高菜は知っている①
空が茜色に染まっていく。ねぐらとしている山へ帰るのか、上空からはカラスの鳴き声が聞こえてくる。
街灯がつき、車はライトをつけ始めている。近くの飲食店からは、スパイスの効いたカレーのにおいが漂ってくる。
「お腹空いた……」
食欲を誘うカレーのにおいに、青田ひよりはお腹に手を当てる。丸一日、何も食べていない身にとって香辛料が効いたカレーのにおいは殺人的だ。ぐぉぉと、ひよりのお腹は猛獣の唸り声のような音を立てる。
向かいから歩いてきた大学生と思われる、若い女性と目が合う。おそらく、今の音は何なのかとスマホから顔を上げたところだ。ひよりは彼女から目を反らし、何もなかったかのように足早に通り過ぎる。
道を行くのは学校帰りの学生にサラリーマンやOL、買い物帰りの女性たちだ。どの人たちも血色がよく、充実した顔をしている。
「みんな、いいなぁ……」
充実した顔をしている人たちを見て、ひよりは視線を足元に移す。今年の初売りで買ったグレーのパンプスは履き古され、かかとがすり減っている。あろうことか、つま先がボロボロになっていることに昨夜気付いたばかりだ。
パンプスを買いなおさなきゃいけない。けれど、そのお金があったら当面の間は食べつなぐことができる。
ひよりは左肩にかけたビジネスバッグをかけなおす。右手には旅行用のキャリーバッグ、背中には通学で使っているリュックを背負っている。
これが今のひよりが持つ全財産だ。
キャリーバッグの中には大学の入学式で着たスーツとパンプス、衣類がぎゅうぎゅうにつめられており、入学式で使ったきりのビジネスバッグには大学の教科書や貴重品、リュックには歯ブラシなどの生活用品がパンパンに詰められている。
キャリーバッグに入りきらない冬のコートやセーターは着用している。おかげでちょっとした雪だるまのように着ぶくれして見えるだろう。頭には季節外れのニット帽をかぶっており、首には春らしい優しい色合いのストールではなく赤いタータンチェックのマフラーを巻いている。すれ違う人から、怪訝な視線を向けられたのは一度や二度ではない。
気恥ずかしさと着こんで暑くなったせいで、背中が汗でぬれて冷たくなっている。こめかみを伝う汗をコートで乱暴に拭う。
「汗が原因で風邪ひいたなんて、シャレにならないし」
夜逃げのような格好で、居候させてもらっていた友人の部屋を追い出されたのが昨日の午前中。荷物一式を抱えたまま大学へ行き、夕方に最後の晩餐として学食でカレーを食べた。雨が降っていた昨夜は、ネットカフェで一夜を過ごした。狭い空間で椅子に座ったまま寝たため、疲れはとれていない。それでも雨風をしのげる場所があることがあるのは、ありがたいことなんだと思い知った十九の夜。
「勾当台公園なら役所も近いし、不審者とかもいないよね」
金曜の午後五時、ひよりが目指すのは当面の宿泊先として見込んだ勾当台公園だ。
一応、年頃の女性であることを考慮して役所の近くをピックアップした。県庁や市役所、県警本部の近くであり、官庁街に不審者が現れることはないだろうと考えた。仮に自分が不審者認定されたとしても、定禅寺通りを挟んですぐ近くに錦町公園がある。勾当台公園でにらまれたら錦町公園へ行こうという腹積もりだ。
「寒っ」
ひよりは首に巻いたマフラーを口元まで上げる。
宮城県仙台市、暦の上は春でも杜の都に吹く春の風はまだ冷たい。ひよりの懐に吹く風は、さらに冷たい。
「あの」
寝床が見つかっても、スマホの充電をどうしようか。大学に行けば大学でできた友人とは連絡が取れる。
地元にいる友達は、ひよりの現状を知らない。ついでに言えば親も、だ。
とりあえず、バイトしなきゃいけない。連絡先としてスマホは使えなきゃいけないし、住所も問題だ。住所は友達のところを借りるとして……。
初めての路上生活、考えなければならないことは多い。
「落としてますよ! いや、落として歩いてますよ」
ふと聞こえた声に、何事かと振り返る。
振り向いた先には、エプロン姿の若い男性。童顔で柔らかそうな髪をし、ブラックジーンズを履いている。その手に持っているのは、歯ブラシセットと花柄のポーチだ。花柄のポーチには、ひよりも見覚えがある。雑誌の付録についてきたものを、友達からもらってメイクポーチとして使用している。歯ブラシセットの方も、ドラッグストアなんかで売っている一般的なものだ。歯ブラシセットのふたの部分はピンクであり、ひよりの物と同じだ。
カツンと足元で音がし、ひよりのかかとに何かが当たる。足元に目を向ければ、落ちているのはスマホの充電器。白かったものが使用年数経過とともに、所々黄ばんできている。
「これ、あたしの……。え? ちょっと待って!」
充電器を拾い、男性に顔を向ける。男性が持っているのは、もしかして自分の歯ブラシセットとポーチか。
恐る恐る、リュックの底に手をやる。手に触れたのは、明らかにリュックの触り心地ではないつるつるとした感触。その感触に沿って指を這わせていくと、今度は布地に当たる。
やっぱりリュックかと思い、指先に力をこめて布地を引っ張る。
ふいにリュックが軽くなる。
「あ……」
男性が口を開けたまま固まったと思えば、ひよりの背後でドス、カサッ、バサッと者が落ちる音が連続する。音がするうち何度かは、ひよりのふくらはぎに落下したものが当たる。
今度は振り返らずとも、リュックが軽くなったことからわかる。落ちたのは全部、ひよりのリュックの中身だ。
青田ひより、十九歳。家なし、彼なし、預金なし。持っているのはキャリーバッグとトートバッグに詰めこんだ衣類と教科書類、壊れたリュックと路上に散らばった日用品。
暑くてかいた汗は、滝のような冷や汗へと変わっていた。
古民家風のお店の前を通り、隣のビルとの間の細い道を突き進むと「水瀬」と表札が出ている。玄関のすぐそばには、京都の坪庭を彷彿させる庭があり、植物の緑が目に優しく映る。
わずかに線香の香りが残る室内はひっそりとしており、物音ひとつしない。人がいないせいか、空気もややひんやりと感じる。畳が敷かれた居間にはテレビとこたつ、毛布が二枚と座布団が置かれている。
テーブルの上には、なぜか海上保安庁のパンフレットが置いてある。海上保安官志望者がいるのだろうか。
「狭い家で申し訳ありませんが、どうぞ」
「いえいえ、ご迷惑をおかけしまして申し訳ありませんでした。すぐにお暇しますので」
お盆に急須と湯呑、柚餅子を持って現れたのは先ほど、ひよりがリュックの中身を路上にぶちまけた場面に立ち会ってしまった若い男性だ。年齢は二十代半ば、子犬のようなくりっとした愛らしい目をしていてエプロンが似合う。近くの保育所勤務の保育士で、ここは彼の実家だろう。彼は落ちたものを拾ってくれただけでなく、バッグがないひよりのために荷物を入れるエコバッグをくれた。
ひよりは水瀬家の居間で、落としたものをエコバッグとショップの袋に詰め替えた。底に穴が開いたリュックは、公園のごみ箱に捨てるつもりだ。
「行くあてはありますか?」
「えー、はい。ホテル予約してます」
観光客という設定で行こう。今日は午前中の講義だけで明日の土曜日、仙台で行われるライブのために東京からやって来た女子大生。いける。
「東京からですか?」
「は……」
はいと返事するのと、ひよりのお腹が盛大に鳴るのが重なる。声よりも、お腹の音が大きいのは音を発した自分が一番知っている。
「……どうぞ」
水瀬はほうじ茶と柚餅子を、ひよりの目の前に置く。食べ物を前にして、ひよりの口腔に唾液が広がる。昨日の夕方、学食でカレーを食べて以来の食べ物だ。食べたい。けど見ず知らずの人にこれ以上、お世話になるわけにはいかない。
断ろうと口を開くと、水瀬が立ち上がる。
「イクスカ持って、東京から観光に来たってのは無理がありますよ」
「へ……?」
なぜ、イクスカを持っていることを知っているのかと、ひよりは身を強張らせる。イクスカは仙台市交通局発行のICカード乗車券であり、バス・地下鉄およびスイカ利用可能エリアのJRでも使える。ひよりも愛用者の一人だ。水瀬を見れば、不愛想に顎でひよりの前に置いた茶碗を指す。
お茶を飲んだら答えてくれるってこと?
首を傾げると、茶碗の近くに見慣れたパスケースが目に入る。大学の入学祝いとして親友からプレゼントされて愛用している。水色に白のドット模様があるパスケースは、お財布・スマホと並んで大切なものだ。
「いっ……!」
そのパスケースを見て、ひよりの口元が引きつる。パスケースから見えているのは紛れもなく、イクスカだ。
せっかく親切にしてもらったのに、嘘をついていたことがばれてしまう。どうしようと悩むひよりの思考に反し、お腹は正直に空腹を訴えて鳴る。
「少しは腹の足しになると思いますよ。次、食事にありつけるか目途はあるんですか」
「……」
返事をする代わりに、お腹が控えめに鳴る。
「家出少女がいるって警察に通報……」
「それだけはやめて! なんでもします! お願いです!」
エプロンのポケットからスマホを取り出す水瀬に向かって、ひよりは頭を下げ、次いで土下座する。
警察から実家に連絡されたら、連れ戻されるに決まってる。閉塞的な田舎が嫌で、好きでもない勉強をして入った大学だ。大学進学に反対していた両親の元から家出同然で飛び出してきた。だから資金援助は一切なし。学費と生活費は奨学金とバイトでまかなっている。