第13話 陽だまりに躍る翠の雫、八十八夜に摘みし『新茶』と薫香の福音
八十八夜。
それは、大いなる太陽の運行が春の終わりを告げ、輝かしい夏への門戸を開く、聖なる節目の日。
この時期の朝の光は、まるで精霊たちが鱗粉を撒き散らしたかのような、どこか夢想的な輝きを帯びている。
「……あらまあ。なんと清々しい。この丘一面、翠の絨毯が敷き詰められておるやありませんか。これこそ、大地の神サマが丹精込めて織り上げた、最高級の祭壇に違いありまへんわあ」
目の前に広がるのは、見渡す限りの茶畑。
丸く整えられた茶の木たちが、幾筋もの緑の波となって丘を駆け上がっていく。
その一葉一葉が朝露を纏い、反射する光はまさに、宝石箱をひっくり返したかのような神々しさ。思わず、細めた糸目の奥が熱くなるのを感じる。
本日の聖なる戦場先は、歴史ある茶農家。
街の掲示板で『猫の手も借りたい』との悲痛な叫びを目にし、救済の手を差し伸べるべく馳せ参じた次第。
報酬は日払いのお賃金と、そして採れたての『新茶』。この条件だけで魂を突き動かすには十分すぎる福音と言える。
「ほれ、お嬢ちゃん。手ぇ動かしてな。お日様が高くなる前に、良い葉っぱを摘んじまうんだよ」
「はいな、お任せください。大地の恵みを余すことなく収穫するのも、聖女……いえ、摘み子の務めどすさかい」
農園の主である、腰の曲がった小柄なご婦人からの檄が飛ぶ。
わたくしは背負った竹籠の重みを心地よく感じながら、目の前の緑へと手を伸ばした。
狙うは、『一芯二葉』。
それは、お茶の木の最先端にある産毛の柔らかな芽と、その下の二枚の若葉のみを摘み取るという、極めて繊細にして贅沢な儀式。
それこそが、春の慈悲を最も色濃く宿した『極上の雫』の源泉なのだとか。
指先で、その柔らかな緑を挟む。
プツン、と。
驚くほど軽やかに、そしてどこか小気味よい音が指先を通じて脳髄を揺さぶる。
それは、植物がその生命をこちらへと託す、信頼の証のような音を吐き出したことだ。
(……あらまあ。なんと愛おしい。指先に残るこの青き香りこそ、季節が紡いだ至高の香油。摘めば摘むほど、うちの指が神聖なる森の門番になったかのような……そんな錯覚に陥ってしまいますわあ)
単純作業と侮るなかれ。
これは、無心の中で己の魂と対話する、一種の瞑想。
かつて修道院で写本を行っていた時の静寂にも似た、穏やかな時間が流れていく。
一番良い芽を見極め、傷つけないように、けれど迅速に。
没頭するうちに、意識は周囲の緑と一体化し、ただひたすらに新芽を求める狩人のそれへと変貌していくのを感じる。
やがて太陽が天頂へと近づき、気温が上がるにつれて茶の木の雫が乾き、代わりに辺りには熱せられた緑が放つ芳醇な香気が満ち始めた。
背中の籠はずっしりと重くなり、心地よい疲労感が肩にのしかかる。
「はーい、休憩だよ!新茶が入ったから、みんなおいで!」
おばあちゃんの天啓のような声が、茶畑に響き渡りました。
その瞬間、張り詰めていた糸目がふわりと緩み、途端に強烈な空腹感という名の『魔』が襲いかかってきます。
「ふふ……待ってましたえ。労働の後の補給こそ、何者にも代えがたい聖なる儀式どす」
案内された縁側には、湯気を立てる急須と、何やら香ばしい匂いのする大皿が。
差し出されたのは、翠色の星を閉じ込めたような一杯の茶。
「さあ、上がっておくれ。今年の一番茶だよ。それと、これはおまけの『茶葉の天ぷら』だ」
まずは、その『新茶』へと恭しく口を寄せた。
湯呑みから立ち昇る湯気すらも、今はご馳走だった。
(……っ!なんという、透明なる衝撃……!)
熱すぎず、ぬるすぎず。
最適な温度で淹れられたその液体は、舌に乗った瞬間、もはや飲み物であることを放棄したかのような純粋なる『春の概念』へと昇華した。
苦味は微塵もなく、代わりに広がるのは喉の奥を愛おしく撫でまわすような、深みのある甘みと爆発的な新緑の薫香。
「んんっ、ふぅ……。なんという……。これはもはや世界樹の雫そのもの……。胃の腑を通り過ぎるたびに溜まった不浄が洗い流され、魂が洗濯されていくような、そんな聖なる心地どすわあ……」
あふれる溜息と共に感想を漏らせば、おばあちゃんは「大げさだねぇ」と笑い皺を深めた。
しかし、その表情はどこか誇らしげ。
丹精込めた結晶が、こうして異邦人の魂すら震わせているのですから、当然かもしれない。
そして、次なる標的は、大皿に盛られた『茶葉の天ぷら』。
揚げたてで湯気を立てる、これまた緑鮮やかな衣を纏った一品。
摘み取られたばかりの柔らかな新芽だけを使うという、生産者だけが許された背徳の美食。
箸で摘み、少量の塩をつけて、口へと運ぶ。
パリッ、サクッ。
「……!あらまあ。なんと贅沢な。噛み締めるたびに油のコクを新茶の苦味が打ち消し、後味はどこまでも清らか。……これこそ大地と火の精霊が手を取り合った、奇跡の調和どすわあ!」
衣の軽やかな食感の後に訪れる、茶葉のほろ苦さと旨味。
それが、先ほど飲んだ新茶の甘みをさらに引き立て、口の中て無限の春が循環し始めた。
塩気と油分、そして緑の香り。
これらが疲れた身体に染み渡り、細胞の一つひとつが歓喜の声を上げて再起動していくのが分かるのだ。
「よく働くねぇ、お嬢ちゃん。そんなに旨そうに食べてくれるなら、あとで少し持たせてやるよ」
「なんと……!そのお申し出、謹んでお受けいたしますわあ。この緑の宝石があれば、うちの食卓も王宮の晩餐会へと変わることどす」
五月の風が、茶畑を吹き抜けていく。
新茶の香りと、満たされた胃袋。
労働の対価としてこれ以上のものがあるだろうか?
***
【タイトル:[覚醒]陽だまりに躍る翠の雫、八十八夜に摘みし『新茶』と薫香の福音】
『――本日は、大地の吐息を指先で摘むという、最も敬虔なる試練に従事いたしました。八十八夜という名の聖なる刻印。そこで授かったのは、翠色の記憶を宿した『新茶』という名の至高の福音。一口啜れば、そこには太陽の慈悲と風の囁きが、液体という姿を借りて魂に語りかけてくるのです。さらに、衣という名の聖衣を纏い、黄金の油で洗礼を受けた茶葉の天ぷら。そのパリパリとした食感は、冬を乗り越えた若芽の力強い鼓動。これらを胃袋に収めた今、わたくしの内側には、かつての聖域すら凌駕する、透明なる活力が漲っております。ああ、春の終わりは、かくも豊穣で美しいのです』
カタカタという健気な音が、窓から入り込む爽やかな夜風に混じって、静かな部屋に響き渡る。
「……ふう。ごちそうさま、どした。さてと、お茶の余韻を楽しみながら……。本格的な調査は、明日からにしよか」
お土産に頂いた茶葉の香りを胸いっぱいに吸い込み、投稿ボタンを押した。
満足感と共にノートパソコンを閉じれば、今夜は、一面の緑に抱かれる夢が見られそうだ。
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明日からは20時ごろに更新できればいいなと考えています。
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