慈愛と諦観をない交ぜにした笑みを浮かべる。
胡散臭いと言われようが、これが今の自分にできる最大限の処世術。
可哀想な自分を演出することで、相手の庇護欲を刺激する高等戦術である。
「……じゃあ、今夜はどうするつもりだったの?こんな真冬に、まさか本当にホームレスってわけではないでしょ?」
その問いに、思わず遠い目をしてしまった。
この世界に来てからというもの、思考がカツドンの衝撃で支配されており、その後のことなど1ミリも考えていなかったのだ。
これほどまでに美味しいものが存在する世界で、凍え死ぬなどという結末は、あまりにも悲劇的すぎる。
「ふふ、ご心配には及びません。夜空に輝く星々が、きっとわたくしを暖かな寝床へと導いてくれるはず。これもまた、運命の采配というものですから」
「星は宿代を払ってくれないし、布団も貸してくれないよ?運命とか言う前に、まず現実を見ようね、お姉さん」
バッサリと、詩的な表現を切り捨てられた。
この紺色の服の女性、どうやら幻想や情緒といったものに、著しく耐性が低いらしい。
現実という名の刃で、容赦なくこちらの言葉を斬りつけてくる。
「……それに、さっきのカツ丼一杯で、今日のところは満足できたの?」
「いえ、正直に申し上げますと、あと二杯は余裕で……はっ!いけまへん、つい本音が」
「だろうね。見てて分かったよ。……はぁ」
警察官は、心底面倒くさそうに、しかし見捨てる気はなさそうな深いため息をついた。
その眉間に刻まれた皺は、きっと日々の激務と、他の面倒な迷い人との遭遇によって刻まれた、聖痕のようなものに違いない。
「……分かった。責任、取るよ」
「責任?ふふ、面白いことを言いますね。カツドン一杯で、わたくしの魂まで買い取ろうという魂胆ですか?」
「違う違う!ワタシがキミを見つけちゃった責任!胡散臭いだけじゃなくて、面倒くさいお姉さんだね!……はぁ、見て見ぬふりなんてできない性格なんだよ、昔から!」
ガシガシと頭を掻きながら、警察官は半ばヤケクソといった様子で言い放った。
「はんなりえるさん、だっけ?ちょっと心当たりがあるから、一晩だけ泊めてもらえるように頼んであげる。ただし、明日になったらちゃんと身の振り方を考えること。いいね?」
「まあ、なんと慈悲深い。このご恩、わたくしの故郷では『血の盟約』にも等しいものです。貴女の魂に、わたくしの魂を重ね──」
「重い重い!そういうのはいいから!ただの知り合いの大家さんにお願いするだけ。空き部屋が一つくらいあるはずだし」
差し伸べられた救いの手に、糸目をさらに細め、最大限の感謝を込めた微笑みを浮かべた。
「ふふ、貴女はこの荒野に咲く一輪の花。いえ、砂漠におけるオアシスそのもの。わたくしの魂は、貴女という名の泉によって救われました」
「はいはい、分かったから。とにかく行くよ。あ、ワタシは桐原、『桐原八江』って名前。短い間だけど、よろしくね」
***
──あの出会いが、この世界におけるささやかな生活の始まりだった。
世話焼きな警察官──キリハラさんが紹介してくれた大家さんは、これまた世話焼きな人で、破格の条件でアパートの一室を貸してくれたのだ。
最後の一本を名残惜しくも飲み込み、懐かしい記憶に蓋をする。
香ばしい醤油の余韻を楽しみながら、買い物袋を提げ直し、今や我が家となったアパートへの道を急いだ。
ギイ、と音が鳴る油が足らない扉を開ければ、そこは六畳一間の聖域が広がっていた。
古びた畳の匂いと、日当たりの良い窓際に置いたハーブの鉢植えが放つ微かな青い香りが混じり合い、疲れた心を穏やかにしてくれる。
「さてと。まずは戦利品の陳列から始めまひょかえ。今日の戦果をこの小さき宝箱へ収めて、今宵の宴の準備を万全に整えることこそ、聖女たるうちの務めどすえ」
買い物袋から食材を取り出し、小さな冷蔵庫へと手際よく仕舞っていく。
今夜の主役である『キャベツのガッツリ肉味噌炒め』は、腹持ちの関係から、じっくりと時間をかけて向き合いたい逸品へ。
その前に、まずは労働で乾いた喉と、高ぶった心を鎮めるための儀式が必要不可欠だった。
「ふふ、聖水で喉を清めて、前菜で胃袋の準備運動といきまひょかえ。胃袋にいきなり主役を放り込むのは、神聖なる食卓への礼儀に欠けますさかいになぁ」
取り出したるは、残り僅かな冷え冷えのビール缶。
キャベツ一玉の外葉を、豪快に手でバリバリと引き剥がす。この音こそが、食欲を掻き立てる最高のファンファーレ。
ちぎった葉をボウルに入れ、特濃ごま油、白ごま、鶏ガラの粉末、そしておろしニンニクを少々。
十八番の『やみつきキャベツ』の完成である。
プシュッ、と小気味良い音を立てて缶のプルタブを開ければ、黄金色の液体が白い泡を立てて顔を覗かせた。
香りがふわりと鼻を撫でる。この匂いも、すっかり慣れたものだ。
グラスなどという文明の利器は使わない。
缶のまま、冷えた金属の感触を唇で確かめながら一気に呷るのが、労働後の流儀である。
「くぅーっ……!染み渡りますなあ。この苦味と喉越しこそ、労働から魂を解放する聖なる洗礼どすえ。黄金の滴が、枯れ果てた内側に静かなる福音を届けてくれはりますわあ」
渇ききった喉を麦とホップの恵みが駆け下りていく。
内側からじわりと広がる解放感。これ以上の贅沢が、他にあるだろうか。
いや、ある。
箸でつまんだやみつきキャベツを、口へと運んだ。
パリッ!
鼓膜に響く、最高に小気味良い破壊音。
噛み締めるたびに、ごま油の香ばしい香りと塩気、そして鶏ガラの旨味がキャベツ本来の瑞々しい甘みを引き立て、口内は瞬く間に幸福な混沌に満たされる。
「ふふ、これどすえ。この食感と味の暴力、たまりまへんわあ。ごま油の香りと塩気が、キャベツの甘みを引き立てて、ああ……ビールが恐ろしいほどに進んでしまいますわぁ」
ビール、キャベツ、ビール、キャベツ。無限に続けられそうな黄金の循環に身を委ね、しばし恍惚の表情を浮かべる。
この感動、この福音を、迷える子羊たちにも伝えなければならない。それが、この世界の新たな聖女として与えられた使命なのだから。
ちゃぶ台の隅に追いやっていたノートパソコンを開き、慣れた手つきでブラウザを起動した。
ブックマークから『のーちょ』へアクセスし、自分のページ『Re:エルの福音グルメ日記』を開く。
「さてと。今宵も聖なる言葉を紡ぎまひょかえ。画面の向こうで救いを待つ子羊たちに、この香ばしき福音を届けることこそ、うちに課せられた新たな使命どすさかい」
新規投稿ボタンをクリックし、真っ白なページに指を滑らせた。
ビールを一口、キャベツを一枚。キーボードを叩く指が、軽やかに、そしてどこか神聖な祈りを捧げるかのように踊り出す。
まずはタイトル。今日受けたインスピレーションを、そのまま言葉の祭壇に捧げる。
【タイトル:[啓示]春の息吹という福音と『焦がし醤油』の原罪、あるいは純粋なる食物への回帰について】
我ながら秀逸なタイトルに満足し、本文へと指を滑らせた。
『──『春キャベツ』という98円の福音。あまりにも謙虚なその対価に、わたくしは神の慈悲と残酷さを同時に見たのです』
キーボードの上で、指が軽やかに舞う。
カタカタと、心地よい打鍵音が静かな部屋に響き渡る。
ビールとやみつきキャベツの香りが鼻腔を抜け、次の言葉を運んでくる。
『──おお、罪深き『焦がし醤油』の香りよ。それは、甘い蜜で己を飾り立てることを潔しとせず、ただ焼かれることによって己が魂を昇華させる、求道者のごとき一品』
脳裏に蘇るのは、あの背徳的なまでの香り。
あの感動を、いかにして言葉に落とし込むか。聖女としての腕の見せ所である。
『その一口は、あらゆる虚飾を剥ぎ取った食の原風景。米と、発酵せし大豆の雫、そして火。この三つの要素のみで構成されたその味わいは、我々が文明の果てに忘れかけていた、純粋なる魂の充足を思い出させてくれるのです。ああ、これもまた、偉大なる恵み……』
ふぅ、と一息つき、投稿ボタンを押した。
そのまま合わせて『マヨッター』にも、ポストをシェアする。
今宵もまた、迷える子羊たちに、ささやかな救いの道を指し示せたことだろう。
瞬く間にハートマークが灯り、コメントが数件寄せられる。
【待ってました聖女様!】
【この時間にその描写は飯テロすぎる】
【あいかわらず文章が重厚なのに内容がお団子で草】
寄せられた信徒たちの阿鼻叫喚に微笑み、満足感と共にビールを飲み干した。
空になった缶をちゃぶ台に置き、最後の『やみつきキャベツ』を口に放り込む。
パリパリとした食感と、心地よい満足感。日雇い労働の疲れが、アルコールの力でじんわりと溶けていくのが分かった。
「……いよいよ本日の主役の登場……おや?これは……睡魔という名の、甘美なる悪魔の囁きどすか」
瞼が、まるで幕が下りるかのようにゆっくりと落ちてくる。
パソコンの画面の光が、やけに目に染みた。
「あきまへん……肉味噌が……豚バラ肉がうちを待っとるというのに……」
食欲という名の信仰心と、睡眠欲という名の原罪。
聖女の内で、今、究極の聖戦が始まろうとしていた。
しかし、その戦いはあまりにも呆気なく、一瞬で決着がついてしまう。
「ふふ……これもまた……星の導きどす。お肉は……明日焼いたほうが、味が染みて……美味しゅうなる……かもしれませんし。今日はもう、戦略的……撤退どすえ……」
もはや言い訳すら呂律が回らない。
思考は完全に停止し、温かな暗闇が意識を優しく包み込んでいく。
最後に脳裏に浮かんだのは、どこまでも広がるキャベツ畑と、その上をふわふわと漂う豚バラ肉の雲だった。
ノートパソコンの明かりだけが煌々と灯る六畳間で、世界を救った聖女は、子供のような寝息を立て始めたのだった。
#かつ丼 #警察メシ #出前の誘惑 #三位一体の暴力 #聖女の初めて
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