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十二話

 このまま普段通り過ごしていられると信じていたある朝、突然事件が起きた。塾について衣緒が言うと、望海は困ったような表情をした。

「ごめん。急に仕事の予定が入っちゃったの」

「ええ? そうなの?」

「衣緒の塾の送迎があるって断ったんだけど、どうしても来てほしいって……」

「そんな……。塾から家に徒歩で帰ったら、軽く二時間はかかるよ」

「まあ、運動だと思って。大好きなケーキ買ってくるから」

 そして望海は視線を逸らした。諦めて、衣緒はゆっくりと制服に着替えた。

 いつまでも食べ物を与えれば文句を言わないと考えているようだが、大きな勘違いだ。ケーキなんかで騙されない。仕事だから望海を恨んだり憎んだりはしないが、ケーキ一個しかないのはむっとした。学校と塾で疲れた体で二時間歩かされるこっちの身にもなれと不満でいっぱいだ。ため息を吐きながらテレビをつけると、さらにどんよりするニュースがやっていた。夕方頃から雨が降るかもしれないと天気予報士が話していた。

「……雨か……」

 なぜ嫌なことのすぐ後に、また嫌な出来事が待っているのだろう。ただし、かもしれないと曖昧なので夜に降る可能性も充分あり得る。玄関で傘を持ち、「行ってきます」も言わずにドアを閉めた。

「おはよう、衣緒」

 昇降口で靴を履き替えていると雅美が近寄ってきた。衣緒もにっこりと笑って即答する。

「おはよう。朝から曇ってて気分悪すぎ」

「ね。もしかしたら夕方から雨降るかもしれないんだって。あたし、お母さんに車で迎えに来てってお願いしちゃったよ」

「……よかったね。私はお母さんも仕事してて、そういうの頼めないんだよね」

「え? なら、あたしの車に乗っていく?」 

 暖かな言葉に頷きかけたが、塾があるのだと首を横に振った。

「ありがとう。でも大丈夫。歩いて帰れるよ」

「遠慮なんかしないでよ。それに衣緒は家が遠いんだから」

「遠いけど平気。意外と体力あるんだよ。私」

 ぐっと拳を作る。安心したのか、雅美は「わかった」と頷き、歩いて行った。

「……優しいなあ……」

 女の子にはいじめられた経験はないし、これからもないはずだ。衣緒も、ぱっとああいうセリフが言えるようになりたい。仲のいい友人だけではなく赤の他人にも気遣う心を持ちたい。けれど頑固な性格なので、なかなか難しいのだ。

 授業を受けながら、衣緒はずっと雨は夜に降るようにと祈っていた。しかしその願いは神には届かず、昼休みには静かな雨が降り始めた。

「やっぱり車に乗っていってよ。友だちなんだから遠慮なんて」

 もう一度雅美が言ってくれたが、すぐに断った。



 学校生活は特に問題なかったが、その後に恐ろしい出来事が待っていた。塾が終わって外を歩く。雨はそれほどでもなかったが、予想以上に風が強かった。横殴りの激しい風に体があおられる。視界も悪いため、まっすぐ進むことすらできない。途中で傘が壊れ飛んで行ってしまった。

「あっ。ちょっ……ちょっとっ」

 慌てて追いかけるが、どんどん前へいってしまう。全身が雨に濡れて鉛のように重い。

「もう……。びしょびしょ……。やっぱり雅美の車に乗せてもらえばよかった……」

 悔やんでも遅い。その状態のまま、ただ傘を探しに歩いていく。

 やがて衣緒は来たことのない場所にたどり着いた。実際には知っているかもしれないが、真っ暗闇でしっかりとわからない。人の気配がしないのがやけに不気味だ。

「誰か……いないの?」

 呟くが返事はない。風が強く吹いている音だけだ。

 さらに遠くからあの音が鳴り響いた。どしんどしんと、巨大なものが転がっているような轟音。

「油断してると危ないよって警告してるんじゃ」

 雅美の言葉が蘇る。まさか、まさか、これは……。

「正夢?」

 ガンっと近くの木に何かが当たった。「うわあっ」と目をつぶり、勢いよく走って逃げた。しばらくして立ち止まり、荒い息を落ち着かせた。

「ほ、本当に……。意味があったなんて」

 衣緒も佳苗と一緒だったのだ。夢に意味なんかあるわけがないと考えていた。それなのに現実に起きている。

「か、帰ろう。傘なんて……また」

 歩き出そうとすると、眩しい光がこちらに向かってきた。二つの丸い光。黒くて四角い物体。それが大型トラックなのは衣緒にもわかった。轟音の正体は、これだったのだ。早く逃げないとと頭の中では焦っているのに指一つ動かない。私、この歳で死ぬんだ……という諦めに似た気持ちが浮かぶだけだった。もっといろいろな経験をしたかった。頑固すぎて、親不孝なことをしてきたからバチが当たったのかもしれない。死んだら、みんな悲しんでくれるのかな……。さまざまな想いが一瞬のうちに駆け巡る。

「……そうか。あの夢は、私がもうすぐ死ぬんだって伝えてたのか」

 なぜか笑みがこぼれる。たった十六年だったけど、いい友人にも両親にも恵まれ、とても幸せな人生を……。

 いきなり腕を掴まれ勢いよく引っ張られた。目の前をトラックが通り過ぎるのが、スローモーションのように映る。そして思い切り後ろに倒れた。

「おっ……。おまっ……。お前っ」

 男子の声が聞こえてきた。動揺しているのか、かなり震えている。はっと衣緒も振り向いた。

「え?」

「あっ……危ないだろっ。どうして逃げないんだよっ」

「どうしてって」

「トラックが走ってきてるの、気づかなかったのか? もしかして耳が聞こえないのか?」

「聞こえるけど……」

「じゃあ逃げろよっ。ああ……。びっくりした……。俺まで心臓止まるかと思った」

「あ、あの……。あなた誰なの?」

 真っ暗闇なため顔は見えない。声は割と低めなので、たぶん同い年くらいだとイメージした。ふう、と息を吐き謎の男は答えた。

「……俺の名前が知りたいの?」

「いや……。別に」

「教えてあげてもいいけど、代わりに君の名前も教えてくれる?」

 どきりと冷や汗が流れた。初対面の人に自分のことを簡単に話してはいけないのは、幼い頃から決めている。ぶんぶんと首を横に振って断った。

「私の名前は言えない……」

「どうして? ぜひとも聞かせてほしいな」

 知ったらどうするのか。ストーカーでもするつもりなのか。もう一度固い口調で言う。

「助けてもらって失礼だけど、それは絶対に無理なの。どうもありがとう。じゃあ私はこれで」

 相手が返事をする前に、さっさと全力疾走して逃げた。壊れた傘はどうでもいい。また新しく買えば済む。

 普段は二時間だが、雨と風で帰宅したのは三時間後だった。濡れた制服を脱ぎ、シャワーを浴びる。風呂から上がるとドアが開いた。

「衣緒、ごめんね。はい、約束のケーキ」

 テーブルに白い箱を置いた望海の顔を見て、じっと睨みつけた。

「お母さん。お酒飲んできたでしょ」

 用事とは、仕事ではなく飲み会をしたかっただけだ。娘の送迎より自分の遊びの方を優先する母に、むっとした。

「飲酒運転してきたの?」

「それはさすがにしてない。警察に捕まっちゃうし」

「……私ね。お母さんがお酒飲んでる時に」

「いつも忙しくしてるんだから、たまには息抜きさせてよお。はあ、おいしかった。やっぱりお酒って最高よね」

 余韻に浸っている。衣緒はあんなに恐ろしい目に遭っていたというのに。風呂に入った後そのまま眠るつもりだと直感し、仕方なく夕食は衣緒が作る羽目になった。

 予想した通り、風呂から出ると望海はソファーの上で熟睡した。衣緒は部屋で小説を読み、しばらくして父の朋洋ともひろが帰ってきて玄関へ行った。

「お父さん、おかえり」

「ただいま。お母さんは?」

「お酒飲んじゃってて。朝まで起きそうにないね」

「そうか。仕事で疲れてるし、ストレス発散も必要だな」

 朋洋は温厚で優しい性格だ。怒った姿を見たのは数回しかない。しかし、こうして酒に酔って寝ている望海を叱ってもらいたかった。娘の送迎もせず飲み会に行くのは間違っていると、一度でいいから怒鳴ってほしい。

「それにしても酷い雨だね。お父さん、水たまりに入って転びそうになったよ。衣緒も怪我しないように充分気を付けるんだよ」

 トラックにひかれそうになったことが頭に浮かんでいたが、心配をかけたくないので隠しにっこりと笑った。

「もちろんわかってるよ。先にお風呂であったまってきて。私、夜ご飯用意しておくから」

「すっかりお姉さんだね。ありがとう」

 褒められて嬉しくなった。望海に褒められるより、朋洋に褒められる方が気分がいい。洗面所に行ったのを見て、衣緒も料理を始める。望海の真似でしかなかった家事が、いつの間にかしっかりとできるように成長していた。やはり女は家事が一人前にできないと将来困るだろう。結婚した時、相手から嫌われたり馬鹿にされるかもしれない。

「結婚か。私が結婚なんて……。考えられないや……」

 新田亘紀のように、心が綺麗でチャラくもエロくもない男はこの世にいるのか。あんなラブストーリーを書ける人。周りにはいない。

 ふと先ほどの男子が浮かんだ。あの男子はどういう性格なのだろう。顔も姿もわからないので、衣緒には想像もできなかった。


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