高菜は知っている③
「それは、ずいぶん大好きですね」
「そうなのよ、ブラコンってやつ」
ひよりにも兄がいるが、兄が出ているパンフレットなんて見たくもない。昔から出来のいい兄と比較されてきたため、水瀬のように兄を大好きになんてなれそうもない。
トントントン、と水瀬が階段を下りて来る足音がして、ひよりと福子は何事もなかったようにお茶をすする。水瀬が居間の引き戸を開けたタイミングで、福子が口を開く。
「遠慮しないで食べなさい。太ちゃんのおにぎりは、私が太鼓判を押すから」
「いただきます」
丸いおにぎりを口に運ぶ。おにぎりに歯を立てると、パリッと海苔が音を立てる。海苔のにおいが鼻先をかすめ、ご飯は弾力性があり、一口食べても崩れない。人が握ってくれたおにぎりなんて、久しぶりだ。母手作りのおにぎりを最後に食べたのは、中学の運動会だった。
ひより自身、大学に入ってから何度かおにぎり作りにチャレンジしたことがあるが、丸はうまく握れなかったことを覚えている。三角だって、ぽろぽろ崩れてきた。
「おいしい……」
それを独身男性が難なくやってしまうなんて、恐るべき女子力の高さ。そういえばエプロン姿だって、ひよりよりはるかに似合っている。
食べ進めると、おにぎりの中心にある梅干しにたどり着く。
「んー、すっぱーい。けど、おいしい。これは市販のじゃないですよね」
「福子さんの」
水瀬の言葉に、ひよりは福子を見る。福子は満足そうに頷く。
「自家製。今年は太ちゃんと一緒に作るのよ。ひよりちゃんも一緒に作る?」
「やってみたいです」
「決定ね。よし、住むところはおばさんに任せなさい」
福子さんが、どんと自分の胸を叩く。
「いえ、私、住所不定無収入で……」
「住所不定じゃバイトだってできないでしょ。大丈夫よ、事情を話せばわかってくれる人だから」
言いながら、福子さんは自分の手提げからスマホを取り出し、どこかに電話をかける。
雨風がしのげる場所がほしいと思いつつも、会ったばかりの人がこんなにも親切にしてくれて、あまりにも申し訳なくなってくる。福子はひよりの面倒を見る義理だってない。
これ以上迷惑をかける前に退出させてもらおうと腰を浮かす。
「福子さんは顔が広いんで、親切な家主さんの一人二人は知ってるんですよ。ここで逃げたりしたら、逆に警察に通報しかねませんよ。警察にも知り合いがいるんで」
我関せずの表情でお茶を飲んでいた水瀬が、ひよりに忠告する。水瀬の口から警察の言葉を聞き、ひよりは身を固くする。
「大丈夫ですよ。鮭は嫌いですか?」
「好きです。焼き鮭も鮭フレークも好きです。ご飯にかけずに、そのままスプーンですくって食べたいくらい」
パックからスプーンで鮭フレークをすくう真似をすると、水瀬は口元を緩める。
笑ったのかな。そうだとしたら、初めて笑顔を見た。
「それならどうぞ。鮭フレークを使ってますから」
「……いただきます」
三角形のおにぎりは切ったおにぎりを巻いたもので、白いご飯が海苔の間から見えている。そのご飯も白くつややかで、炊き上げたばかりかと思うような艶だ。ご飯はこんなに輝いているものだっただろうか。まとめ炊きして冷凍していたご飯で生活していたせいか、同じ米であるはずなのに、どうしても同じだとは思えないふっくらさと艶加減だ。
一口かじっても丸型同様、おにぎりは崩れることない。おにぎりの断面からは、宝石のように輝く鮭フレークが顔をのぞかせている。
また一口かじり、鮭フレークをほおばる。
「うーん、おいしい……」
安定の鮭フレークの味に、安心を覚える。ひよりも子供の頃から、よく慣れ親しんだ鮭フレークと同じ味だ。学校でお弁当が必要な時は、いつも母にリクエストしていたのが鮭フレークのおにぎりだ。
母とは進学してから、一度も会っていない。そのことを思い出すと、ひよりの胸は鉛を抱えたように重くなる。
「家出娘の部屋を用意してほしいのよー。親からの仕送りなしでやってる学生さん。できれば、うちの界隈。そうすれば大学にも行けるし、バイト先にも……あぁ、太ちゃんのところよ。賄い付きで」
「福子さん⁉」
知り合いと電話中の福子が自分の名を出したことで、水瀬は福子に体を向ける。ひよりは賄い付きの言葉に、耳を大きくさせる。
賄い付きのバイトなら、食費負担を減らせる。苦学生にとって、賄い付きはありがたい。
「どこどこ? ……川添さんのとこ? 二階? あーら、いいじゃない。家賃? 安ければ安いほどいいわよ。うはははは」
たくましい笑い方をする福子に、ひよりは身を乗り出す。
「管理・共益費込で? ……そうよねー」
福子が右手の指を数本立てる。その後スマホを肩と頬で挟み、両手で数字を示す。家賃だ。
ひよりは福子に頷き返す。この近所の相場としては、ぐっと割安だ。
「その物件押さえておいて! すぐ行く!」
電話を終えると、福子はすくっと立ち上がる。
「車持ってくる。ひよりちゃん、今夜はうちに泊まりなさい。そういうことだから、太ちゃんは明日からよろしく」
てきぱきと指示を出すと、福子は水瀬家から出ていく。
明日からよろしくと言われた水瀬は頭を抱え、ため息をついている。
「あの、お世話になりました」
「……いいえ。こちらこそ、これからよろしくお願いします」
うなだれつつも、水瀬が姿勢を正し頭を下げる。
「こちらこそ?」
水瀬の言葉に、ひよりは首を傾げる。お世話になったのはひよりであって、水瀬ではない。
「福子さんが言っていた賄い付きのバイト、あれはうちです」
「……へ?」
「一応、僕が経営します」
「は?」
経営します? 経営してますではなく、これから経営するってこと?
「水瀬さん、保育士さんですよね?」
「……違いますけど」
「すいません」
やってしまった。ひより得意の勘違いだ。
エプロンが似合う人が全員、保育士ではない。
水瀬家に着く前、シャッターが下りた古民家風のお店の横を通ってきたことを思い出す。配置からして、あの古民家風の店は水瀬家とつながっている。
つまり……。
「うち、定食屋だったんです」
「定食屋……。ん? 水瀬さんの得意料理って……」
確かおにぎりですよね。そう言う間もなく、外からクラクションが鳴らされる。
うなだれたままの水瀬に促され、ひよりは福子が待つ表へと出ていく。外に出てから気付いたが、スマホと財布以外の荷物は当然のように水瀬家に置かれたままだ。
広瀬川近くの学生用アパート、ユニットバス、ミニ冷蔵庫・IHクッキングヒーターつきの1K。フローリングではなく畳に押入だ。受験に来た際に契約したものの、志望大学に合格できなかったため三月末に契約解除となった物件だそうだ。
学生の転出入は大体三月であり、翌年まで空室にしておくのももったいないと、家主の厚意で飛び込み入居できることとなった。
本来なら身内の身元保証人が必要だが、家主である川添がよく知る福子が保証人になってくれた。その代わり学生証のコピー取られ、緊急時のために実家の連絡先も聞かれた。
何もなければ連絡しないと言っていた、川添や福子の言葉を信じたい。
「いい物件があってよかったわー。これなら太ちゃんのところまで自転車で通えるし、何かあったら私がすぐ行けるしね」
運転する福子はご機嫌だ。
現地で待っていた不動産会社の営業マンが、イケメンだったのが理由かもしれない。百八十センチ以上はあると思われる高身長に甘いマスク。口を開けば心地よく響く低音ボイス。営業マンらしく始終笑顔で対応してくれたうえ、カーテンを購入するのに困らないようにメジャーやメモ帳まで完備していた。
営業マンから名刺をもらった後、福子が何やら渡していたのが気になるところではある。まさか自分の連絡先ですかとは、保証人になってもらっている以上聞けない。