五話
「衣緒、もう起きないと遅刻しちゃうよ」
望海に体を揺すられ、ゆっくりと目を覚ました。衣緒は朝が苦手で、こうして声をかけてもらわないとずっと眠ってしまう。うーんと唸りながら、深く息を吐いた。
「もう朝かあ。どうして学校なんかあるんだろう。しかも、かなり遠い場所に」
衣緒の家は駅からも学校からも離れていて、とても不便な位置に建っているのだ。そのため登校には電車を使い、就寝時間も起床時間も早めにと両親から厳しく言われている。
「しょうがないでしょ。それよりさっさと支度しなさい。今日は放課後に塾があるよね」
「うん。たぶん終わるの六時だと思うから、携帯で知らせるね」
「わかった。ところで、衣緒って本当に彼氏いらないの?」
質問され驚いた。
「彼氏?」
「うん。勉強も大事だけど、恋愛も大事だよ? せっかくの青春なのに」
「お母さん、私が男嫌いだって知ってるでしょ?」
逆に聞き返すと、望海は俯いた。
「その頑固すぎる性格、ちょっと治したら?」
「私の人生は私が決める。お母さんは口出ししないで」
少し冷たい口調で言い、外に飛び出した。
遅刻をしないように早足で道を進む。他人に気を配ってはいられないので、電車を降りる時に誰かの足を踏んでも謝ったりせず、そのまま学校へ走った。教室に入ると、雅美が近寄ってきた。
「おはよう。ずいぶんと息が上がってるね」
「まあね。家が遠いと苦労する……」
「しょうがないよ。そういえば今日って数学のテストだね。あたし自信ないや。衣緒は?」
「うーん。私もあんまり。そもそも数学って得意じゃないから」
「佳苗は数字に強くて羨ましいよ。あの頭ほしい」
「わかるー」
普段と全く変わらないおしゃべり。担任がドアを開き、散らばっていた生徒が着席して学校生活がスタートした。
昼休みに教室の隅で女子の集まりができていた。こっそり覗くとファッション誌に載っているモデルについてしゃべっていた。
「ねえ、このモデルかっこよくない?」
「最近出てきた人だよね。ドラマでも見るし」
「あたしもチェックしてたんだ。頼りがいがありそうだよね」
身近にいないモデルの話などどこが楽しいのかと辟易してしまう。いくら願っても恋人同士になれない人間なのだ。周りにいるのは平凡でぱっとしない男子たち。むしろそうやって夢ばかり追いかけていると、現実を知った時にとても傷つくのではないか。
「……それとも、まさか本当にモデルと結婚できるって信じてるの?」
そんな人がいたらぜひとも会ってみたいものだ。ふっと笑い、集まりから離れた。
放課後、帰り支度を済ませて廊下を歩いていると、いやらしい雰囲気が漂ってきた。ちらりと視線を移し、誰もいない教室のドアが少し開いているのに気付いた。慌てて昇降口に逃げて、不快な気持ちを消すために首を横に振った。
「自分たちのやってることがわからないの? やめてよ。他の場所でやってよ……」
独り言を漏らしても届かない。嫌気がさして、真っすぐ塾へ向かって走った。
塾はさらに遠い場所にある。やっと着いて鞄から教科書などを出していると、横に座っている子が声をかけてきた。
「ねえ、上村さんってとっても可愛いけど、モテるの?」
「え?」
「ずっと気になってたの。彼氏いるのかなって。もしよかったら教えてくれない?」
突然の質問に驚いたが、首を横に振って即答した。
「モテないし彼氏もいないよ。男嫌いなんだよね」
「男嫌い? ええ……。もったいないよー。どうして嫌いなの?」
「だって、みんなチャラくてエロくて最悪じゃん。恋人探すなんて時間の無駄だって思わない?」
「時間の無駄……。へえ。ちょっと意外」
「生まれつき頑固なんだ。家族からもクラスメイトからも頭固すぎってよく言われるんだ」
「じゃあ彼氏いらないってこと?」
「うん。彼氏がいなくても死ぬわけじゃないし。大体、こんな頑固な女と付き合いたい人もいないでしょ」
「めちゃくちゃイケメンで優しい人でも?」
「めちゃくちゃイケメンで優しい人なんかどこにもいないよ」
すると講師が部屋に入ってきた。そこで口を閉じ勉強に集中した。
そう。彼氏なんかいてもいなくてもどうだっていい。恋人を作らないと半人前なんて決まりはないのだ。しかし、どこに行っても恋人の話ばかりだ。もっと大切なことはいっぱいあるのに。少しイライラしながらも授業は終了した。外に出て望海に電話をかける。
「すぐに行くね」
「わかった。ありがとう」
短く返し、携帯を鞄にしまって夜空を眺めた。この世界に、先ほど聞いたイケメンで優しい男が存在するのか。いたとしても衣緒の前に現れるわけがない。こちらが頑なに避けていたら、相手も近寄ってきたりしないからだ。はあ、とため息を吐くと望海の車が見えた。
「遅れちゃってごめん。道が混んでて」
「待ってないよ。ああ……。何か今日はやけに疲れたなあ……。学校で難しい数学のテストがあってね。早くお風呂に入りたい」
「そうなの。衣緒が得意なのは国語だもんね。さっさと寝ちゃった方がいいね」
うん、と素直に頷いたが、実は新田亘紀の本を読もうと考えていた。ストレス解消には、あのラブストーリーが一番適している。家に帰るとリビングではなく洗面所に向かった。
十一時にベッドに潜り込んだが、まだ眠る気はなかった。枕の横に置いてある電気スタンドを点け、こっそりと本を読んだ。やはり新田亘紀のラブストーリーは衣緒の心を癒し安らぎを与えてくれる。どんどん物語に入り表紙が閉じられない。はっと時計を見ると何と三時になっていた。完全に寝不足だ。起きられなかったら大変だと慌てて目を閉じた。