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第18話 夕暮れの道場に響く弦音の導きによりし『いなりずし』の福音と若き武人への啓示

 ──第18話 夕暮れの道場に響く弦音の導きによりし『いなりずし』の福音と若き武人への啓示


 とある日の夕刻は、長い影を地面に引きずり、どこか感傷的な色に染まっている。


「聖なる労働バイト」、それは時として戦場と化す。

 本日の戦場は、魔の刻――ラッシュアワーの駅前広場だった。


 行き交う人々、迷える子羊たちの波に対し、一瞬の隙を突いて「福音チラシ」を手渡す短期決戦。

 阿修羅の如き手捌きでノルマである千枚の紙片を配り終えた時、魂は完全に燃え尽きていた。


「ふぅ……。腕が……腕がもげそうですわ……」


 短時間で全精神力を使い果たし、くたくたに疲弊した身体を引きずる帰り道。

 ふと足が止まったのは、かつての戦場を思い出させる、鋭くも清廉な空気が鼻腔をくすぐったからだった。


 この近くには、街の若き戦士たちが集う学び舎がある。

 そこには、猫の扱いを伝授してくれた少女――龍崎千怜や、銭湯の秩序を守る少女――水守凛が通っているはずだ。


「ふふ、若き芽が今日も健やかに伸びているのか、少しばかり気になりますなあ」


 元の世界において、エルフは長命の種族である。

 彼女たちのような若者は、かつての聖女から見れば愛でるべき守護対象であり、未来を照らす希望そのもの。

 そんな親心にも似た感情を抱きながら、校門の脇に広がる茂みの陰を音もなく歩を進めた。


「あれ、そこにいるのは……胡散臭い、じゃなくて、ハンナリエルさんじゃん!」


 掛けられた声に、糸目を細めて振り返る。

 そこにはポニーテールを揺らし、武道着に身を包んだチサトさんが立っていた。

 袴を履いたその姿は、まるで戦場に舞い降りた若き精霊のようで思わず見惚れてしまう。


「ふふ、チサトはん。奇遇どすなあ。仕事終わりにこの辺りの精霊の囁きへ耳を傾けておりましたわ」

「精霊の囁きって……もしかして『弦音つるね』のこと?相変わらずユニークな話し方!ねぇ、せっかくだから弓道場に寄っていかない?今なら自主練中で顧問の先生もいないから」

「弓道場どすか?ふふ、精霊の囁きに導かれるまま聖域を訪ねるのも一興どすなあ」


 学び舎への不審者侵入は、元の世界であれば即座に魔法による拘束術が発動される案件である。

 とはいえ、この平和な国においては、そこまで厳格な結界は張られていないはずだ。


「でも、うちは学び舎の巡礼者(生徒)ではありまへんし、もし誰かに見つかったら不審者扱いされてしまいますやろ?」

「あはは、大丈夫大丈夫!ハンナリエルさんは元から十分胡散臭い……じゃなくて、ミステリアスだから今更だよ!それに今日は他の部活もほとんどいないし、弓道部も自主練だけだから。私が案内すれば何も問題ないって」

「まあ、チサトはんがそう仰るなら、お言葉に甘えさせていただきましょか」


 チサトさんは、満面の笑みで袖をぐいと引いた。

 その力強さは、日常を生きる若者のエネルギーに満ち溢れている。


 労働で疲弊した身体ではあるが、若き精霊の誘いを断る理由もない。

 導かれるまま、静かで安らかな空気が満ちる弓道場へと足を踏み入れた。


 道場内には磨き上げられた床の香りと、弦が弾ける鋭い音が響いていた。

 夕日が差し込む窓から、埃一つない空間に光の筋が伸びている。


「実に清廉な空気どすなあ。まるで神殿のようですわ」

「でしょ?弓道場って、なんか特別な雰囲気があるんだよね。じゃあ、ちょっと見ててね。今日の調子を見せてあげる」


 チサトさんは慣れた手つきで弓を構え、的を見据える。


 その瞬間、彼女の纏う空気が一変した。

 天真爛漫な少女の顔は消え、そこには一筋の道に魂を捧げる武人の貌があった。


 呼吸が止まり、世界が静止、そして弓が鳴る。

 放たれた矢は、夕日を切り裂く一閃の光となり、吸い込まれるように的の真ん中を射抜いた。


「よしっ!決まった!」

「ほお……見事な一矢どすなあ。チサトはん、あんさんの魂、今まさに天を翔ける銀翼のように輝いておりましたわ」

「あはは、ハンナリエルさんに褒められると、なんだか本当にすごいことをした気分になっちゃう。ねぇ、お姉さんもやってみる?ほら、この予備の弓を使って」

「うちどすか?弓の作法はあまり存じませんが……」

「大丈夫大丈夫!最初はみんなそうだよ。せっかくだし体験してみてよ。弓道って意外と誰でも楽しめるんだよ?」

「ほお、そうどすか。確かに、この世界では様々な場所で弓に触れる機会がありますなあ」

「うん!自然公園にあるアーチェリーセンターとかでも、初心者向けの体験会やってるし」

「アーチェリー……この世界には様々な『的を射る術』がありますなあ」


 チサトさんは、目を輝かせながら頷いた。

 この国における「的を射る」競技は、世界的な祭典でも大いに盛り上がるらしい。


「そうそう!『的を射る』競技って、エアピストルとかライフル射撃とか、色んな競技があるよね。あ、凛ちゃんとかあの辺の競技やったら凄そうじゃない?めちゃくちゃ格好いいと思う!」

「リンはん……確かに、あの落ち着いた佇まいは、精密射撃に向いておりそうですわ」

「でしょ!クールな感じで銃構えてる凛ちゃん、絶対絵になるよね。……あっ、でも今は弓道だよ!はい、ハンナリエルさん、やってみて!」


 チサトさんは、興奮冷めやらぬ様子でその手を引いて射位へと立たせた。

 聖女にとって弓は馴染みのある武器ではない。


 かつて手にしていたのは、清らかな魔力を紡ぐ杖。

 だが、その本質は同じである。

「ただ、あるべき場所へ、あるべき心を届ける」こと。


「では、チサトはんの素晴らしい演武のお礼に、こちらも少しばかり古の作法を試してみましょか」

「えっ、古の作法?なんか凄そう!」

「大したものではありまへんが……。チサトはん、構え方を教えてもらえますやろか」

「もちろん!えっとね、まず足を肩幅に開いて……そうそう、的に対して半身になる感じで……うん、いい感じ!次は弓を持ち上げて……腕を真っ直ぐ伸ばして……。姿勢、綺麗だね!」

「ありがとうございます。では、このまま……」


 弓を手に取れば、その重みと弦の緊張が手のひらに伝ってくる。

 現代の弓道という「道」の作法は知らない。

 だが、エルフという種族が歴史の中で培ってきた、風を読み、理を射抜く感覚は、この身体に深く刻まれている。


(――足を肩幅に、的に対して半身。チサトはんの教えに従い、この身体に宿る記憶を呼び覚ます)


 糸目を完全に閉じ、心眼を開く。

 魔力や精霊の力を借りるまでもない。これは、純粋な技術と経験の問題。


 道場の外の喧騒も、風の音も、チサトさんの期待に満ちた視線も、すべてが遠ざかっていく。

 ただ、そこにある的、「中心」だけが、心の内に浮かび上がった。


 無造作に、だが流れるような所作で弦を引き絞る。

 ただ、筋肉の一つひとつが古代の記憶に従って、最適解を導き出す。


 パンッ!


 乾いた音が道場に響き渡った。

 放たれた矢は、放物線を描くことすら拒絶し、文字通り一直線に空間を貫いた。


 先に刺さっていたチサトさんの矢を真っ二つに割り、そのまま的の裏側の土手へと深く突き刺さる。


「……えっ?」


 チサトさんの絶句する気配が伝わってくる。

 静止した空気の中で、二つに裂けた竹の繊維が、夕日に照らされて無情にも白く輝いていた。


 それは単なる「当たり」ではない。

 物理的な理を超えた、絶対的な意志の貫通であった。


「うそ……でしょ……?継ぎ矢(つぎや)……これ、本当に漫画や伝説の中だけの話じゃないの……?」


 一瞬の沈黙の後、チサトさんの顔がぱあっと輝いた。


「すっごーーーい!!なにそれ!ハンナリエルさん、今の見た!?見たよね!?自分でやったんだもんね!?」

「ふふ、まあ、その……」

「継ぎ矢だよ!?本物の継ぎ矢!!生で見るの初めて!っていうか、やる人初めて見た!!」


 チサトさんは興奮のあまり、その場でぴょんぴょんと跳ねながら握りこぶしを振り回していた。

 先ほどまでの凛とした武人の姿は何処へやら、目を輝かせた少女がそこにいる。


「ちょっと待って、これ誰かに言いたい!凛ちゃんに言いたい!……あ、でも信じてもらえないかも!」


 はんなりと微笑みを浮かべ、弓を丁寧に彼女へと返した。


「ふふ、少しばかり指先が滑ってしまいましたわ。身体が勝手に動いてしまったようどすなあ」

「身体が勝手にって……いや絶対嘘だよ!今の動き、完璧すぎたもん!ねぇねぇ、ハンナリエルさんってどこかで弓やってたの?」

「まあ……遠い昔に、少しばかり」

「やっぱり!道理で!……って、ん?遠い昔?ハンナリエルさん、私とそんなに歳変わらなくない?」

「ふふ、さあ、どうでしょうなあ」

「もー、はぐらかさないでよ!……って、あれ?」


 チサトさんの視線が的の方へと向いた。

 そして、二つに裂けた自らの矢を見つけ、表情が固まる。


「……これ、どうしよう。部長になんて説明すればいいかな。『ミステリアスな通りすがりの聖女さんが継ぎ矢しちゃいました』なんて言っても、絶対信じてもらえないよ……。かといって、自分がやったって言うのはもっと無理があるし。あうぅ、反省文の損壊だよぉ……」


 頭を抱えて、縁側にうなだれるチサトさん。

 その姿は、先ほどまでの「若き武人」の貌から、すっかり等身大の「怒られるのが怖い女子高生」へと戻ってしまっていた。


 そんな彼女の愛らしい苦悩を見守りながら、カバンの中から帰り際に立ち寄った、商店街で評判の包みを取り出した。

 鼻腔をくすぐるのは、甘酸っぱく、どこか懐かしい酢飯の香りと甘辛く煮含められた油揚げの芳醇な香り。


「これは……いなりずし?」

「ええ。近くの古き神域――お稲荷さんの門前で最も慈悲深い味と評判のものどす。修行の後の充足にこれ以上の福音はございまへんわ」


 道場の縁側に腰を下ろし、二人で包みを広げる。

 照りの良い、狐色の衣を纏った小山が、夕日に照らされて黄金色に輝いている。

 それは、大地の恵みを凝縮した、小さき聖遺物のようにも見えた。


「まっ、考えてても仕方ないか。いただきます!」


 チサトさんが勢いよく一つを頬張った。

 その作法を愛でるように眺めながら、自分も一つ、慎重にかつ敬意を持って摘み上げる。


 指先に伝わる、じゅわりとした油揚げの重み。

 口へと運べば、その瞬間。


(――ああ、なんと濃厚で、そして優しい救済……!)


 噛み締めた瞬間、甘辛い煮汁が泉のように溢れ出し、口内を聖なる喜びで満たす。

 油揚げの香ばしさと、酢飯の爽やかな酸味、そして中に混ぜ込まれたゴマのプチプチとした食感が、完璧な三位一体を成していた。

 それは、厳しい修行に耐えた身体の隅々にまで、大地の魔力を還元していくような感覚である。


「美味しい……!なんだろう、この甘さが疲れた身体にじわーって染み渡る感じ。ハンナリエルさんの言う通り、本当に福音かも」

「チサトはんのその笑顔こそ、まさに至福の証明どすなあ。お米の一粒一粒、油揚げの一枚一枚に、この地を見守るお稲荷さんの慈悲が宿っておりますわ」

「お稲荷さんかぁ……。なんだか本当に不思議な力を貰えそう。よし、今日の練習、これでもう一踏ん張りできちゃうかも!」


 夕闇が濃くなる中、チサトさんは満足げにいなりずしを完食し、再び活気ある瞳を取り戻していた。


「さて、チサトはん。またどこかの縁でお会いしましょか。精霊さんの加護があんさんの矢に宿り続けますように」

「うん!またね、ハンナリエルさん!次は私が教えてもらう番だからね!」


 背後で元気な声が響く。

 部活動に励む若者たちの熱気が、肌を心地よく刺激する。


 労働があり、研鑽があり、休息があり、そしてそれらを癒やす美食がある。

 この世界の美しさは、そんな何気ない循環の中にこそ、秘められているのかもしれない。


 帰り道、コンビニの淡い光が現代の灯火のように街を照らしていた。

 足元に忍び寄る影に声をかける。


「さて、んにゃ丸。この感動を迷える羊たちにも分かち合いましょか」

「んにゃ~ん!」


 んにゃ丸が足元で元気に尻尾を振った。

 スマホを取り出し、指先に今日の福音を乗せて、聖なる記録のーちょへと刻み始めた。


 ***


【タイトル:[恩受]夕闇の聖域にて授かりし黄金の衣、甘辛き『いなりずし』、すなわち三位一体と、道場に降り注ぐ狐の慈悲について】


『――静謐なる道場。一筋の光を射貫く修行の果てに授かりし『いなりずし』は、大地の慈悲を宿した黄金の聖遺物。狐色に輝く衣、その柔らかな守護を噛み締めれば、溢れ出すのは甘辛き煮汁の洪水、そして魂を浄化する酢飯の酸味。その三位一体の調律は、摩耗した五臓六腑を再起動する真の啓示となるのです。労働と研鑽の後に捧げるこの一口こそ、煩悩の霧を晴らし、明日へと飛翔するための翼を授ける聖なる供物。お稲荷さんの悪戯に微笑み、我らはただ、この一刻の救済を享受するのみなのです』


「ふふ。さて、今宵の夕餉は何にしまひょか。ん、あの看板にあるのは未知の試練。これもまた、新たな香りがしますなあ……」


 静かに微笑み、賑やかな夜の街へと足を進めるのだった。

 道場の屋根に、二つの細い月のような光が宿っている。


 それは、かつて見上げた世界の記憶かもしれない。

 だが、今の自分にとっては、それ以上に目の前の「美味しい」という至福の奇跡の方が、何倍も大切だった。


 #いなりずし #弓道場の奇跡 #狐の慈悲 #聖女の感応


お読みいただきありがとうございます。

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