第19話 初夏の夜風に囁く渇望、深夜の神域を護りし二人と『豚汁うどん』の洗礼
カレンダーの数字は初夏へと差し掛かり、日中の陽射しは肌を刺すほどに強くなり始めている。
しかし、月の光が差し込む六畳一間のアパートには、まだ深夜特有の冷え込みが居座っていた。
「……季節の移ろいは早おすなあ。日中はあんなに暑かったのに、深夜の静寂はまだ冬の名残を隠し持っとるようどす」
「んにゃ~」
「せやね。あのとき、不慮の事故で次元の狭間に吸い込まれたとはいえ、うちが消えた後のあの世界はどうなっとるんでっしゃろ……」
傍らでは、白く丸っこい信徒が、液晶のような瞳をパチパチさせてこちらを見上げている。
召喚獣、あるいは最新鋭の猫型ロボット――んにゃ丸は、あたかも深遠な真理を理解しているかのように、短く鳴いた。
かつて数多の信徒に囲まれ、神々や精霊の加護を一心に受けていた聖女。
それが今や、スーパーの特売シールに命をかける、はんなり系フリーター。
この不条理を、女神サマはどう説明するつもりだろうか。
「んにゃ、にゃにゃ~ん!」
「ふふ、あまり急かしなや。帰還の鍵は、きっとこの世界の『美味しいもの』の中に隠されとるはずどすえ」
その時、棚の上に置いたスマホが、戦を告げる法螺貝の如くバイブ音を響かせた。
画面に表示された名は、この聖域の守護者であり、食の供給源。
大家のゴンドウさんからだった。
『……ハナ。今すぐ店に来い。深夜の防犯と物流の試練だ。一人じゃ回らねぇ』
簡潔ながらも、その切実さが伝わる福音。
深夜、強盗やトラブルから神域を護るため、そして数多の供物(商品)が運び込まれる検品作業を完遂するため、今の時間帯にはどうしても二人の神官が必要なのだ。
アパートの一室を格安で借りさせてもらっている身には、断る権利などは存在しなかった。
***
二十四時間営業の光り輝く神域。通称、コンビニ。
聖衣(制服)を纏い、カウンターの内側に立てば、そこはもう迷える子羊たちを導く最前線。
「……よく来た」
レジの奥から、首にタオルを巻いた強面のゴンドウさんが、ドスの利いた声を出す。
彼は、こちらの足元でちょこまかと動き回るんにゃ丸に、ぶっきらぼうに言った。
「そいつは何だ、働けるのか?」
「ふふ。んにゃ丸は忠実なる信徒どすえ。少々の床掃除や、お客様の御案内くらいはお手の物どす」
「……そうか。ならメシを奢ってやる。姿形はどうでもいい、働けるなら使わせてもらう」
ゴンドウさんは、んにゃ丸が最新のロボットなのか、それとも新種のUMAなのか、そんな些細なことには一切興味を示さない。
ただ、「よく食う奴は働く奴」は信じる、という彼独自の鉄則に従っているだけなのだ。
こうして、はんなり聖女とんにゃ丸による、深夜の接客と検品の合同修行が始まった。
「んにゃ~ん」
んにゃ丸が、自動ドアが開くたびに愛嬌を振りまき、足元を滑るように動いては、床の汚れを磨き上げる。
深夜のコンビニを訪れる疲れ果てたサラリーマンや、夜更かしの学生たち。
彼らはその奇妙な光景に一度は目を剥くものの、んにゃ丸の「んにゃん!」という慈悲深い鳴き声と、こちらの「はんなりスマイル」に毒気を抜かれ、吸い寄せられるように商品を手に取っていく。
自動ドアが開くたびに吹き込む夜風は、日中の熱気を嘲笑うかのように鋭い。
レジカウンターの内側で笑顔を絶やさないという精神的な自己研鑽に加え、棚の補充、床の清掃、そして休む暇もなく運び込まれる検品の山。
「んにゃ、にゃーん!」
んにゃ丸が冷気を纏って出てきた。
どうやらバックヤードで飲料の補充を手伝っていたようだが、その瞳にはどことなく達成感が漂っている。
そんな静寂の防波堤を切り裂くように、外界から野太い咆哮が響き渡った。
バイク数台が駐車場に滑り込み、重低音の排気音が神域の静寂を乱す。
「あらまあ。夜の静寂を賑やかに彩る、元気な騎士はんたちどすなあ」
駐車場で談笑し、エンジンを吹かしてはしゃぐ『やんちゃなツーリングクラブ』の面々。
彼らの放つ熱量は、深夜の寒さを一瞬で吹き飛ばすほどの勢いがあった。
その喧騒を抜けるように、一人の少女が店内に足を踏み入れる。
脱色された明るい髪に、少しばかり攻撃的なデザインのスカジャン。
一見すれば『ヤンキー系女子』と称されるであろう彼女は、鋭い眼光で店内をねめ回し、迷いのない足取りでレジへと向かってきた。
「お頼み申しますえ。その春の陽光を閉じ込めたような紅き雫、今の時間にはまさに至高の選択どすなあ」
「……あ?なんだよ。変な店員。これ、ただのいちごオレだろ。別に好きで選んだわけじゃねぇし、たまたま棚の端っこにあったから……」
「あらまあ。偶然の導きこそ、時に運命の啓示となるものどすえ。その甘美なる癒やしは、夜風にさらされた身体を芯から清めてくれるどす。……ストロー、お付けしまひょか?」
「……付けてよ。そんなツラで見んな。喉が渇いただけだっての」
「承知いたしましたえ。この清廉なる吸管を添えて。……夜道の巡礼、お気をつけてお帰りやす。素敵な夢が見られますよう祈っとりますえ」
「……っ。余計な世話だよっ!」
彼女はわずかに頬を染めて吐き捨て、手に取った『いちごオレ』のパックを握りしめると、逃げるように不夜城を後にした。
その足取りは、来た時よりも心なしか軽やかになったように見えた。
***
「……終わったな。ご苦労さん」
翌朝五時。
客足が途絶えた静寂の中で鼻腔をくすぐるのは、出汁の芳醇な香りと、心まで温めるような蒸気。
「ピンチヒッターだったからな、これはバイト代の上乗せだ。食え」
そこに鎮座していたのは、もうもうと湯気を上げる『豚汁うどん』だった。
根菜の旨味を凝縮した味噌の海に、豚の脂が星のように煌めき、その奥底には白き麺が身を潜めている。
廃棄品ではない。棚に並んでいるのと寸分違わぬ、正真正銘の正規品。
ぶっきらぼうな態度の裏に隠された、この神域の主ならではの不器用な慈悲に、鼻の奥が微かにツンとする。
「あらまあ……。これはまた、一段と神々しい供物どすなあ」
「……勘違いすんな。発注しすぎちまった分だ。捨てるにゃ忍びねぇから、働いたお前さんに食わせてやるだけだ」
「賞味期限が今日までやないって見ましたけど?これはもしや、ゴンドウはんの『真心』という隠し味が入っとるんと違いますやろか」
「……チッ、減らねぇ口だな。いいから食え。麺が伸びちまったら慈悲も何もありゃしねぇ」
「ふふ。では、お言葉に甘えて温かいうちに拝受いたしまひょ。おおきに」
自動ドアの向こう側、街の空は白み始め、夜の支配が終わろうとしている。
「ハナ、食い終わったらいい話があるんだが……」
「いい話どすか?」
「ああ。裏のビルで『特別な祭典』がある。……お前さんなら、幸運の女神を引き込めるかもしれねぇ」
瞳には、かつての戦友を見るような、あるいはギャンブルの相棒を期待するような、不思議な光が宿っていた。
前回。ゴンドウさんに連れられて向かった『競馬場』という名の聖なる競走場。
そこで味わった手に汗握る高揚感と、それ以上に激しいキリハラさんの説教は、今も記憶に新しい。
「ふふ。ゴンドウさん。それはもしや、キリハラはんに叱られる類の世俗的な娯楽ではありまへんやろか?うちは聖女ですので、そういった運否天賦へ頻繁に身を委ねるのは──」
「──『極上の豚の角煮』が出る。あそこの胴元、食い物に関しては妥協しねぇんだ。圧力鍋を使わねぇで、一晩じっくり煮込みやがった代物だ」
「……」
箸に挟んだうどんが、重力に従ってしなやかに震える。
まさに世俗の誘惑を体現したかのような、甘美な姿。
対戦カードは、正論という聖盾か、角煮という禁断の果実か。
「ふふ……。女神サマは、時に過酷な二択をお与えになりますなあ。ですが、迷える子羊を導くのも聖女の務め。……しょうおへんなあ、少しばかり観測にお供しまひょか~」
「……よし。決まりだ。んにゃ丸も連れてこい、あいつは縁起が良さそうだ」
「んにゃ~ん!」
こうして。はんなり聖女と白く丸っこい信徒は、さらなる深淵へと吸い込まれていくことになった。
キリハラさんの雷がどれほど激しいものか。
今はまだ、豚汁の残り汁に映る、小さな朝日のように輝く希望を信じれば良いのだから。
***
【タイトル:[聖別]深夜の静寂に顕現せし具沢山の慈悲、摩耗した魂を芯から温める『豚汁うどん』という名の食の防波堤と、労働の果てにある救済について】
『――明け方の静寂に立ち上る芳醇なる味噌の香気。苦難という名の労働を超えた先に授かりし『豚汁うどん』は、大地の根菜と豚の脂を慈悲で調和させた、まさに一杯の曼荼羅。洗礼を受けた豚肉を噛み締めれば、溢れ出す旨味は疲弊した神経を再起動させ、白きうどんという名の救いの糸は、明日への希望を紡ぎ出すのです。熱きスープを最後の一滴まで拝受するとき、我らはただ、この一刻の救済に身を委ね、深夜の冷え込みを忘却する。これこそが、摩耗した現代人の魂を救済する現代の福音なのです』
迷いなき足取りで、不夜城の入口へと向かうのだった。
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