第16話 黄金の衣を纏いし『カツサンド』が告げる勝利への福音と騎士の休息
昼下がりの交番は、静かで安らかな聖域のように感じられた。
外のアスファルトは強い日差しを浴びて白く輝き、並木道の若葉が眩しいほどの緑を湛えているというのに、この空間だけは時間が緩やかに停滞している。
平和な日常という報告書が積み重なっていく机の隅には、持参した冷茶のペットボトルが静かに置かれている。
結露した雫が指先を濡らし、かすかな涼を運んでくれた。
やがて、聞き覚えのある力強い足音が、熱せられた地面を叩いて近づいてくるのが分かった。
「あ。またキミ、こんなところで油売って。不法投棄の目撃情報でも持ってきたの?」
パトロールから戻ってきたキリハラさんが、制服の襟元をパタパタと仰ぎながら入ってきた。
彼女は冷えたお茶のペットボトルを自身の額に押し当て、あからさまに「暑苦しい」という表情をこちらに向ける。
その瞳には常に「良からぬことを企む不審者」への警戒心と、放っておけないお人好しな気質が絶妙なバランスで同居していた。
「ふふ、キリハラはん。お疲れ様どす。今日は報告というほどのこともありまへんが、夜の路地裏で『迷い込んだ流星』を拾いましてなあ」
「流星?警察官に話を通すなら、もう少し具体的な単語選びをしてくれない?」
キリハラさんは大きな溜息を一つつき、ガタが来ているパイプ椅子に自身の体重を預けた。
その隙だらけで無防備な仕草を細めた糸目の奥から、はんなりと見守ることにする。
彼女の頬は火照り、首筋には細かな汗の珠が光っていた。
「せやから、旅人に宿と黄金のドレスを纏った救済を授けただけのことどす。ただ、その方が少々、夜風に追われていたようでしてなあ」
「夜風に追われていたって……。それ、不審者にでも追いかけられてたんじゃないでしょうね?その旅人って、一体どんな容姿だったのよ」
「ふふ、実に眩しいお方どしたなあ。木苺のように鮮やかな髪をなびかせ、軽やかに舞っておられまして。……『一番星のペコ』はんと仰っておられましたわ」
「えっ……『一番星のペコ』って……」
「おや、ご存知どすか?」
「い、いや!なんか聞き覚えがあったっていうか、ほら、少し前に変なグルメブログの話で盛り上がったじゃない?その時のコメントに似たような名前があったような……」
「ふふ、よう覚えてはりますなあ。確かあの時、『そんなに語りたいなら日記でもSNSでも勝手に書いてなさいよ!』と仰ったのはキリハラはんどしたけど」
「うっ!……そ、そうだったわね!懐かしいわー、ハハハ……」
キリハラさんが、あからさまに視線を泳がせながら乾いた笑い声を上げた。
なぜだろう。彼女の顔が、職質中に嘘をついている人間特有の「しまった」という表情になり、耳まで赤くなっている気がする。
まさかとは思うが、彼女に限ってあの日記をこっそり読み続けているなんてことはないだろう。
ともあれ、その名前を聞いた瞬間、キリハラさんの表情から疲労の色が消え、一気に職務モードの鋭さが戻った。
「ふふ。『アタシ、ちょっと目立ちすぎちゃうみたい』とは仰っておりましたなあ。ああ、それから『また美味しいものを食べさせて』とも。信徒としての純粋な祈りは、確かに受け取らせていただきましたわ」
「そりゃその髪色ならそうでしょ!っていうか……今、署を挙げて警備計画を揉んでる最中なのよ。世界的な歌姫の『ノヴァ』がこの街に来るって。まさかねぇ、そんな有名人がキミみたいな自称聖女の部屋に転がり込むなんて、ありえないわよね……」
言いようのない動揺を、ぶっきらぼうな口調で隠そうとする彼女の内心。
その不器用な正義の騎士を、暖かく静かに観測し続けた。
「ふふ、世の中は不思議に満ちておりますわ。そんなに眉間に皺を寄せていては女神サマの慈悲も届きまへんえ。さて、激務の合間の栄養補給にいかがどす?」
バッグから取り出したのは、大家はんのコンビニで拝受したばかりの逸品。
厚切りの三元豚が主役として鎮座する『カツサンド』だ。
重厚な衣に纏われた肉の塊が、パンの清らかな寝床で、福音の時を静かに待っている。
「……賄賂は、受け取らない主義なんだけど」
「ふふ、賄賂なんてとんでもない。これは街を護る騎士サマへの正当なる報酬……いえ、半年越しの『血の盟約』への返礼どすえ」
「半年越し?……あ、もしかして、ゴミ捨て場の横にいた時のこと言ってる?」
「お忘れやあらへんでしょうなあ。あの宵、飢えた迷い犬同然やったうちを、黄金の光で救ってくれはったのはあんさんどす。あの『かつ丼』……あれがあったからこそ、うちはこの世界で今日という日を迎えることができましたんやさかい」
細めた糸目の奥で、あの日受けた衝撃と、喉を通り抜けた熱い脂の記憶を呼び覚ます。
無一文の不審者(聖女)に、迷いなく大盛りの食事を差し出してくれた不器用な正義。
三元豚の『勝つ』。戦場に立つ彼女へ、今度はこちらから勝利という福音を授ける番だ。
「……大袈裟よ。ワタシはただ、倒れられたら後で書類仕事が増えて面倒だと思っただけ。キミみたいな面倒くさいお姉さんをご馳走して、恩義に感じられるのもちょっと重いし」
「ふふ、照れはらんでもよろしいのに。さあ、冷めんうちにどうぞ。これはパンに挟まれし勝利、あんさんの魂を再起動させる鍵どすえ」
「……分かったわよ。一個だけ貰うわ。午後の執務にはエネルギーが必要だしね」
キリハラさんは少し照れくさそうに、しかしどこか嬉しそうに、パックから一切れを掴み取った。
期待と空腹によって微かに震えるその指先を、糸目の奥で見逃しはしない。
並んで座り、至高の積層に歯を立てた。その瞬間、静かな交番内に沈黙が落ちる。
(――っ!!)
口内に広がるのは、圧倒的な「肉」の意思。
三元豚の力強い旨味が、甘辛いソースと共に爆発し、味覚の迷宮を浄化していく。
低温でじっくり揚げられたであろうカツは、歯を立てた瞬間に驚くほどの柔らかさでほどけ、ジューシーな肉汁を溢れさせた。
「っ、何これ。お肉が信じられないくらい柔らかい……!ソースが絶妙に染みたパンとの一体感が不祥事級の美味しさなんだけど!」
「ふふ、このカツサンドこそ、勝利を告げる聖遺物。正義が執行された後のような清々しい充足感を与えてくれますなあ」
「美味しいわ。……悔しいけど、キミの持ってくるものって、いつもアタシの理性を的確に破壊しにかかってくるわね」
キリハラさんは、本来のクールさをかなぐり捨て、夢中になってカツサンドを平らげた。
ふと、彼女の手元にあるスマートフォンの画面が、新着メッセージを告げて白く光った。
それを確認した彼女の頬が、一瞬だけ職務とは異なる柔らかさで緩んだ。
その直後。
静寂を切り裂くように、交番の無線機が現実へと引き戻す警報を鳴らした。
『――大通り付近で集団による混乱発生。パパラッチと思われる車両を数台確認。至急現場へ……』
「っ!行くわ!カツサンド、ありがと。おかげで魂が生き返ったわ!」
キリハラさんは帽子を正し、電光石火の勢いでパトカーへ駆け込んだ。
サイレンの咆哮が五月の明るい空気を震わせ、彼女は正義の戦場へと去っていく。
その後ろ姿を見送り、糸目をさらに細めて微笑んだ。
「ふふ。騎士サマは忙しくて大変どすなあ。んにゃ丸、うちもそろそろ、新しい奇跡の準備に取りかかりまひょか」
「んにゃ~!」
足元で丸っこい信徒が誇らしげに返事をした。
アスカさんの正体がたとえ世界に届く歌姫であろうとも、やるべきことは変わらない。
美味しいものを拝受し、命の輝きを慈しむ。
それこそが、異世界から迷い込んだ聖女に課せられた、絶対の使命なのだから。
***
【タイトル:[使命]摩耗せし魂を再起動する、三元豚の『カツサンド』という名の聖遺物と、騎士サマへ捧げし勝利の啓示について】
『――正義を司る騎士の休息。その静寂に差し込む『カツサンド』は、三元豚という名の大地の意思を宿した勝利の聖遺物。黄金の衣の鎧を纏い、濃厚なるソースの洗礼を受けた一切れは、摩耗した魂に福音を告げ、使命感を再起動させるのです。胃袋の深淵から溢れ出すエネルギーは、明日を護るための熱き力に、そして未来への階段へと変わるのです。ああ、この芳醇なる肉の救済に、全ての迷える魂が祝福されんことを』
軽く背伸びをする。
ノートパソコンを閉じれば、視界の端で桃色の記憶がふわりと輝きを残したような、不思議な余韻が胸に灯った。
あの時、キリハラさんが見ていたスマホの画面に、自身と同じ「食」への祈りの光が宿っていたことを知っている。
「ふふ。さて、夕餉の準備にしまひょ。今夜は何がうちを呼んでるやろなあ」
はんなりと微笑みながら、夕餉の香りが漂い始めた賑やかな商店街へと、軽やかな足取りで進んでいくのだった。
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