九話
それから二週間ほど経ったある日、知理子が嘆きの表情で話しかけてきた。
「ねえ。谷口くんって女たらしだったんだってえ」
衣緒と雅美はすでに知っていたので驚かなかったが、佳苗は目を丸くした。
「谷口って……。あの谷口くん?」
「そう。運動神経抜群。女の子にモテモテ。勉強もできる、あの谷口くんよ。今まで、いろんな女の子と付き合っては別れ、付き合っては別れを繰り返してきたっていう噂が流れ始めてね。あたし、谷口くんのこと正義のヒーローって尊敬してたから、マジでショック。まさか女たらしだったなんてなあ」
「仕方ないよ。誰にでも欠点や汚い心はあるもんね。神様のように清い人間は、残念ながらどこにもいないんだよ」
雅美が固い口調で言うと、知理子は俯いた。
「あーあ。マンガみたいに素敵な男の子とラブラブな生活を送りたかったのにな。イケメンがいっぱい現れて、好きだって告白されて。知理子は俺のものだって奪い合いの喧嘩したり……」
「ないない。どこにイケメンなんている?」
雅美に聞かれ、知理子は教室の中をぐるりと見回した。そしてもう一度ため息を吐く。
「雅美ちゃんの言う通りだ。どこにもイケメンなんていないや」
「でしょ? もし出会えたとしても、谷口くんのように酷い性格の持ち主かも。始めから叶うわけない夢を望んじゃだめだよ」
「むうう。そっかあ……」
がっくりと項垂れて、知理子は目を閉じた。
放課後、衣緒は雅美を連れて『ミント・ルーム』へ行った。
「イケメンに好きだって告白されて、何が嬉しいの?」
「え?」
「知理子が言ってたじゃん。イケメンに、知理子は俺のものだって奪い合いの喧嘩したりって」
「ああ。衣緒ってマンガ読んだことない?」
「ないよ。いつも小説ばっかり」
「うーん……。うまく言葉では伝えられないけど……。まあ、とにかくかっこいい男の子に囲まれてちやほやされてお姫様の気分を味わいたいって感じ」
「ふうん。お姫様の気分ねえ。私は全く興味ないけど」
「衣緒は男嫌いだから、知理子が願ってる理由がわからないのかもしれないね。でも、あたしもイケメンに大事にされるのは憧れちゃう」
甘ったるい口調で雅美は微笑んだ。イケメンと一緒に過ごすなど衣緒には鬱陶しくてストレスが溜まりそうだが、雅美や知理子には至福のひとときなのだろう。
しかし、そのイケメンが新田亘紀だったら? ふとある思いが胸に浮かんだ。新田亘紀に愛されるなら、衣緒も幸せだ。彼が執筆している姿を見ながら家事をしたりお茶を飲んだり。小説を読んで感想を伝えたり、悩んでいる時は応援をしてあげたり。それなら、衣緒も至福のひとときになる。
「衣緒? どうしたの?」
雅美が覗き込むように見つめてきた。はっと我に返り、慌てて首を横に振った。
「ごめん。ぼうっとしちゃった。そろそろ行こうか。お母さんが心配する……」
「そうだね。本当は、もう少しおしゃべりしたいけどしょうがないもんね」
ゆっくりと立ち上がり、二人で外に出た。
家のドアを開けると、望海はすでに帰っていて髪をタオルで拭きながらソファーに座っていた。
「おかえり。どこかに寄ってたの?」
「うん。雅美とお茶飲みに」
「別にいいけど、あんまり暗い時間まで外歩いてると危ないよ。最近は痴漢とか変な奴がうろついてるからね」
「わかってる。大丈夫だよ」
「彼氏がいると安心なんだけどね。危ない目に遭っても、彼氏が助けてくれるでしょ? お母さんもお父さんに何度も助けられてるしお世話にもなってるよ。衣緒だって、お父さんと出会わなかったら産めなかったんだよ」
恋人を作れと命令しているようだ。むっとして首を横に振る。
「私、彼氏なんかいらない。彼氏なんかいなくても、自分の身は自分で護るよ」
「実際に襲いかかってきたら、衣緒一人じゃ勝てないよ。男と女の力はかなりの差があるんだから」
「それはそうだけど、逃げれば大丈夫でしょ」
「逃げたって捕まっちゃうよ。……ねえ、衣緒。お母さんの夢は……」
「夢なんて叶わないのが当たり前なの。いくら望んでも私の頑固は治らない。頑固な女を好きになる男の子もどこにもいない」
「どうしてそうやって決めつけるの? もしかしたら」
「じゃあ聞くけど、これまで生きてきて一度も告白されなかったのは? 私の容姿が可愛くないっていうのもあるけど、一人くらいは話しかけてきてもいいじゃない。恋人じゃなく、友だちになろうって」
「たまたまだよ。これから、そういう男の子が現れるかも」
「ありえない。残念かもしれないけど諦めて」
望海は深いため息を吐き項垂れた。なぜ娘がこんなにも融通が利かない性格なのだろうと顔に書かれていた。しかしこれは育て方を間違えたのではなく生まれつきなのだ。
これ以上ここにいても時間の無駄なので、衣緒も黙ったまま部屋に逃げ込んだ。本当は、こんなふうに言い争ったりする仲ではないのに。もっと暖かくて笑顔の溢れる親子なのに。彼氏という言葉が出てくると途端にぎくしゃくしたような雰囲気になってしまう。衣緒もムキになってはいけないが、谷口に騙されたマネージャーみたいに傷ついたり泣きたくはないので、つい反抗的な態度をとってしまうのだ。
しばらくして、望海の声が聞こえた。「お疲れさま」「お風呂沸かすね」と話しているので、父が帰ってきたのだとわかった。衣緒もリビングのドアを開く。
「お父さん。お帰りなさい」
「ああ。ただいま。……あれ? 泣いたのか?」
「え? 泣いてなんか」
「でも赤くなってる。学校で嫌な思いでもした?」
「ううん。そんなこと、全然……」
わけがわからず、洗面所へ行って確かめた。瞳が大泣きした後のように充血していた。望海を傷つけてしまった罪悪感が涙に変わって流れたのか。母親にとって最も嬉しいのは、娘が恋人と愛し愛されている姿を見ることだ。衣緒がどこかの誰かと付き合い、結婚して出産する。孫を抱きしめて遊んであげたら、天にも昇る心地になる。もちろん衣緒もわかっているし、どれだけ自分が親不孝な行為をしているのかも知っている。知っているが、頑固な心が彼氏を作るのはやめろと訴えてくるのだ。
噂とは、本当に驚くべき速さで広まっていく。谷口はこれまでファンだった子から最低男と呼ばれ、サッカー仲間からも白い目を向けられるようになった。大人しそうな彼女とも別れ、どんどん孤立していく。もちろん衣緒は励ましたり庇ったりするつもりはなかったし、自業自得だと考えた。やがて居場所がなくなった彼は転校を決意し、二度と再会しない存在となった。
「次の学校でもやるのかなあ?」
雅美がそっと耳元で囁き、衣緒は目が丸くなった。
「え?」
「女たらしよ。好きなだけ遊んで飽きたらポイ捨て」
「どうだろうね? 可愛い子がいたらやるんじゃない?」
「なんか可哀想な奴だったよ。谷口くんって。本気で愛する女の子が現れたら女たらしなんか絶対にしないでしょ。するってことは、愛する女の子が見つからないって意味だもんね。きっと、どこかには必ずいるんだろうけど」
そして雅美は黙り俯いた。どうしたら運命の人に出会えるのか全くわからない。出会ったとしても、すでに彼女と付き合っていたり、告白してもフラれる可能性も大いにあるのだ。はあ、とため息を吐いた雅美の瞳は、光が失っていた。
そっと視線を窓の方へ向ける。空はとても清々しく晴れ渡っていた。きっとあそこへ行けば、地上にいる新田亘紀も見つけられるのではないか。どんな顔でどんな姿でどんな話をするのだろう。気になって、最近は小説のストーリーが頭の中に入ってこなくなる。
「いつか……会えたらいいな」
ぼそっと独り言を呟き、衣緒も深いため息を吐いた。