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第1話 胡散臭い糸目の聖女、香ばしき黄金の杖『みだらし団子』を手にする

皆様のおかげで連載版を開始できました。

よろしくお願いいたします。

 深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている。

 そんな言葉を耳にしたことがあるが、目の前に広がる深淵は瑞々しい黄緑色をしており、あろうことか98円という破格の値段でこちらを誘惑してくるのだ。


「あらまあ……近所のスーパーに、こんな強敵がおるなんて思わんかったわ。柔らかくて、ふんわりと巻かれた葉の重なり……ほんまに、恐ろしおすなあ」


 そこに鎮座するのは、『春キャベツ』という名の緑の宝石。

 思わずその神々しさに目を細めてしまった。いや、元から「寝てるん?」と言われてしまう程度に、糸目なのだけれど。


 だが、本能が強烈なまでに、けたたましく告げている。

 このキャベツは、間違いなく『買い』であると。


「……迷える子羊に、これほどの試練をお与えになるとは。女神サマ、あんさんはなんと残酷で、慈悲深いんどすやろか」


 カゴに入れた。

 一瞬の躊躇いもなく、手は緑の球体を優しく抱き抱えていた。

 今夜の献立への渇望が、いとも容易く勝利した瞬間である。


「せやけど、一玉で足りますやろか。『キャベツのガッツリ肉味噌炒め』は確実として、副菜の『やみつきキャベツ』の魅惑もまた、食卓には不可欠な彩りどす」


 肉味噌の濃厚な味を受け止めるには、加熱された甘いキャベツが必要不可欠。

 しかし、箸休めとして、ごま油と塩昆布を纏った生キャベツの『パリパリ』という軽快なリズムも捨てがたい。

 加熱と生。この二律背反アンビバレンスを解消するには、答えは一つしかない。


「ふふ……救済を待つ魂がもう一つある言わはるなら、うちが手を差し伸べるのが道理いうもんおすなあ」


 二玉目がカゴへ滑り込む。

 98円が二つ。今の財政状況においては決して軽くない出費だが、食への投資は未来への投資に他ならない。

 なんなら明日は、お好み焼きの具材としても転生可能なのだから、実質無料のようなものだという謎の理論が脳内を駆け巡る。


「……おや?あそこのお肉コーナー、割引きシールを持った店員さんが降臨しはりましたやろか」


 特売の目が、きらりと光る黄色い割引きシールを捉える。

 豚バラ肉は、キャベツにとっての最良のパートナーであり、それが割引きされるとなれば、もはや運命以外のなにものでもない。


「これはもう、星の巡り合わせ以外の何物でもあらへんね。運命がうちに『今夜は豚バラキャベツ祭りを享受せよ』と囁いとるんですわ」


 精肉コーナーの空気は、既に張り詰めていた。

 カゴを提げた歴戦の主婦たち、疲れた目をしたサラリーマン、そしてジャージ姿の学生。


 彼らの瞳には、獲物を狙う獣の如き鋭い光が宿っている。

 店員が割引きシールを貼るその一瞬、静寂が破られる――その予兆に、彼女もまた静かに息を吸い込んだ。


「ふふ、血が騒ぎますなあ。かつて魔物たちと対峙した時と、同質の緊張感……いえ、こちらのほうが殺気立っとるかもしれまへん」


 深く呼吸をし、気配を完全に消した。

『静寂の歩法』――本来は厳粛な礼拝堂で足音を立てないための技術。


 異国のスーパーで割引き争奪戦の切り札として使われるとは、女神も想像しなかっただろう。人生とは分からない。

 店員の手が動き、黄色い輝きがパックに貼られた――その刹那。


「そこどす!」


 流れるような動作で、群衆の隙間を縫うようにスッと手を伸ばした。

 力づくで奪う必要などない。風のように、水のように、ただ在るべき場所へと導く。


 美しいサシの入った豚バラ肉は、誰の手にも触れさせることなく手中へと収まった瞬間だ。

 手の中でひやりと冷たいパックの感触。それは、戦場における勝利の証に他ならないのだ。


「ふふ……恨まんといておくれやす、迷える子羊たちよ。これは早き者が富を得るという、こちらの社会における厳正なる摂理。あんさんらの無念は、うちが最高の火入れをもって供養したげますさかい」


 殺気立った周囲の視線を、周囲からよく胡散臭いと評される慈愛に満ちた微笑みで受け流し、レジという名の最後の審判へと向かう。

 キャベツ二玉、豚バラ肉、そしてカゴの底には、いつの間にか忍ばせていた『特濃ごま油』と『豆板醤』、そして欠かすことのできない『ビール缶』。


「合計で1480円になります」


 柔らかな声をした店員が、全財産に対する判決を言い渡した。

 財布の中身を確認する一瞬の緊張。


「……足りますなあ。女神サマはうちを見捨てはりまへんかった。さあ、受け取っとくれやす。これがうちの血と汗と涙の結晶どす」


 支払いを済ませ、スーパーを出た瞬間に夕暮れの空気が包み込む。

 どこかの家から漂うカレーの匂い、焼き魚の煙。


 日本の夕方は、どうしてこれほどまでに、心を感傷的にさせるのか。


 あの忌まわしき終末災害『幻想郷』を封印し、自分のいるべき世界を救った直後のこと。

 余韻に浸る間もなく現れた空間の裂け目に飲み込まれ、もはや用済みといわんばかりに世界そのものから追放された。


 ひとりぼっちで日本という国へ放り出されてからは、祈りの言葉を紡いでいた口で「いらっしゃいませー」と声を張り上げ、聖なる杖を握り奇跡を起こしていたこの手も『バーコードスキャナー』へ持ち替え、コンビニという名の24時間営業の神殿でレジ打ち修行に勤しむ日々。


 あれから、半年。

 最初は右も左も分からず途方に暮れていたが、人間……いえ、エルフという種族も、意外と環境に適応できる生き物なのだと実感している。


 日雇いの現場を転々とし、労働の対価として金銭という信仰力をかき集める生活も、すっかり板についてしまった。


 世界を救うという高尚な使命も、それは素晴らしいものである。

 しかし、汗水垂らして得た信仰力で、こうして特売品を勝ち取る瞬間の魂が震えるような充足感。


 これはこれで、一種の救済と言えるのではないだろうか。


「この買い物袋の重みこそ幸福の総量。キャベツの葉一枚一枚が、うちの胃袋を満たす福音となるんどすえ」


 家路を急ぐ脳内では、すでに壮大な調理シミュレーションが始まっていた。

 豚バラ肉をカリカリになるまで炒め、あふれんばかりのキャベツを投入する。

 強火の一瞬、しんなりとする直前に、秘伝の味噌ダレを回し入れると、そこには黄金色の蒸気が立ち上る未来。


「ああ、想像しただけで口の中が……!あきまへん、このままでは家に着く前に、生のキャベツにかじりついてしまいそうおすなあ」


 小走りで角を曲がろうとしたその時だった。

 優れた嗅覚が、スーパーの惣菜コーナーとは明らかに異なる、芳醇かつ背徳的な香りを捉えたのは。


 鼻腔を支配したのは、純粋にして暴力的な『焦がし醤油』の香り。

 路地の向こう、赤提灯を提げた屋台から立ち上る白い煙が、魔物を誘き寄せる狼煙の如く、帰宅中の足を強制的に停止させた。


「……なんと。これはうちが知っとう『みたらし団子』とは、似とるようでちょっと違う存在なんどすやろか?」


 そこにあるのは、とろりとした甘い餡を纏ったツヤツヤのお団子ではない。

 串に刺さった五つの小ぶりなお団子が、醤油にくぐらされ、直火でじりじりと焼かれている光景だった。

 タレが炭火に落ちて弾ける音。表面がキツネ色に変わりゆく様は、まさに穀物と大豆の発酵液が織りなす聖なる儀式。


「ふふ、夕食前の買い食いはダメ、ゼッタイ。ですが、これは『お米』どす。つまり、夕食の一部を前借りするに過ぎひん。論理的な破綻は一切あらへんね」


 キャベツの重みを忘れ、吸い寄せられるように屋台の前へと、歩みを進めた。


「大将はん、その香ばしき黄金の杖を一本。……いえ、三本いただきまひょか」

「へい、みだらし三本ね。黄金の杖たぁ大層な名前だが、味は保証するよ。熱いから気をつけてな」


 店主は、見かけぬ衣服に身を包んだこちらを怪しむこともなく、慣れた手つきで串を渡した。

 薄紙越しに伝わる熱。焦げた醤油が放つ香気は、もはや暴力的なまでに本能を揺さぶりにかかる。


 行儀悪くも路傍で、その一本へと喰らいついた。


 カリッ。

 小気味よい音と共に香ばしい外殻が破れる刹那、口内に広がるのは醤油の塩気と焦げの苦味、そして遅れてやってくる米本来の淡い甘み。


「はふっ、はふ……っ!ふふ……なんと簡素で、力強いんやろ!甘い餡で着飾ることを拒み、素焼きという裸一貫で勝負するその潔さ……」


 咀嚼するたびに、鼻から抜ける香ばしさが脳髄を痺れさせる。

 これは単なる間食ではない。米と醤油、そして火。原始的な要素だけで構成された、食の原点回帰だ。


「おっと……いけまへん。感動のあまり、つい耳が出てしまいましたわ」


 慌てることなくゆったりとした動作で髪を撫でつけ、エルフ特有の尖った耳を隠した。

 ……まあ、隠す必要なんて、本当はないのだけれど。


「物珍しい視線を感じることはあっても、『コスプレ』ゆう文化の一種と勝手に解釈してくれるんやから、ありがたい話やね。ええ時代、ええ世界や」


 鼻孔をくすぐる焦げた醤油の香ばしさが、ふと記憶の扉を叩いた。

 こちらへ来たばかりの不審者に声をかけてくれた、親切な警察官のお姉さんとの出会いも、また強烈な『香り』から始まったのだ。


5話辺りまで順次投稿していきます。

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