アンゴルモア備忘録 ー天よりー
こんにちは幼稚園の敷地は、それほど大きくはない。では、どのくらい大きくないかと言えば、あなたが今から想像する象の大群を収容した、錆び付いた鉄格子と、糞尿や藁の無造作に置かれた宿舎を備え、向かいの檻にはチンパンヂーがひねもす泣き叫ぶ動物園よりは小さい。象の大群は数匹。数匹というのは十匹はいないのであって、匹とすると小象に思えるから、やっぱり五頭。園児らは巨大な牙を眺めているようで、ひび割れた灰色の肌のおうとつにため息を漏らしているのかも知れないし、鼻をほじるものもあれば、風の軌跡を落ち葉の揺れに見ているものも様々である。
父山は上背のある男で、二度に渡る住居侵入及び強盗強姦事件で起訴されていた。動物園は父山の暮らした郷里に遠くなく。実家から車で半刻もかからない。曲がりくねった坂道。山の麓からやってくると観光客たちは銀色に光るクヌギの幹や、似たようなナラの林立に囲まれるだろう。木々の間隙の向こうから漂う水の香りと、蝉時雨に包まれるようにして船舶を模したラブホテルが樹海を放浪している。
ベッドのシーツはソフトクリームの形に渦巻いていて、その中心に裸の美しい人がいる。宝石を眺めて美しいと感じたことがあるならば、紅い唇に額から垂れる髪を含む女を重ねないはずがない。事実女は隣県での撮影に嫌気がさして、その理由は頼んでおいたはずの木製のストローがなかったからという、至極単純なものなのだが、流石は苦節十年かけて芸能活動に勤しんできた女優ならではのプライドがマネージャーの失態を許さなかったわけで、だからラブホテルの一室にぽつり。
すりガラスで誂えられた窓を、女は開けようとする。
「鳥がいるの」
いないよ。とボクは飲みかけのビールで喉を潤す。ビールってこんなにも不味かったかなあ、なんて、そりゃあ昨晩から放置っていたから仕方ないのだけれど、炭酸が抜けていた。
鳥がいるの。「いないさ」ボクはシャワーを浴びにバスルームへ駆けこむ。薄い水の膜がはった床に足を取られかけて、咄嗟に手摺を掴もうとした。そこに手摺がなかった。空中で仰臥した体は、制御の権利を空気中の分子に委ねることとなる。
机の角に頭を叩きつけると、痛い。あなたも経験したことがあるに違いない。トイレの便器にぶつけても、頭は痛くない。痛みを通り過ぎると、寧ろ心地よい。そして心地よさをも超越した。聞き慣れない音を不審がってくれることのない美しい人は窓から首を出して朝に目を細める。
青空の下に手をかざし、持っていたコーヒーカップを逆さまにする。飛んでいたカラスが避けると、茶色い飛沫が地面に当たって砕けた。芋虫の半殺しを運んでいた蟻たちは沈み、当然芋虫も死んだ。
父山は恰幅のいい男で、放火の容疑をかけられていたし、本当は放火殺人なのだが表沙汰になっていない。海岸沿いに停められていた車は白く、鍵がついていた。波打ち際を犬が走っていた。繋がれたリードを握る飼い主は舌をだらしなく左右に振っている。その瞬間に、殺してやろうかな、と父山は思った。
なぜなら遠い沖にタンカーが、朧気な水平線を横切っていたからだ。頭上でウミネコが鳴いた。にゃあ、と鳴いた。
タイヤがドングリを潰す度に父山は笑う。カエデにぶら下がる猿がいる。白い車を道路の真ん中に置いて、にゃあ。父山の笑みに動揺したらしい猿は崖から身を翻して消えた。
犬と、鳥と、猿。父山は侍になったような高揚を覚えていた。こんにちは幼稚園の一行が象の檻にかぶりつく。
「こんにちは」
誰彼構わず挨拶をする園児たちの中に、奇妙な鬼が混じっている。一直線に揃えられた前髪の下で、栗色の瞳が象の尻を映していた。リンゴを自慢の鼻で受け取り咀嚼するオスを間近で観察する振りをして、父山は鬼の背後につけた。
名札には「鬼頭」と書かれている。桃組のものだ。「鬼頭」は四頭身のメスで、勧善懲悪月光娘ないし、可愛い恋人にそっくりだった。とどのつまりアニメの化身となるが、父山は脇の下に汗が流れるから、勘違いではない。円らな瞳には象の肛門が映った。興奮がエクスタシーに達すると、父山は汗が出る。
猿の檻の奥に喫煙所があって、プールが備え付けてあるシロクマのブースはアクリルガラスで隔てられていてもなお巨大な体躯に吐息する臨場を味わうことができる洞窟を抜けて、マフラーを幾ら上手に撒ける達人でも舌を巻いてしまうエメラルドツリーボアやボールパイソンに後ろ髪引かれながら、
「なんさい」
ぎこちないピースは親指、人差し指、中指の三本で構成されていた。
「なまえ」
みい。助手席に乗せたところで「鬼頭」みいが名乗る。エンジンをかけると、煙草を馴染ませたフィルターから冷風が吐かれる。「鬼頭」みいは顔色を変えない。小さくなっていく動物園をバックミラー越しに見ている。
退屈しないように、父山はダッシュボードの雑誌を渡す。閉経パラダイスは父山のお気に入りだ。パラパラと紙が捲られる音がして、無表情の「鬼頭」みいが咳払いをした。
山の勾配は大きく、整備不良の車はブレーキが死んでいたので、サイドブレーキを駆使する。借り物だから文句は言えない。
土砂崩れ防止のコンクリート塀に苔生。ガードレールはところどころ道の外側に傾いている。電話ボックスは、そんな場所にある。
「おや」
首を傾げる「鬼頭」みい。親の電話番号が分からないのだろうか。三才ってそうらしいと合点がいった父山は再び「鬼頭」みいを小脇に抱えて車に戻った。
酷く痩せると頬がやつれる。父山よりも骸骨じみた「鬼頭」みいのスカートを捲ると、膝から腿の付け根まで、青あざが連なっていた。
「けが」
赤いのも黄色いのもあった。できたばかりの痕跡に触れようとすると対向車のクラクションが響いては消えていった。殺してやろうかな、と思うつもりが「鬼頭」みいの黙しているのが切なくて、父山は鼻をほじった。
鼻くそをバックミラーにつけると糸を引いた。それでも「鬼頭」みいは笑わない。麓の街に降りた父山は、大手ハンバーガーチェーンのアルファベットが宙に鎮座しているから腹が空いてセットメニューを頼む。ドライブスルーの応対に出た面妖は首と顔の色が全く異なる更年期ババアだった。ナゲットの匂う袋を預かると、更年期ババアは呆気に取られている。
国道の赤信号を無視して交差点を突っ切った。ババアの手のひらにはゴキブリの頭を置いてきた。虫は独立した脳を持っているので、頭だけでもヒクヒクしていた。ヒクヒク、ヒクヒク。
ゴキブリの真似をしても凍った顔は動かない。壊れた玩具のような「鬼頭」みいに対して、ふいに怒りがこみ上げた父山が拳を向けたら笑った。
天使の微笑みで、父山を射る。殴ろうとすればはにかみ、止めると表情を失う。物欲しそうに、ねだることはない。ただ、とても嬉しそうに殴られるのを待っている。
「いえは」
電話番号に続いて住所も分からない「みい」にナゲットの箱を渡す。痩せた「みい」は嚥下できそうもない。腕の皮は骨の輪郭を露にしている。脂のない唇は夏の暑さに負けて割れていた。
退屈しないように、父山はこれまでの人生を吐露する。今から遡ること三十余年、北海道はススキノ。
「段ボール。湿った。雪。ぼやける。視界。真っ暗。夜。赤い。ビル。六階。女。三階。男。屋上。パトカー。パトカー。パトカー。救急隊員。雪。溶ける。にゃあ。親父。背中」
指先の痺れがおさまらない。やむを得ず座席の下からポリ袋を探す。少しだけ残っていた。湿気た破片。
中国人のコウとは仲良くできていたのに、あいつが別な男と歩いていたのをたまたま目撃しなければ、きっと今も仲良くできていたのに。
高校二年生のときに、ハーフのリュウと遊んだ。彼女は昼間に父山を呼んだ。昼のネオン街はゴミが風に飛ばされていた。螺旋階段は半分曲がっていた。二人は構わず駆け上がった。
リュウの母親が酒をつくる机には、灰皿とコップがのっていて、赤ら顔の禿げた男が寝ていた。
カラオケが無料でできることが嬉しくて、父山はリュウと声が枯れるまで歌い、ブランデーを瓶に口をつけて飲んだ。いつの間にか禿げた男は姿を消しており、代わりに恍惚とした舌なめずりを繰り返すリュウが俯せになっていた。
水色のワンピースの裾が乱れて、白い肌が艶かしかった。当然父山は勃起した。リュウの黒髪を撫でていると、微睡みの扉が開いて、タコとイカを合体させた宇宙人が手招きをする。
抗えない眠気に、父山は焦った。急いては事を仕損じるとは妙なる言葉通り、父山は失敗した。なにもかも失敗していた。
ガラスの粉々になった工場跡地に着いたら、潮の香る浜辺が見渡せた。マストの折れたフォークリフトが横転している。地面と水平なタイヤに腰かける「みい」のおかっぱがなびいてキラキラ光る。
「みい」の手を引いて、工場の奥へ足を運ぶ。瓦礫を跨ぐ。瓦礫とは、ガラクタだ。バール、ラチェット、長靴、コンドーム。
バールはガラクタではない。中学生時分、寝ている両親のまぶたに叩きつけたときの感触を忘れてしまった。ラチェットはガラクタではない。卒業式でバイクのマフラーに突き刺したまま先輩は田圃に落ちて死んだ。
長靴とコンドームもガラクタではない。つい先日使ったばかりだ。
足の折れた事務机と壁に挟まれた鉄扉に手をかける。父山は畳敷の和室に立った。
「いいか」
台所に包丁を戻して振り向くと、少女は頷いた。次は幼稚園に行くか、それとも警察署に行くか、父山は迷っている。
捜索願いを提出した親戚や、ニュースを目にしたテレビの前のみんなにも顔を見せなくてはならない。ネットに今日の出来事をまとめるやつにも、拡散されたそれを目の当たりにするやつにも会わねばならない。
いつか父山が世の中の鬼を退治したら、この少女は「みい」でなくなる。生まれて初めて獲得する名前を、父山が何にするのか、ボクは楽しみでならない。
そう思えば、シャワールームでひっくり返って便座に当たったことなんて、痛くも痒くもない。最高のエンターテインメントショーの始まりから終わりまで、味わい尽くそう、そうしよう。
(了)
父山になれる
みいになれる
ボクになれる
園児にも、先生にも
誰にでもなれる
ということを言いたいわけではなかったり