第10話 鳴り響く歓声と欲望の坩堝、地底のマグマ如き『もつ煮込み』が導く一獲千金の聖戦
休日の早朝、健やかなる安眠は暴力的なドアのノック音によって破られた。
布団という聖域から引き剥がされ、不機嫌を隠そうともせずに玄関を開ける。
そこに立っていたのは、いつものジャージ姿に首タオル、そして鋭い眼光を放つ大家──権堂宗一郎だった。
「……おう、ハナ、起きとるな。顔洗って着替えてこい。行くぞ」
有無を言わせぬその迫力は、完全に借金の取り立てか、あるいは裏社会の抗争へ向かう鉄砲玉を勧誘するそれである。
しかし、この強面のおじさんが見た目に反して面倒見が良く、そして何よりコンビニの廃棄弁当という名の『神の恵み』を授けてくれる慈慈深き賢者であることを。
「あら、大家はん。今日という日は、二度寝という名の極めて神聖な儀式にこの身を捧げる予定やったんどすが、何か不浄なことでもありましたん?」
「メシ、食わせてやる」
「……承知いたしました。では、瞬きの間に……いえ、三分のうちに身支度を整えて参りますさかい、少々お待ちを」
『メシ』という単語が鼓膜を震わせた瞬間、脳内から睡眠欲は綺麗さっぱり消滅した。
光の速さで行われた身支度。それから一分も経たぬうちに、大家さんの軽トラの助手席へと滑り込む。
期待に胸が膨らむ中、窓外を流れる景色が目まぐるしく変わっていく。
高級ホテルのランチビュッフェ、あるいは隠れ家的な懐石料理の名店……。
妄想が『前菜の盛り合わせ』に差し掛かった頃、軽トラは轟音と共に巨大な施設の駐車場へと滑り込んだ。
視界に飛び込んできたのは、熱気と砂埃、そして男たちの怒号と歓声が渦巻く混沌だ。
鉄火場――すなわち、競馬場。ここは欲望がむき出しになる場所だった。
「ここが噂に聞く、現代のコロシアムどすか。男はんたちの執念と情念が混ざり合って、まるで熟成されたお味噌のような芳しさが漂うてますえ」
ゲートをくぐった瞬間、肌にビリビリと伝わる独特の空気感。
新聞を片手に血走った目をさらけ出すおじ様たち。彼らの瞳には、明日の生活費への不安と、一獲千金という儚い夢が同居している。
まさに欲望の坩堝。かつていた世界でも、これほど濃密な人間の情念が渦巻く場所はそうそうなかっただろう。
「……ビビってんのか?」
「まさか、滅相もない。むしろ、勝負のカミサマがうちの耳に囁きかけるような武者震いが、先程から止まらしまへんのやわ。ワクワクしますなあ」
「へっ、いいツラだ。最初にお前さんを見た時から思ってたんだよ。ハナは『持ってる』ツラだってな」
「……はあ、左様でございますか。大家はんの仰ること、いつも深遠すぎて、うちのような若輩者には雲の上のお話を聞いているようでございますえ」
この糸目を指して言っているのだろうか。
以前も「バクチに強そうな顔」と評されたが、正直なところ意味が分からない。この目は生まれつきなのと、開くのが面倒なだけなのだが。
「今日はG1だ。デカいのが動くぞ。お前さんのその肝の据わったツラで、勝ち馬を見極めてみろ」
どうやら大家さんは、ギャンブラーとしてこちらを教育していくつもりらしい。
だが、申し訳ない。目は既にあらぬ方向を向いていた。
大家さんの背中越し、広場の向こう側から漂ってくる、あの抗いがたい芳香の方へ。
茶色く濁った煮汁の香り。焦げたソースの匂い。そして、脂が炭火で弾ける音。
そう、競馬場はギャンブルの聖地であると同時に――知る人ぞ知る『B級グルメ』の聖域でもあったのだ。
「大家はん!あちらの角の方から、極めて邪悪で……いえ、抗いがたいほどに魅力的な魔力の波動と、食欲をそそる芳香がうちを呼んでおりますえ!」
「あん?ああ、売店か。……腹ごしらえが先ってか。いい度胸だ。戦の前にはメシが必要だからな」
溢れんばかりの食意地を、大家さんは勝手に『勝負師の余裕』と解釈したらしい。
悠然とした足取りで売店の方へと歩き出したその後姿を、スキップしそうになる足を必死に抑えて追う。
売店の前には、プラスチックの容器に入った茶色い宝石たちが積み上げられていた。
焼きそば、フランクフルト、串カツ。どれもが食欲中枢を直接殴打するような暴力的な魅力を放っている。
その中で、目を釘付けにしたのは、巨大な鍋でグツグツと煮込まれている『それ』だった。
「……この『もつ煮込み』という名の茶色き宝石、これに決めますえ。グツグツと煮える様が、まるで沸き立つ溶岩のようでございますわあ」
「渋いな。……親父、もつ煮二つ。七味多めで」
手渡されたのは、ずっしりと重みを感じる発泡スチロールの椀。
そこには、濃厚な味噌ベースのスープに浸かった、豚の白モツ、大根、人参、こんにゃくがひしめき合っている。
湯気と共に立ち上る、ニンニクと生姜、そして味噌の熟成された香り。
それは上品さとは程遠い、しかし人間の本能を鷲掴みにする『生』の匂いだった。
近くのベンチに座り、割り箸を割る。
「では、大地の恵みに感謝を込めて、いただきますえ。この一箸一箸が、聖なる巡礼の旅の第一歩となることを切に願うてやみまへんわ」
まずは、主役であるモツを一つ。七味がたっぷりとかかったそれを口へと運ぶ。
「なんという背徳的なまでの柔らかさどすか。噛み締めた瞬間にモツの脂が聖なる福音のように口いっぱいに広がって、魂が浄化されていくようですえ」
噛んだ瞬間、モツは抵抗することなくフワリと解け、中から濃厚な脂の甘みがジュワリと溢れ出した。
臭みは薬味と味噌によって完璧に封じ込められ、代わりに旨味の爆弾となって舌の上で炸裂する。
濃い。とにかく味が濃い。
しかし、この濃さこそが正義なのだ。
汗と熱気にまみれたこの場所で、失われた塩分と活力を補給するために特化進化した、戦闘糧食。
続いて、煮汁を吸い込んで飴色になった大根を。
ハフハフと熱さを逃がしながら噛み締めれば、中から熱々のスープがじゅわっと染み出し、口内を火傷させんばかりの熱量で満たす。
「はふっ、ふぅ……!これは、見た目は大地の泥濘のようでありながら、その実、母なる大地のような深い包容力を感じさせてやみまへんなぁ」
「……なんだと?」
「お気になさらず。ただ単に、このお料理が言葉を失うほどに美味しおす、という称賛をさせていただいただけどすえ」
白米がほしい。
無性に白米が欲しくなる味だ。
あるいは、他の人が手にしている缶ビール。あの黄金色の液体でこの脂を流し込めば、さぞかし天上の心地だろう。
だが、今はこの煮込みしかない。
残ったスープを飲み干す頃には、身体は芯から温まり、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
「……食ったな。いい食いっぷりだ」
大家さんが空になった容器を見て満足げに頷く。
「さて、腹も満たされた。……行くぞ、本番はこれからだ」
そう、ここまでは前哨戦。
大家さんに連れられ、パドックへと向かう。
美しい馬たちが周回する姿は圧巻だったが、頭の中は先ほど食べたもつ煮込みの余韻と、次なるターゲット(牛すじカレー)のことで一杯だった。
「ハナ、お前さんの勘で選べ」
競馬新聞とマークシートを渡される。
ずらりと並んだ馬名。血統。オッズ。古代魔法のルーン文字以上に解読不能な羅列だ。
しかし、選ばねばならない。それが次の食事へのチケットになるのなら。
目を閉じ、研ぎ澄まされた感覚に従って、一つの名前に指を置いた。
「この『エビフライト』……。これにしましょう」
「ほう、大穴狙いか。……いいだろう、乗った」
権堂さんは躊躇なく千円札を数枚投入した。
エビフライ。その響きだけで選んだ。衣のサクサク感と、プリプリの海老の食感が空を飛ぶほどの勢いで迫ってくる未来が視える。
レースが始まる。
ゲートが開いた瞬間、地鳴りのような歓声が上がった。
馬たちが走る姿を見守る。どの馬がエビフライなのかは分からないが、先頭を走る馬の尻尾が、なんとなく揚げたてのキツネ色に見えなくもない。
「いけぇっ!差せぇぇぇっ!!」
普段は寡黙な大家さんが、タオルを振り回して叫んでいる。
その熱気に当てられ、叫んでしまった。
「そこどすえ!そのまま油鍋に飛び込むような覚悟と勢いを持って、聖なるゴール板を一番に駆け抜けよし!うちの胃袋は、もう準備万端どすからね!」
結果――。
選んだ『エビフライト』は、見事に一着でゴール板を駆け抜けた。
どよめく観衆。そして、震える手で当たり馬券を握りしめる大家さん。
「……やりやがった。ハナ、お前さんはマジで『持ってる』な……!」
凶悪なほどの喜びを面に貼り付け、大家さんがニヤリと笑う。
払い戻し機から景気よく吐き出された紙幣の束は、一ヶ月の食費を軽く凌駕するほどだった。
「大家はん!これだけの『徳』が積まれてしまったら、うちはもう祭典を開かずにはいられなくなってしまうではありませんか……!」
「おう、山分けだ。今日は好きなだけ食え!」
「約束どすえ!次はあちらの『ジャンボ焼き鳥』と『大盛り焼きそば』、締めには甘美なる『ソフトクリーム』まで、余さず浄化して差し上げましょうね」
勝利の美酒ならぬ、勝利の暴食だ。
その日、競馬場にひしめく全メニューを制覇する勢いで、文字通り食べ尽くした。
心地よい満腹感に包まれ、お腹をさすりながら軽トラに揺られる。
大家さんは「また連れて来てやる」と上機嫌で、どうやら新しい『餌場』を手に入れてしまったらしい。
次は『ハンバーグ』か『オムライス』という名の馬が現れることを、心の中で静かに誓うのだった。
***
【Re:エルの福音グルメ日記】
【タイトル:欲望の鉄火場に降臨せし、『もつ煮込み』による胃袋の浄化と、黄金の翼を与えられし揚げ物の奇跡について】
本日は、紳士たちの社交場にて、魂の洗濯を行いました。
そこで出会ったのは、深淵なる色をした煮込み料理。
豚のモツという、一見すると忌避されがちな部位を、味噌という聖なる触媒によって極上の珍味へと昇華させる……これぞ錬金術の極致。
口の中でほどける脂の甘みは、まさに罪。
勝負に勝つのも負けるのも、結局のところ、わたくしたちはこの『食』という名の快楽には勝てないということを教えてくれます。
レースの行方は風に消えても、舌に残る味噌のコクだけは、永遠の真実としてわたくしの胃袋に刻まれました。
追伸:エビフライは速かったです。
#もつ煮込み #競馬場グルメ #エビフライト #欲望の坩堝 #聖女の休日
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