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第17話 蒼天を泳ぐ大魚の祝福、生命の継承を宿した『かしわ餅』への祭礼と聖女の休息

 空は驚くほどに青く澄み渡っており、心地よい疲労感と共に空を仰ぎ見る。


「見なはれ、んにゃ丸。巨大な布製の魚たちが、風を悠々と泳いでおられますえ」

「んにゃっ」


 足元のんにゃ丸が、不思議そうに首を傾げた。

 元の世界であれば、あれは空飛ぶ魔物スカイフィッシュの襲来を告げる警鐘だろう。

 かつての戦場ならば、空を埋め尽くす巨魚の影は、破壊と混沌を招く災厄の象徴でしかなかった。


「ですが、この平和な国では『子供の日』という祝祭があるとか。あれもその儀式の一つなんやろか」

「んにゃ~」

「風に翻る色彩豊かな布の鱗……まるで空そのものが祝福を受けているようですなあ」


 今回の労働の舞台は、馴染みの喫茶店。

 店長――柳原奏音やなぎはら かのんが営む、静かで安らかな時間が流れる聖域である。


 祝日ということもあり、店内は朝から多くの巡礼者()で賑わっていた。

 この世界における喫茶店とは、人々が安らぎと福音を求めて集う、現代の神殿のようなものなのかもしれない。


 科学者のような鋭い眼差しでコーヒー豆の状態を確認する彼女の横顔には、職人、そして表現者としての矜持が滲み出ている。


「ハンナリエル、そっちの棚が終わったら、次はコーヒーカップの準備をお願い。今日はいつにも増してお客さんが来そうだから」

「ふふ、承知いたしましたわ。聖なる器を磨き上げ、皆々様をお迎えする準備を整えますなあ」

「くふふっ、頼もしいわね。……あなたのその『お連れさん』も、今日は大人しくしててくれるかしら?」


 カノンさんが視線を向けた先には、店内の隅に置かれたスツールの上で、丸くなって寝息を立てている真っ白な生物がいた。

「うーにゃー」のキャラクターに酷似した液晶のような瞳を持つ不思議な生物、んにゃ丸である。


 それは誰の目にも映る「奇妙だが愛くるしいペット」として受け入れられていた。

 聖女が連れているのだから、街の人々も「また何か変なものを持ち歩いているな」と、半ばあきらめ混じりに納得している。


「ふふ、んにゃ丸もまた、この聖域を守る信徒の一人。滅多なことでは吠え立てたりいたしまへんわ」

「んにゃっ」


 夢の中で美味しいものでも食べているのか、んにゃ丸が短く鳴いて尻尾を振った。

 その様子を見て、カノンさんは小さく笑い、再び琥珀色の液体の抽出に没頭する。


 ランチタイムが近づくにつれ、店内の熱気は最高潮に達した。

 スチームミルクが音を立て、コーヒー豆を挽く軽快な響きが店内に躍動感を与える。


 芳醇な香りは、訪れる人々の心を解きほぐす聖歌のように響き渡る。

 慣れない給仕や、実験器具のように繊細なカップの洗浄は、まさに「精神修養」そのものであった。


「ハンナリエル、三番テーブルにモーニングセット。それから五番テーブルのチェックをお願い」

「承知いたしましたわ。……はい、お待たせいたしました。こちら、季節の彩りを添えた福音のセットどす。どうぞ、心ゆくまで享受してくださいませ」

「あ、ありがとう……。なんかすごい店員さん来たな……」

「五番テーブルのお客様、お会計どすな。神のご加護があらんことを」


 丁寧な所作、はんなりとした物腰。

 客の中には、こちらの独特な言葉遣いに目を丸くする者もいたが、カノンさんの店というブランドと、この奇妙な聖女の佇まいが妙な調和を生んでいた。


「その調子よ。カップの拭き上げ、もう少しペース上げていける?」

「お任せください、カノンはん。この程度の試練、聖女の務めとして完遂してみせましょう」


 指先の動き一つ、歩き方一つにも気を配り、最高の一杯を届けるための歯車となる。

 そんな目まぐるしくも充実した時間が過ぎ、ようやく太陽が西に傾き始めた頃、一日の勤行を無事に終えたのである。


「ふふ、実にのどかな光景どすなあ。んにゃ丸、あの巨魚たちも神域の守護者に見えなくもありまへんえ」

「んにゃ~」


 仕事を終えてエプロンを脱ぎ、テラス席へと腰を下ろした。

 んにゃ丸もトコトコと歩いてきて、足元に身体をすり寄せてくる。


 店の入り口には、スタイリッシュな看板の脇に、小さな鯉のぼりが風を受けて健気に揺れていた。

 それは、大きな鯉に憧れる子供のような愛らしい姿である。


「くふふっ、お疲れ様、ハンナリエル。一段とはんなりした顔をしてるわね」


 カウンターの奥から、カノンさんがゆっくりと歩み寄ってきた。

 今は一息ついたのか、どこか穏やかな空気を纏っている。


 純白のエプロンが夕暮れの陽光を優しく反射し、その優雅な佇まいは、まさに物語の主役に相応しい。

 彼女の手には、銀のお盆に乗せられた一皿と、琥珀色の液体が揺れるカップがあった。


「ふふ、カノンはん。おかげさまで、一日の勤行を無事に終えて参りましたわ。空泳ぐ巨魚たちに見惚れておりましてなあ。異国の儀式というものは、実に興味深いものどす。あの魚たちは、何を願って空を飛んでいるのやら」

「……子供たちの健やかな成長、かしらね。滝を登って竜になる鯉のように、逞しく育ってほしいという願い。ふふ、それなら丁度いいものがあるわ」


 カノンさんが差し出したのは、厳かな葉に包まれた、白い肌の塊だった。


「これは……『かしわ餅』、どすか?」

「ええ。この葉はね、新しい芽が出るまで古い葉が落ちないことから、子孫繁栄の縁起物とされているのよ。家系が絶えないように、という祈りが込められているの。ハンナリエル、あなたならこの『歴史の重み』と『生命の継承』を感じてくれると思って、特別に取り寄せたの」

「ほお……。生命を繋ぐための守護の衣。実に聖なる意味合いが込められておりますなあ」


 カノンさんは茶目っ気たっぷりに微笑み、丁寧に淹れた最高の一杯と共にそれを差し出した。

 カシワの葉から立ち昇る、森の奥深くを思わせる独特の清涼感のある香りが、鼻腔を聖なる風のようにくすぐる。

 それは、長い年月を経て磨かれた智慧の香りのようでもあった。


「ふふ、承知いたしましたわ。では、この季節の福音、謹んで拝受いたします」


 慎重に、そして敬意を持って、緑の()を脱がせる。

 その指先に触れる葉の質感は、どこか硬質で守護者の鎧のようである。


 現れたのは、真っ白で艶やかな真珠のような輝きを放つ餅の姿だ。

 大きく一口。その瞬間。


(――っ!!こ、これは……!)


 歯を押し返すような力強い弾力。それこそが、命の連鎖を象徴する大地の意思。

 噛みしめるほどに引き出される米の甘み、そして中から溢れ出すこしあんの重厚でいて洗練された甘みが、カシワの葉のほろ苦い香りと混ざり合い口内で極上の円舞曲を奏でる。


「……んんっ!なんと……!」

「くふふ、どう?美味しい?」

「カノンはん、これはとんでもない代物どす……!この餅の弾力、まさに試練を乗り越える生命力そのもの!そしてこの餡の甘さ……立ち仕事で摩耗した身体の隅々にまで、慈悲深い救済が染み渡っていきますわ……!」

「んにゃっ、んにゃにゃ!」

「ふふ、んにゃ丸。これは生命の継承を願う聖なる供物。ですが……富める者が導くのもまた、聖女の務め」

「んにゃ!」

「ほれ、生命の輝き(もち)の端っこをおあがりやす。あんさんにも、成長の加護があらんことを」


 小さくちぎった餅を差し出すと、んにゃ丸は嬉しそうに飛びつき、ハフハフと器用に咀嚼し始めた。

 その愛らしい姿に、カノンさんも目を細める。


 カノンさんがネルドリップで心血を注ぎ抽出した深煎りの「聖水」を一口含めば、コーヒーの芳醇な苦味があんの甘みを一層際立たせ、魂の充足は頂点に達した。

 苦味と甘味、清涼感と重量感。それらが複雑に絡み合い、一つの完成された世界を作り出している。


「……くふふっ、いい表情。やっぱり、あなたに食べてもらうのが、私にとって一番の『報酬』かもしれないわね」

「ふふ、光栄どす。カノンはんの淹れてくれはるコーヒーは、まさに乾いた魂を潤すオアシスそのもの。今日という祝祭の日の、最高の締めくくりになりましたわ」

「あら、嬉しいこと言ってくれるじゃない。ハンナリエル、柏餅の葉は食べないタイプ?」

「ええ、これは守護の衣。感謝と共に、大地へと返すべきものと心得ております」

「そう。そこもあなたらしいわね」


 カノンさんは満足げに頷き、再び静かに、琥珀色の液体をカップへと注いだ。

 窓の外では、依然として大魚たちが自由闊達に空を泳いでいる。


 店のタイルを一枚ずつ磨き、テーブルの上の微かな曇りを拭い、訪れる巡礼者たちに安らぎの福音コーヒーを届けた後のこの一時。

 一日の労働、すなわち「供儀」を経て初めて享受できるこの奇跡こそ、かつての聖女が夢見た真の楽土の姿なのかもしれない。


 労働があるからこそ救済が輝き、疲労があるからこそ福音が深まる。

 それは、世界を循環させる聖なることわりそのものである。


「ふふ。さて、んにゃ丸。この感動を、迷える羊たちにも分かち合いましょうか」

「んにゃ~ん!」


 足元で信徒が元気に鳴く。

 ノートパソコンを開き、指先に今日の福音を乗せて、聖なる記録のーちょへと刻み始めた。


 ***


【タイトル:[祭礼]空を統べる巨魚の加護、生命の連鎖を宿した『かしわ餅』と、白き御子への慈悲について】


『――蒼天を舞う巨魚。その影の下で授かりし『かしわ餅』は、生命の連鎖を宿した季節の聖遺物。守護の鎧たるカシワの葉を剥げば、現れるのは純白の慈悲。力強い弾力の試練を越えた先、重厚なるあんの救済が全霊を包むのです。琥珀色の聖水と共に食せば、魔を祓う香りは全身を巡り、摩耗した魂は再起動の福音に震える。労働の後のこの一口こそ、「空腹」を討ち滅ぼす光の導きとなるのです』


「ふふ。さて、今宵の夕餉は何にしまひょか。新しい季節の風がうちを呼んでる気がしますわ」


 静かに微笑み、カノンさんに見送られながら、賑やかな祝祭の街へと足を進めるのだった。

 夕暮れの色に染まった鯉のぼりたちが、まるでこれからの旅路を祝うように、一層高く空を泳いで見えた。


 #かしわ餅 #空飛ぶ巨魚 #聖なるマリアージュ #聖女の祭礼


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