十六話
「はあ、暑いねえ」
下敷きをうちわの代わりにしながら雅美が声をかけてきた。それもそのはず。すでにカレンダーは七月になっており、うだるような暑さが衣緒たちに襲いかかる。
「地球温暖化のせいだね。大事な自然を人間たちが壊したから、地球が怒ってるんだよ」
「でもさあ。あたしは壊してないのに」
「仕方ない。みんなも我慢してるんだから」
衣緒の高校にはクーラーはあるのだが、古くて全く効かない。むしろ熱風が流れてくることもある。生徒は買い直してほしいと言っているが、教師は聞く耳持たずだ。
しかし夏休みになってしまえば毎日クーラーの部屋で過ごせるので、それまでの辛抱と考えている。汗でイライラはするが、もう慣れるしかないのだ。
驚くべき出来事があったのは、それから一週間が経った日曜日だった。『ミント・ルーム』で雅美とお茶を飲んでいた時だ。
「ところで知理子、早乙女くんについて新しい情報掴んだみたいだよ」
「え?」
「あたしも気になってるんだけどね。写真が手に入ったのかな?」
「じゃ、じゃあ今から知理子の家に行こうよ。早く聞きたい」
にっと雅美は笑い、面白がっている表情になった。
「おやおや? 衣緒が男の子に興味持つなんて意外だなあ。もしかして惚れた?」
「惚れてはいないよ。というか名前しか知らないのに、どうして惚れるのよ」
「初恋の相手になるかもしれないね」
「初恋もないって。私はやっぱり、恋人ほしくないから」
そっと目を逸らし答えると、雅美も口を閉じて立ち上がった。それより知理子の元へ行って、新しい情報を教えてもらわなければ。二人で家に向かいインターフォンを押す。
「あれ? 衣緒ちゃんと雅美ちゃん。どうしたの?」
「早乙女くんの情報って何?」
「写真が撮れたの?」
身を乗り出して質問したが、知理子は深いため息を吐いた。
「それがねえ。あたしが探してたのは、本物の早乙女くんじゃなかったの」
「本物って?」
「なりすましというか、自分が早乙女創汰だって言いふらしてる男の子がいて。皇誠の女の子も偽物からサインもらったりプレゼント渡してたのかって、めちゃくちゃ怒ってるみたい。酷いよね」
まさかこんな情報だったとは。がっくりと項垂れると、雅美も同じく俯いていた。
「偽物が見つかっただけ……」
「ごめんね。有力な情報じゃなくて」
「知理子は悪くないから、謝らなくていいよ。けど、どうしてその偽物、今までバレずに騙せてたんだろう? 本物の早乙女くんは、やめてほしいって思わなかったのかな?」
勝手に自分の名前を使われていたら誰だって嫌になるだろう。おまけに偽物は女子にちやほやされ楽しく過ごしてきたのだ。
「……始めから、早乙女創汰なんて人いないんじゃない?」
雅美が固い口調で話した。衣緒と知理子は驚いて顔を見合わせた。
「いない?」
「架空に作られた人ってこと?」
「そう。偽物がいても、本物が存在しないから怒られたり止められたりしなかった」
「でも雅美ちゃん。わざわざ架空の人なんか作るかな? 作ってどうするの? ただの暇つぶし?」
「さあ。わからないけど、あたしはそう思う。知理子も、これ以上続けても無理だから早乙女創汰探しはやめたら?」
「ええ……。せっかくイケメンに出会えるって期待してたのに。だけど架空の人じゃ時間も無駄になっちゃうよね。よし、わかった。もう早乙女くんのことは諦めるね」
はっと知理子に視線を向ける。それでは衣緒の胸の中にある悶々とした気持ちが晴れない。しかし二人は完全にすっきりとした表情をしていた。
「ま、待ってよ。雅美、知理子」
掠れた声で呟いたが、耳には届かなかった。
あともう少しで謎の男子の正体が明らかになりそうだったのに。彼は早乙女創汰なのか違うのか、答えが解けそうだったのに。とんでもない結果で終わってしまった。衣緒の胸のノイズは、さらに大きくいつかの轟音のように鳴り響いた。佳苗も早乙女の名前を忘れたようで、普段通りの生活が始まった。衣緒だけが、いつまでも暗く沈んでいた。
やがて、衣緒も記憶から早乙女創汰が薄れてきた。だんだんと雅美の言葉が正しいと感じるようになった。ただし謎の男子は未だに脳裏にこびりついて離れない。何より衣緒にとっては命の恩人でもある。あの時、彼が助けてくれなかったら死んでいたのだから。
「というか、どうして助けてくれたんだろう」
他人のことなんかどうだっていい。トラックが迫っているのに逃げなかった自分が悪いと呆れるだけではないか。もしかしたら交通事故など見たくないと体が無意識に動いたのかもしれない。誰だって人が死ぬ場面はショッキングだからだ。
「あっ。そういえば今日、新作の発売日じゃん」
はっとした。大好きな新田亘紀の小説。現在読んでいる本は終わっていないが、放課後に本屋に寄ることにした。
駅前の本屋は客がたくさんいた。広くていつも大勢の人が利用しているのは衣緒も知っている。すでに本はなくなっており、ため息を吐いた。
「売り切れかあ。読みたかったのに」
がっくりと項垂れると、背中から声をかけられた。
「新田亘紀だよね? まだ棚に残ってたよ」
驚いて勢いよく顔を上げた。くるりと振り向いたが、誰もいなかった。
「ど……どこに……」
体が震える。明らかにあの夜聞いた声だった。低めで女の子慣れした親し気な口調。急いで店内を駆け回った。真後ろから聞こえたのだから、絶対にそばにいるはずだ。しかし中は広いし客も大勢いて、それらしき姿はどこにもない。三十分ほど探して、仕方なく諦めた。
謎の男子が話していた通り、棚には本が置いてあった。大事に胸に抱いて購入し外に出る。
帰り道を歩きながら、ある疑問について考えた。なぜ衣緒がわかったのか。あの夜周りは真っ暗闇で、お互いに相手の顔や姿は全く見えなかった。まさか声だけで気づいたのか。そんなことは超能力でも持っていない限りありえない。さらに好きな小説まで知っていた。新田亘紀のファンだと教えたのは雅美だけなのに。
「こ……怖いっ」
ぶるっと寒気がした。とりあえず新田亘紀の新作は手に入ったし、このまま家に帰るだけだ。
ドアを開けると、望海が玄関にやってきた。四角形の袋を差し出す。
「はい。これ、新田亘紀の新作。買っておいたよ」
「え? もうあったの? 私、買ってきちゃったよ」
「あらら。同じ本二冊になっちゃったね。クラスメイトに新田亘紀が好きな子いない? もしいたら、その子にあげれば?」
雅美はマンガが好きだと言っていた。佳苗と知理子は本に興味がない。
「うん。そうだね」
曖昧に答えた。いつか渡せる人が現れるといいが。