Aller Anfang ist schwer
「ふう……」
酸素が薄いにもかかわらず、体内の冷気をどうにか排出して、二酸化炭素で手を温めようと息を吐き出す。暖かみの無い日光はギラギラした眩しさのみを与える。かれこれ一世紀をとうに超えてこの仕事をしているのに、この寒さにはいまだに慣れない。他の審問官も同じはずだが、誰一人として文句も言わずに雪山を行進している。上官に逆らう気はもうないけれど、技術だけは発達し続けているこの世界・チェジュで、何故私たちは死の行進もどきをさせられているのだろうか。肺が凍りそうなほどの冷気を全身で感じ、春というこの季節に似合わないはずの銃弾のように降りつける吹雪に身体を痛めつけられながら、マオはまた溜息をつく。この山を越えれば、もう少しましな環境に身を置くことができる。それを希望に、ただ歩み続けるしかない。
特殊審問部隊の審問官の中でも特に高い地位を持つ地方審問官たちは、定期招集と入隊式のために特殊審問部隊の本部があるへレス大陸西部・ウミンタ自由主義皇国首都サジェザに召集される。そこに至るには、へレス大陸東部・シェンシェン民主主義人民共和国担当の審問官である彼女らは厳しい環境の高山地帯であるノーム山脈を渡る必要があるのだった。いや、実際のところ、この山脈に開通する列車もあるのだ。しかし、不老長寿薬、通称コンチーを飲まされている彼女らは多少過酷な環境でも生命的にはなんの障害もなく生きていける。費用削減、そして審問官としての修行のため、彼女らは雪山を歩いて渡らされている。理由がそれだけでないのも分かっている。過酷な環境に身を置くことを強制された人間は、判断力が鈍り、洗脳がしやすくなる。政府の忠実な犬たる自分たちがより従順になるように、そんな思惑もあるであろうことも分かっている。
身体じゅうが痛い。暑い。熱を帯びるほどに冷気は鋭く、制服を脱ぎたい欲望に襲われる。服を脱げば自分の身体を余計に苦しめるだけでなく、皮膚を剥がれ、何度も鞭打たれることになるに違いない。死に逃げることすらできない。耐えることしかできないけれど、でも、ああ、そうだ。私の上官は、ヤマ様は、この行進が終わればきっと私たちを__私を褒め、また更に認めてくれるはずだ。それに、彼がいつものように先頭を歩いている、仲間もいる。私だけがここで楽になることなど、できない。寒いのか暑いのかもわからず、ただ苦痛のことしか考えられないけれど、それでも歩み続けるしかない。考えるな。歩み続けろ。死なない身体で自分を支えるのは未来への希望だけ、しかし、なんだか視界がおかしい。寒さによる霞みではない。ぐらぐらと揺れて、視界はブラックアウトした。
気持ちの悪い揺れの感覚と共に目が覚めた。揺れを感じると一般的には眠くなり、それは胎児の頃の母体の揺れを思い出すからだと言われるが、マオはまったく同意できない。もう親の顔すらも覚えておらず、思い出そうにも嫌な気分になる、というのが理由ではない。眠るのが怖かった。悪夢ばかり見るから。でも、Pu239__今は、身体を変異させ、ヒトらしからぬものに変えてしまう生物兵器と説明すれば良いだろう__のためか、先ほどの疲労が必要以上に蓄積され、気づけば現実に居た。悪夢も見ていないのに動悸がひどいのは、寒さと揺れのショックのためだろう。心地悪さを感じながら、恐る恐る目を開けた。
「マオちゃん?マオちゃん……ふう、よかった、起きたんやね」
「う……ウイハ……?わ、私、なにが……」
幼馴染で親友のウイハが、心配そうにこちらを見ている。彼女はマオの頭を自分の膝に乗せ、優しくその頭を撫でていた。その手は義手のはずなのに、まるで本物の手のひらのように優しい気配を感じる。
「マオちゃん、さっき行進中に急に倒れて……最後のほうでよかったわあ、うちがなんとか置いてかれんように引きずってったんやけど、痛くない?」
数日間の行進で、痛みは呼吸にも等しいくらいに身体に馴染み、大して気にすることでもなくなっていた。だが、言われてみれば冷気による鋭い痛みや疲労による筋肉痛とは違った、鈍く打ち付けたような痛みを感じる。これを伝えるのはあまり得策ではないだろう。
「だ、大丈夫……重かったでしょ?」
「新人の地方審問官が倒れて運ぶのだって何回もあったやんか。まあ、新人でもないマオちゃんが倒れるのは少し予想外だったけどなあ」
「そ、そうだ……それなら……」
新人ならまだしも、普通のチンコン種族__いわゆる大多数の人間の一生と同じような期間ここで働いているのに、今さら倒れるというのはなんという失態だろうか。体力には自信があったのだが、慣れが災いしたのかもしれない。もしくは、行進前に気のゆるみを指摘されて鞭打たれたことが原因なのだろうか。ここではそんな事情はすべて言い訳だとされる。行進中に倒れた人々は努力不足として罰されるのが常で、新人ですらない自分がどんな呵責を受けるのか、気にせずにはいられなかった。
「ふふ……マオちゃんはえらい可愛がられてるからなあ、また可愛がる口実ができたってところやない?」
「それって……」
「報告したら、溜息ついとったわ。集会まで時間もあるし……後で来い、だって」
「……」
慣れていることではあったが、やはりこういう宣告の瞬間にはいつも胸が締め付けられる。今日はもうひとつ、罰を受ける必要があるというのに。マオは上官であるヤマに気に入られていた。本人もそれを自覚していた。だが、どうやら彼の愛情表現はかなり特異なものらしい。コンチーのおかげでいとも容易く再生するのを良いことに、何度舌を抜かれたかも数えきれない。
この世界は、狂っている、と思う。そうやって恐怖と苦痛で自分たちを従わせる上の方々に何度嫌気が差したことだろう。自殺をするには自ら身体をシュレッダーにかけ、誰かに頼んで河川に流してもらうのでやっとだ。そうやって自殺する人もいるらしいが、マオには廃棄を手伝ってくれる知り合いもいなければ、自殺企図や逃亡計画などがバレれば拷問よりも遥かに恐ろしいことになるに決まっている。トラウマだって握られている。それで奈落の底を見るよりは、せいぜい奈落の中核にいるくらいの今のほうがマシだ。
逃げることもできないが、それでもウイハが生きているから頑張ってみようと思える。この道を選んだのも、後悔はない。ヤマ様のことだって、本当に尊敬している。ここは地獄だが、マオには煉獄や天国などより地獄のほうがマシに思えるのだ。いい子でいることが当たり前のそんなところよりも、頑張ったら罰を受けないという褒章があるここのほうが良い。
ウイハにまるで猫を相手にしているかのように撫でられるのも、今はもう慣れた。また意識を落とす気にはならないが、できるならばずっとここにいたい。技術に費用を全部かけたような見窄らしい見た目のわりにスピードの出るこの自動運行列車では、もう少し経てば目的地についてしまうだろうが。実際に窓の外から見えた景色は、サジェザ近くの荘厳な芸術都市的風景を映し出していた。
「マオちゃん、寝たばっかなのにうっとりしとるなあ、もうすぐ着くで?」
「ね、寝てないし……やだなあ、新人の前ではみんないつもよりビシッとしちゃってさ……そう思わない?」
「なんやマオちゃん、鞭打ちの回数でも増やされたいんか?」
秩序維持のための組織、特殊審問部隊は、チェジュを支配する組織である北半球同盟国連合の書類上の「傘下組織」である。実際には地位の差がないどころか、民衆の現場的な視点から見れば連合よりも影響力が強い。その職員である審問官は、常に職務に忠実に、怠惰さや悪には厳格な態度を以て接することが規範の一つでもある。マオもそれを理解しているためか、ウイハには言い返すこともできずにうう、とうめくことしかできなかった。
ギギ、と音がして電車が止まる。マオは身を起こして軽く伸びをすると、ウイハに渡された官帽を深く被り、前に続いて列車を出た。雪山を越えた身からすればサジェザのあたたかな海風は救いの風のように思える。この瞬間があるから行進を頑張れるのかもしれない。嫌なことがあった後には、どんなに小さな幸せもオアシスの水のように多大な歓びとして身体にしみこんでくるものだ。またしばらく行進しなければならないが、むしろ審問官としての誇りすら感じることができる。
ウミンタの、サジェザの町並みはいつ見ても壮観だ。芸術都市というだけあってどの建物も美しく、意匠に凝っている。コンチーの登場と格差社会のために停滞した世の中には珍しいほど、その時々の流行を捉えたデザインとなっている。特殊審問部隊本部のような伝統的な建造物もあるが、そうでない建物は数年おきに変わっている。最初のうちは行進に集中しろと先輩の地方審問官にどやされるほどに見とれてしまっていた。マオには芸術は完全に理解できないが、それでもどこか惹かれるものがある。既存の価値観に囚われないモチーフ、表現方法。最近はビビットカラーがトレンドらしい。数十年前もそうだったが、今回はビビッドカラーとはいっても寒色がモチーフで、ウミンタの空や海といった象徴を思わせる。最近は既存の価値観と新たな表現の融合というのが流行っているらしい。
一般の人々が使う駅とは違って、審問官たちは専用の駅を使う。少し遠回りになるぶん、サジェザの風景を十分堪能できる。今はもう行進しながらさりげなく街並みを鑑賞することも容易になり、この時間が好きになっていた。過酷な行軍に耐えられる理由のひとつでもある。ただ少しだけ未だに慣れないのは、この行進に対して住民が道脇でひれ伏し、通るたびに畏敬と恐怖心、好奇心を宿した目でこちらを見上げてくることだ。
いままで何十回と繰り返した行進。担当地域での警備と各地域本部の教育担当は交代制なので、毎年というわけではない。それでも、幾度となく、これからも繰り返される行進のなかで、いつもこんなことを考える。今年度は、何人の審問官が入ってきて、そのうち何人が壊れるのだろう。何人が不老長寿に支配されるのだろう。何人が逃亡や自殺を図って、そのうち何人が見つかって死よりも恐ろしい目に遭う?そして、私自身は、これから何度折檻を受け、何人を拷問し、死刑に処す必要があるのか。少なくとも、今年度受ける折檻は三回以上であると今の時点で確定しているのが情けない話だ。列車内での戯言についても見逃してくれないかもしれない。
ウミンタの芸術的な雰囲気の中だからといって、世界への諦めや憂鬱さが消えるわけではない。毎回、自身の入隊時のことを思い出したところで本部に着く。美術的な華美さよりも質素さと剛健さの目立つ巨大な建物は、サジェザの街並みからは浮いている。いつも通り、その敷地に足を踏み入れた。
「連絡事項は以上、みんな今日も集まってくれてありがとう!それじゃ、各自の待機位置についてね!」
シャルル大審問官と呼ばれる特殊審問部隊の統括者は、広い大講堂によく響き渡る声でそう締めくくる。彼女の姿は少女らしく純粋無垢に見えるが、れっきとした上官だ。彼女が携帯するライフル銃とウィップが、その権威を物語っていた。それでも、彼女もまた、この世界の被害者だ。マオはこれから起こることへの憂鬱さに蝕まれていたが、毎回そうであるように、彼女の不憫さにも想いを馳せていた。この世界で利用されない人間などいないとはいえ、見た目も精神もこれ以上成長することのない子どもである。
__この百年間、変わったのは私だけだ。大審問官も、ヤマ様も、チェジュそのものも、ほとんど変わっていない。私を照らし、刺すようなあの瞳は、今になっても自身の弱さを感じさせる。そして、コンチーを飲んだあの日だろうか。いや、連合に逆らおうとして、拷問を受けたあの日からだ。私も、変わっていない。
地方審問官の数は全体の審問官の数に比べて非常に少ないうえ、大講堂には複数の入出口があるから、まばらに動いても混乱することはない。だから一度外に出ようかとも思ったが、ヤマが舞台側から手招きをするので、そちらに向かうしか道がなかった。足取りは重いが、これだって何万回も繰り返した苦痛の一つだ。他の主席審問官たち__ヤマのように、大きな地域や国単位で統括する計五人の審問官たちの視線が居たたまれないというのが珍しいところだろう。マオが彼に執着されていることを自覚しているように、周りから見てもそれは明らからしい。そもそも、教育中の新人や古参でもない、中途半端な時期に入隊したマオが主席審問官直々に教育を受けるというのが特異なのだ。普通であれば、よりベテランや長寿である先輩の地方審問官の誰かに教育を受けるものであり、マオをそうやって世話する審問官がいないというわけでもない。その理由がまったくわからないわけでもないが、いちいち確認するほどのことでもない。その音を出すための歯は、食いしばるのに使うほうがよほど効果的だ。
ヤマ__マオの上官は、実に神秘的で威厳ある容姿を持っている。もっとも、チェジュを統べている連合の最高司令官ほどではないのだが。彩度の低い肌、尖った耳に鷲のような羽、そして何より、威圧的なまでの巨躯と鋭い目つき。マオが近づくと、彼もまた数歩前に出る。その動作にまで圧倒されてしまう。畏敬や恐怖は入隊当初も感じていたが、素性を知った今のほうが、よほど冥王とでも相対している気分になる。
彼はマオの手を取ると、有無を言わさずに出口まで引っ張っていく。その手は氷のように冷たく、これから自分が呵責を受けるであろう理由を思い起こさせた。
「マオちゃ〜ん、ここ十年で新記録じゃない?ここまでに三回……むぐっ!?」
「ウラヌスちゃん、からかうのはやめようね?」
ウミンタとその北部にある国、マドレースを統括する主席審問官であるウラヌスは、いつもマオのことをこのようにして揶揄うのである。シャルルはその姿を見ていつも止めるが、とにかく緊張と恐怖にあてられているマオにとっては地獄に垂らされる一本の蜘蛛の糸のようなものである。それも気に留めずにヤマは自分を引っ張っていくので、その糸が引きちぎられるような気持ちにもなるのだが。
「マオ……しばらく見ないうちに随分と甘えるようになったか」
足音がこつ、こつと響く。床のそこかしこに見える傷が、講堂の古さを感じさせる。握られた手をぎゅ、と握り返すマオのもう片方の手は、震えていた。
「いつも言っているだろう、慣れを怠慢の理由にしてはいけないと。最近は特に酷い……交代の年はいつもそうだが、今回は殊更酷いな」
講堂を出ると、講堂内の神秘的な雰囲気は消え、一気に無機質になる。あたたかい気候風土に反して、心は凍り付くようになる。
「す、すみませ……」
「……いま、これよりすがらに、我のがり置きなむや?」
長年にわたり共にいたから、彼の母語であるシェンシェン東部の古語の意味は分かるようになってきた。これからずっと、私のもとに置いてしまおうか?実にありがたい申し出だが、ウイハと一緒にいられなくなる可能性も、完全に自由がなくなるのも、少しだけ抵抗がある。だが、見限られずにこのようなことを言われるのも、私が強い寵愛を受けているからだ__それは、十分分かっているから、ただ感謝の意を示すしかできない。そうしようと思っていたのに、口から出たのはまったく違う言葉だった。
「ただでさえ変化のない世界を、さらに恒常不変にしようとしているのですか?それで、ヤマ様はいいのですか……」
「……」
正気ではなかったかもしれないが、決して荒唐無稽なことを言うほど混乱しているわけでもないはずだった。まぎれもない、本心だ。彼は読心術を使えるのだから、そうであることもお見通しだろう。
「私は、連合の奴隷なんかにはなりたくない、だから……」
「マオ。今はそのような話をしているわけではない。……私も、それについては責任を感じていないわけではないのだ。安心しろ、これから語り合う時間などは劫、あるのだから……まずは、お前のしたことの報いを受けなければならぬのではないか」
倒れたくらいで、と思う心がないこともないが、そもそも自分自身が望んでこの地位に就き、自分で地獄に生きることを選んだのだ。確かに地方審問官への昇進は命令ではあったが、コンチーは自分の意志で飲んだ。ヤマにも、様々なことを知ってなお、ついていくことを選んだ。本当にこの状況を避けたかったのならば、コンチーを飲む前にさっさと自殺しておけば良かったのだ。相当つらい目に遭うことをわかって、私はこの道を選んだのだから、仕方がない。仕方がないのだ。
重い扉の先には、薄暗く厳かな雰囲気のある折檻部屋があった。民間人に使う尋問部屋と審問官用の折檻部屋は特に分けられていないが、鞭や拘束台などの器具が一式置いてあるような広めの部屋は、後者に使われることも多い。この部屋もそうで、本部だからかいつもよりも広く、拘束台の種類も多かった。ヤマは電気をつけ、そのうちの一つに座ると、マオに正座を促した。
「マオ、何故だ。……倒れるのは仕方がないと思うが、お前はそこまで脆弱ではなかったはずだ。そもそも、私はそのように脆弱な者を地方審問官に任命することはまずないがな」
「わ……私の、努力不足のせいです。本部にいない間に、自己研鑽を怠ったから……」
見下されながら説教されることは今までいくらもあったが、やはりその威圧感の前でまともに舌を回すことはできない。
ああ、そういえば、彼も一つだけ変わったことがある。普段人を鞭打つ時は苦しそうな表情を見せることがあるのに、私を折檻する時にそのような表情は見せなくなった。まるで、当然のことを当然のようにしているというように。
マオは、彼の時々見せる優しさが好きだったけれど、自分の前でそれを見せることは新人審問官の頃よりも本当に少なくなった。それでも離れられないのは何故だろうか、それは今の感情がすべて、物語っている。
畏怖。
コンチーよりも、立場よりも、それに縛られている。
「……」
彼の目がマオを睨む。
「あ、あの……ごめんなさい。わ、私、やっぱり、ひとりじゃだめなのかも……ウイハとか、リコリス様やアカシア様が悪いとかじゃなくて、でも、離れてる時間……もっとちゃんとやれたら……」
「身体は回復したようだな。呂律も回っている、痛いところはまだあるか?」
「あ、いえ……ど、どうして?」
「自業自得だと理解しているならば、今、これ以上説教を続ける道理もない。久々の再会だ、お前がどのように報いを受けるのか、思い出させねばな」
罰を受ける時の手順にはもう慣れた。新人の頃は中々拘束台に自分から乗れなくて、髪を引っ張られていたのが懐かしい。
「……はい」
服を脱いで、台に乗る。最初は制服を脱ぐのにも手間取ったが、慣れたものだ。うつ伏せゆえに彼が何をしているかは分からないが、鞭を選んでいるのは容易に想像できる。
気配がするのに、拘束が始まらない。怪訝に思っていると、想像を絶する痛みが襲う。
「あっ……!?ぅ……うぅ……」
辛うじて台には留まれたものの、何も考えられないほど、痛みへの苦しみと疑問符で脳が埋まっている。彼はそれを見透かしたように、語りかける。
「月桂樹、という鞭……というのは知っているな。お前が忍耐を学べるように、特別に配慮してやった」
何度打たれるかは分からないが、経験を省みるに十程度だろう。時間も大して無い。それでも、自分の甘さを後悔するには十分すぎるほど十分だ。
痛みしか考えられない感覚は初めてではない。それでも一生懸命に足を台につけ、拘束用のベルトを掴み、大きく動かないようにする。こうやって反抗する気力を削られていくのも初めてではない。ご、じゅう、そうやって増えていく痛みに耐えるのは容易なことではない。雪山の吹雪のように、鞭の先の金属は背中を幾度となく刺し、その度に声で気を紛らわせる。やっと鞭が止まった頃には、立つのがやっとで、先程の対話を続ける気もなくなっていた。ただ心配なのは、また新人の前でふらふらとして、更に罰されることだけ。
「……マオ」
ヤマはマオの手をとり、まだ立つのもしんどい様子のマオを支える。マオは大して気にしてもいない様子だったのだが、呼ばれてはじめて支えられていることに気づいた。ふらふらしていることをまた責められるのではないだろうか。しかし、予想とはいつも裏切られるものである。
「よく耐えたな。お前のことは信頼している、これでまた一つことを学べただろう……お前は失敗はするが、素直に罪を認められるのは評価しよう」
「あ、ありがとうございます……」
そして何より恐ろしかったのは、そうやって時々見せられる慈悲の心だった。
新人の審問官、いや、審問官というには未熟すぎる、まだ鞭の受け方すらわからないひよっこ達がずらりと並ぶ様子は、見慣れたものではあれどやはり壮観だ。年度ごとに千人ずつほど入隊するが、研修期間中に逃走を試みて処刑される者、厳しい訓練に耐えられず自害する者、研修を終えて任務に向かった時に殉職する者。シェンシェンでは研修中に殉職する者は少なかったが、それはヤマの絶妙な飴鞭の使い分けとマインドコントロール能力によって為せたというだけのことである。
フィルンは、以前はかなり能力の高い主席審問官が管理していたそうだが、現状は悲惨である。今の担当であるシャーロットの甘さと過酷な環境が災いして任務中に命を落とす者が後を絶たない。それだってまだマシなほうだ。へレス大陸北西部のウラヌスによる教育は精神を崩壊させるものらしく、精神力が少し弱いだけで廃人と化して処分される。「悪魔大陸」__北半球にあるもう一つの発展途上の大陸では、ツォンテによる厳しい訓練が審問官の心身を壊している。南半球の「コロニア」と呼ばれる地域はさらに酷く、その半数は逃走を試みて処刑されている。
ほかの主席審問官を非難するつもりは全くないが、それはヤマを崇拝する理由の一つとして十分だった。特にコロニアに配属される審問官は、そのほとんどが無能と異常者であるとはいえ、実に不憫極まりない。内実を大して知らずに、他より労働条件が良いとか、名誉のためだとか、または自身の民族やPu239の有無で差別されないからだとか、そういう理由で普通の就活生と同じように入ってきた彼らの目はまだ輝いている。このうちの二五〇人ほどは今年度のうちに壊れてしまうかもしれない。哀れだ、哀れで仕方がない。
シャルルの登場とともにざわつくのもまた、往年と同じ流れである。コンチーの存在すら知らない底辺層が正義感と少しの頭の良さだけで、あるいは正義感があるような演技でここに来ることは多い。コンチーが今や量産可能な洗脳用品だとも知らずに不老長寿に夢を見ている馬鹿だっている。だから、こんな幼そうな子どもがこの組織を統括しているなど、誰も信じることはできないのだ。いや、分かっている聡明な者もいるのかもしれないが、そんなのは少数派だ。
「みんな、あつまってくれてありがとう!こんなに世界のためにはたらこうと思ってる子がいるなんて、シャルルもうれしいな!」
彼女の無邪気な声に熟した人間という感じはない。実際、コンチーを飲んだその瞬間から、身体も精神も成長を止めるのだから、彼女が子どもであるというのは事実だ。それでも、人間というのは数字にこだわるものだから、彼女の実年齢を知ればみな驚きひれ伏そうとするだろうが、生憎それを今の段階で伝える権利はない。
そして、何度も何度も舐められるのを繰り返すのは、やはり彼女にとっても目に余るものらしい。毎度毎度特に騒いでいる大馬鹿を見つけ出しては皆の前で罰する。それは効果的ではあるけれど手間だ。いずれは分かるはずなのだから、プロセスに組み込んでしまえば良い。ああ、そういえば変わったのはこの儀式もなのかもしれない。もっとも、マオ達一般的地方審問官には改悪でもあるのだが。
業績発表は従来、入隊式とは違う各支部の年度末の招集で完結していた。業績が良ければ地方審問官の中でもより上の地位に上り詰めることができたり、承認という名の精神的な褒賞を得たりできる。逆に、業績が悪ければ……言うまでもないだろう。それは支部ごとに行われる。
マオにとっては苦痛だった。人と比べられること自体が嫌いだった。それは自身の劣等感を増幅させ、尊厳を踏みにじられるようなものだから。劣等人間と断定されるのが怖くて、頑張ろうとすれば頑張ろうとするほど、その努力は空回りする。相手は気づけば過酷な尋問に耐えられずに壊れてしまう。冤罪で何度罪なき者を壊したのかも数え切れない。何も成果を生み出さないよりも、冤罪を被せ、尋問のつもりで相手の身体を壊してしまうほうが、評価としてはマイナスだ。ゼロからプラスに、マイナスからゼロにしようとするほどに、マイナスの値は大きくなる。それでも処刑の腕やら、タフな罪人の相手やら、そしてその根性で評価されて処分されずに済んでいる。__寵愛も含まれているのだろうが、それはいい。ただ積極性のないことが怠慢であると叱責されるのが怖いから、マオの被害者は後を絶たない。
その罰の行程と見せしめを一体化する、というのが、数十年前からの慣わしだ。正直、最初の方は油断していた。コロニアの審問官には無能か異常者ばかりだから、さすがに全支部最下位はコロニアに任せられるだろうと信じていた。しかし、真に脅威であるのは無能な働き者というように、マオは自分の無能さを突きつけられることとなったのだ。__それは今年度も同じだ。恐怖と憂鬱に際限はないらしく、鞭打たれたばかりの背中が疼くたび、マオの膝は震えた。
自身にその痛みを与えたその巨躯は隣に隣に佇み、マオのことを見下ろしていた。その大きな羽はマオの身体を__護ろうとしているというよりは、逃がすまいとしているかのように__包んでいた。それが救いなのか、あるいはさらなる罰として機能しているのか、マオにはもう、よくわからない。それでも、良かったと思う。一人ならば、きっとしっかり立てなかったから。
「ところで、ここに来てくれた優秀なみんななら分かると思うけど……審問官たる者、自らの過ちにはもっと厳しくあるべきだよね?」
シャルルの声が少し冷たくなる。子どもの面影も残しているが、そこにあるのは大審問官として背負ってきた巨大な責任の影。ヤマには及ばなくとも、少しゾクリとしてしまう。実際、彼女の鞭打ちや処刑の技術は格別だ。今から受ける痛みだって、先ほどの月桂樹の痛みに劣らないだろう。大審問官直々に鞭打ってもらえるのは光栄なことだが、条件が業績最下位というところから分かる通り、それは褒章でもなんでもない、ただの儀礼の名を冠した罰に過ぎない。
突然、目の前が暗くなる。それはヤマが自身の目を手で覆い隠したのだと理解するのに、さほど時間はかからなかった。周りの目を気にせずに、堂々と乗壇できるように。周りに見られていることを自覚すれば、足が震えて、涙を流してしまうかもしれないから。マオには、やけに敏感なところがあって、入隊時の見せしめの儀式の時も泣いてしまった記憶がある。此処では短所と言うべきそれを、ヤマは熟知しているのだった。
背中を押される。歩くことだけに集中すれば良い。視線は幾つも感じるが、きっと私なんかよりも、私の手綱を握っているこの人外的な巨躯に注目しているのだろう。一歩、一段、マオは促されるままに進む。唐突に床に身体が押し付けられる。そして、服を脱がせられる。それは折檻の始まりを意味していた。ヤマが自身の下半身に乗り、拘束していること以外では身体は自由で、先ほど学ばされた「忍耐」とやらを活用する時が来たらしい。
頭の前で手を組み、顔を床につけ、歯を食いしばる。今までもやってきたことだが、苦痛とはいつも新鮮なもので慣れることはない。周りの音が聞こえなくなり、鞭を振るうヒュ、という音だけが聞こえる。ひゅ、ひゅ……焦らしだろうか、音速の鞭が背中に直撃することが暫くない。恐怖で泣きそうになる。泣いちゃ駄目だ、私は少なくとも、審問官の最低ラインとしてのお手本にならなければならない。
皮膚を裂く音、ひとつ遅れてくる激しい雷のような痛み、鞭が直撃したことへの恐怖、それでも姿勢を保とうとする理性、そのすべてが鮮明で、マオの地獄は底辺を知らない。痛みのこと以外考えられないけれど、鮮明に苦痛を感じる丁度良い力加減。それは大審問官のシャルルだからこそ為せる技でもあった。理性に本能が抗えるはずも無く身体は勝手に逃げようとするが、即座に鞭が飛ぶ。先程とは少し違う痛みで、裂かれた皮膚を針で刺すような鋭い痛み。そうして苦痛がマンネリ化することはない。
「悪い子は皆、こうなるの。ほら、あと三回……この子は相当傲慢で怠惰だけど、五回で許してあげようね」
少し苦痛のない時間に入ると、その声が自分に響いてくる。傲慢で怠惰、それはマオの自己評価とも概ね一致していた。結局、自分の弱さを潔く認めることが怖いだけだ。これからずっと、私のもとに置いてしまおうか__この提案は、真実味を帯びたものとして受け取られるようになってきていた。自分の無能さを自覚すればするほど、自分が厳格な管理のもとでなければ生きていけないことが身に沁みて理解できるから。
続いて振られる3度の鞭、それはリズミカルにマオの背中を傷つけ、マオを呼吸困難に陥らせる。逃げようと藻掻く身体は実に無様だ。
「ひっく……ひっ……ぉえ……はっ……はっ……」
声をなるべくあげないようにしていたけれど、苦痛の前では何もかもが無意味だった。もう終わりだよ、とシャルルが言うのが聞こえるが、中々立てない。これも珍しいことではなかった。この後、ヤマがどうするのかも含めて、マオは自分の不変さを知っている。
後ろ髪を無理やり引っ張られ、顔を上げさせられる。自分の実に無様な姿が皆に晒されている。ついたまらなくなって嗚咽を漏らしてしまうが、言わなければいけない言葉も知っている。
「あ……ありがとうございます、シャルル様……私に、報いを与えて頂いて……」
「うん、よくできました!」
シャルルは嗜虐的なまでの子どもらしい笑みに戻って、マオに微笑みかけた。同時に、退場を促す。
「これがここでの罰の受け方だから、ちゃんと覚えておいてね?」
ざわめこうとする聴衆はもういない。そこに残されているのは、場に満ちた緊張感と恐怖心、そしてマオの抑えられない嗚咽だけだった。
軽く舞台裏で応急処置を受ける。マオの嗚咽は止まる気配がなかったが、口枷を噛ませられたのである程度音を抑えることはできた。背中に薬を塗られる。それは治療のはずなのだが、ひどくしみて追撃のように痛みを感じさせた。罰と日常の境目が曖昧になっていることを感じる。それでも今は一応治療という名目のはずだったから、少しだけ例の巨躯に甘えることにした。薬を塗り込んでいる彼の身体に擦り寄ると、彼は少し溜息をついたが、それを分かっていたかのように受け入れた。
「……マオ」
ヤマはそっと口枷を外すと、マオに語りかける。まだ少しだけ息をするのが難しかったが、時間とはどのような痛みも軽減し、このような日常的な痛みは解決してくれる。
外ではシャルルの演説の声が響いている。そのよく通る声には自身の嗚咽も、ヤマの囁き声も大して気にならないであろう。少なくとも前者に関しては、自分が最下位を免れたときに確認済みだ。シャルルの声は不思議で、よく惹きつけられる。もとより嗚咽を積極的に聞きたいと願う者は少ない。だから、嗚咽など一種のノイズ未満の存在にしかなりえないのだ。
それゆえ語りかけられたことには大して反応を示さなかったが、彼が先ほどのように手を引き、どこかへ向かおうとするのでマオは意表を突かれた。
「どこに……行こうとするのですか?まさか、外に……?」
「ああ。案ずるな、私の立場はお前もよく分かっているだろう」
そのまま裏庭へ通じる扉へと連れていかれる。そうではなく、と言いかけたが、今聞くのも時間の無駄そうだったので、手を引かれるままについていった。
裏庭の空気はサジェザの街と同じくあたたかく、一面に咲く花がその場を彩っていた。ベンチに座ると、その鮮やかさがよりはっきりと輪郭づき、マオの身体を包み込む。書物の中の天国のようなその場所で、ヤマの存在は余計に浮いていた。隣に座った彼が口を開くと、一瞬でも弛緩したマオの身体が緊張する。
「……ありつる討論を続けむ、マオ……お前は、この世界が恒常不変で、変えるべきものだと思っているようだが」
「……ええ、確かに、そのような意図でした」
虚言に意味がないことは身に染みて分かっている。それに、彼は私に詰問しているわけではない、不器用ではあるが、彼なりの対話の仕方なのだ__マオは心のうちでそう自分を説得した。この心の動きも読まれているのだろう。マオは、しっかりとヤマの目を見る。
「お前は、何故そのように思う?」
言いたいことはたくさんあった。自分が罰を受けるのに慣れきってしまったことへの罪悪感、精神までもが止まってしまったこの地獄で自分に改善の見込みすらないことへの不安、シャルルや多くの審問官への哀れみ。言語化しようとすればそうやって沢山出てくるけれど、まだ足りない。頭の中がごちゃごちゃする。
どこか、懐かしさを感じた。容量の狭い記憶の中に、ひとつの景色が現れる。審問官になる前の最終面接のときも、彼はこうして、自分のことを待っていた。虚言やごまかしは通じないけれど、時間をかけて答えを探すことは許す、と言わんばかりのあの、そして目の前にある視線。思えばあの時から、マオはこの師に惹かれていたのだ。
「わ、私は……あの時は、理想を抱いていたんです。国民を、人々を守り、悪を絶つための審問部隊、そこで、自分が人々を救うんだって。導くんだって」
声が震えている。
「でも……違った、私たちは、弱者を傷つけて……いや、私は。私の成果のために……でも本当は、わからないんです。今も。何がダメで、何がいいことなのか……もし多くの人が幸せになるためなら、コロニアの人ならざる者たち……ヴァリエとか、グリゼとかを傷つけるのは、迫害するのは、許されるの?でも、その答えすら、連合は求めさせてはくれないのでしょう」
虫の特徴を持つヴァリエや、植物や微生物の特徴を持つグリゼ、そういった人とは程遠い民族が迫害され、コロニアに追いやられることは、古来__フィルン建国以前より__あったことだった。それは正しい行いとは言えないはずなのに、今の連合も烏が白だと答えるように黙認あるいは加担している。マオが一部の特徴だけで判断し、尋問で壊してしまうのとちょうど同じように。
マオは。いや、違う。私は、私から逃げてはいけない。私をいくら俯瞰したって、私は私から逃れられないのだ。
私は、それがずっと不可解で仕方がなかった。もとより、挨拶をする理由や、ものを壊してはいけない理由さえわからなかった私が、この不条理を理解できるはずもなかった。抗う気力さえ奪われた私に残るのは、空っぽに満たされた低性能の機械人形としての器だけだ。
「倫理や規範の意味を……未だ理解できないのだな。我々に未だ染まりきっていない、だからこそお前は抗うことを選ぼうとしているのか」
「……そうです、それは此処では、悪とみなされるのでしょうけれど……」
不意に優しい感触が私の頭を覆う。彼にとっては珍しい行動だったが、彼がかつて私に重ね合わせていた姿を思えば違和感はない。しかしながら、やはり彼は不器用だな、とも思う。サブリミナル的な飴の与え方は誰よりも知っているのに、直接的な褒章といえば頭を撫でる、という認識の甘さがなんだかコミカルだ。彼の言葉での褒めは首輪をはめるような行為に他ならないから。それにしても、彼が自分の立場に反して現状をよく思っていないことは私もよく知るところだが、それは直接的に表に出すほどの意志なのだろうか。
「私のこの行為に、可笑しさや疑問でも感じているのか。……不器用さは認めよう、ただ良き心がけと感じたゆえ、だ」
「それなら……なぜ?」
なぜ身分も実力も持っていながら変える素振りすら見せないのか。そもそも、あなたは構造の創造者側ではないか。私のような者を処分するでもなく、この停滞した世界に居座り続けさせるのはなぜ?彼に不信感はないが、疑問ならば山ほどある。言いたいこと、聞きたいこと。戻ればきっと、また歯車の一つになってしまうから、私が私として認められるこの瞬間だけは。
「言っただろう、語り合う時間は劫、あるのだと。マオ、お前は焦りすぎる傾向がある。聡明なお前がどこまで察しているか、正確には推し量れぬ。だが、マオ。今に責任を感じているのは、連合の者らも同じだ。……あの、最高司令官でさえ、思うところはあるようだからな」
「……最高司令官も?」
私は訝しんだ。私の知る最高司令官は、どこまでも傲岸不遜で、自分の作り上げた構造に何ら欠陥がないと言い張るような人物だ。私が連合を憎む理由そのものではないが、連合を蔑視している理由のひとつではある。
彼にとってみれば、私などただの駒で、駄犬にすぎないというのに。連合職員にも色々いるが、権利を握る者のほとんどは似たような見方をする奴等だった。たまにうっすら、反抗の目を見せる者もいるにはいるが、そいつらだって今の構造に加担している以上、強くは言えない様子だった。
ああ、そうか、と思い知る。良かれと思って作り出した構造が、結果として、以前のモノ以下に成り下がってしまった。コンチーで停滞した世界とはいえども、自分が作ったものを自分で壊すのは憚られる。
「マオや、悟ったことがあるのか?」
暖かい声だった。彼の輪郭がふわ、と融けると、広い裏庭の様子が開いた瞳に浮かび上がる。ひどく慣れた眩しさが少しだけマシになった。散瞳した瞳が、少しだけ閉じられたのを感じる。
「私が……変えねばならないのですね。正当な手段で、庶民の力を借りて」
「ああ。間違えても、虐殺や放火などの手段は使うべきではないな」
連合に逆らおうとした時の、かつての記憶。結局死ぬほうがマシなほど苦しい目に遭うことになったから、それ以降は嫌悪感を抱く以外にできることがなかった。当時の彼の目には、冷たさの中に、微かに自分への期待が宿っていた。思えば、私への冷酷さが増したのは、あの時だ。
「でも……出来るのでしょうか?わたし、私……」
それでも、抗う心持ちがあれど、自分の無能さが覆らぬ限りは何かを為せないだろうという気持ちもあった。過剰な焦りと幻覚、妄想、感覚過敏によって生み出してしまった被害者たちのことを思えばそれは火を見るよりも明らかだ。
不安だ。もう、理性では分かっているのだ。私にそんなことが務まるはずがない。
長閑な今の空気が、自分の駄目さを、異常さを思い起こさせる。悪夢と折檻に慣れて、閉じることがなくなった瞳孔の片隅に、引っ張られて傷んだ髪が映る。
「マオや……お前が道を踏み外しても、私が元の道に連れ戻してやる。地獄に適応できるのは……才能だ。此れも何度も言っているだろう、お前には、才能がある」
「才能……確かに、ちょっと頭が良かったのかもしれないけど、それは実践には意味が……」
「いや。抗う才能だ」
抗う才能。
一世紀以上もここにいて、彼がこのように語る想像などできたことがない。彼はすっかり、支配者だと思っていたから。
「貴方がそのような甘言を言うとは、思えませんが……」
「この私が、お前に虚言を吐くとでも?審問官としても人間としても欠けているが、革命家としてならお前は秀でている。それは揺るぎない事実であろう」
世界の眩しさが私に痛みを与える。目を細めた。
「不安か?そうだな、お前は既に、抱えきれないほどの大きな罪と責任を背負っているのだから。無理もない」
彼は私に更に近づくように促した。彼の羽がまた、私を包んだ。その感触は先ほどとは変わらない。彼は一貫して、私の師なのである。
「で、でも……仕事しながら……?」
「お前に仕事を任せても、事務は直ぐ終わらせてしまうし、ヒトは壊してしまうからな。……折角私の側に置くのだ。マオ、存分に、お前の進むべき道を探せばよい」
切り捨てられた、というには少し違う。私の進むべき道……それは険しいだろうけれど、確かにそこにあるのだろう。
「あっ!ふたりともここにいた!」
純真な声が響く。それには恐ろしさや突き刺す調子はなかった。
「し、シャルルさま……」
「……申し訳ないな。だが、重要な話だった」
彼女は私達の目の前に来ると、笑顔で言い放つ。
「うん……“彼女”の声がまた聞こえたの。この世界を変えられるかもしれない、見守ってあげてね、って」
「……!」
その報告を聞いて、ヤマ様は少し驚いたような様子でいた。南風が頬を擽る。いつしか言っていた。彼らには、稀に“声”が聞こえるのだと。今はもう亡き、審判神の声が。
私は聞いたことがないけれど、彼女らが幻聴や虚像に惑わされるとは思えない。だから、きっと、そうなのだろう。彼女は、私達を見ている。
「みんな待ってるよ。マオちゃん、痛かったよね?でもだいじょうぶ。あれは……シャルルたちが、あなたを見捨てていないってことなの」
「それこそ……」
「うん、わかってる。だからマオちゃんがやってくれるんでしょ?三翼にも為せなかった、みんなのための革命を」
彼女は本当に私に期待している様子だった。
呼吸をする。暖かい空気。いつぶりかも分からない、適度に吸収されるのどかな光。すぐにまた散瞳してしまうかもしれないけれど、今この時だけは、ひとつの生命体のマオとして、自然に自然を受け入れたかった。
胸いっぱいに外の空気を吸って、私は立ち上がる。講堂までの一歩一歩は、これから歩むひどく長い道のはじまりに過ぎないのかもしれない。
すべての始まりは困難である。それでも、マオは決めた。道を拓くことは困難でも、不可能ではない。道の一歩目を歩み出すつもりで、地面を強く蹴った。




