第57話 帰還――世界の境界線
戻る道は、静かだった。
光も、揺らぎも、
名前のない世界の“意志”も、
追ってはこない。
ただ、薄い膜のようなものが、
前に広がっている。
「……これが、境界線」
アリエスが、指先を伸ばす。
触れた感触は、
布でも、ガラスでもない。
水面に近い。
押せば、たわむ。
《ステータス・オーバールック》
境界線
状態:安定
通過条件:同意済み
「拒まれてない」
カイが、確認する。
「向こうも、
戻ることを想定している」
「……見送られてる感じだね」
リィアが、少し照れくさそうに言った。
アリエスは、振り返った。
名前のない世界の空。
二重に重なった色。
歪みながらも、保たれている地平。
「……ね」
誰にともなく言う。
「逃げた、って言ってたけどさ」
拳を、軽く握る。
「ちゃんと、
生きようとしてたんだよね」
誰も、否定しない。
レオンが、低く言った。
「生き延びることは、
戦うことと同じくらい難しい」
「うん」
アリエスは、頷いた。
一歩、進む。
膜が、波紋を描く。
音が、戻る。
風が、戻る。
重力が、
“いつもの感覚”に戻る。
次の瞬間――
雲の上の冷たい空気が、
頬を打った。
「……帰ってきた」
アウレリオンの空。
遠くに、白い塔。
《スカイ・ノマド》が、
待機している。
誰かが、息を吐いた。
緊張が、解ける。
だが。
アリエスは、すぐに気づいた。
「……境界、近くなってない?」
全員が、振り返る。
空の一角。
見えないはずの線が、
かすかに揺れている。
《境界反応》
距離:縮小
頻度:上昇
「……世界同士、
近づいた」
セリスが、静かに言う。
「干渉し合わないための距離が、
減ってる」
「つまり」
カイが、整理する。
「あちらの世界を知ったことで、
こちらの世界も“認識”した」
アリエスは、空を見上げた。
胸の奥が、
少しだけ騒ぐ。
「……また、呼ばれるかもね」
リィアが、笑う。
「退屈しなくて済む」
「いや」
アリエスは、肩をすくめた。
「退屈してた方が、平和だよ」
それは、本音だった。
《スカイ・ノマド》が、
ゆっくりと高度を下げる。
甲板に降り立った瞬間、
エンジンの音が、やけに大きく聞こえた。
「……戻ったな」
レオンが、短く言う。
「でも」
アリエスは、仲間を見る。
「もう、
前と同じ世界じゃない」
誰も、否定しなかった。
知ってしまったからだ。
世界の裏側を。
名前を持たない世界を。
境界の向こう側を。
夜。
アウレリオンの灯りが、
雲の下に揺れる。
アリエスは、縁に立ち、
遠くを見ていた。
境界線は、見えない。
だが――
確かに、そこにある。
「……行き来できる、ってことはさ」
小さく呟く。
「選ばなきゃいけない時も、
来るんだろうな」
どの世界に立つか。
どの境界を守るか。
まだ、答えはない。
今は、ただ――
「帰ろ」
そう言って、
踵を返す。
日常へ。
仲間と、食卓を囲む時間へ。
《セブン・ブラッド》は帰還した。
だが――
境界線は、彼らを覚えた。
次に揺れる時、
それは偶然ではない。
選択の、合図だ。




