外伝15 辺境伯領 5
「ここは空気が悪いですね」
唐突にアーサー様が沈黙を破る。
「レディ、参りましょう」
「おい、アーサー!」
鋭い声で呼び止めるグエンダイク様を無視して、笑顔のままアーサー様は優しく私の手を取りテラスまで連れていってくれる。
一気に肺の中に新鮮な空気が入ってくる。
「勝手に連れ出すな!!」
怒鳴りながらグエンダイク様が追いかけてくる。
「代理は?」
「床に転がしてる……くそっ」
どうしたのだろう。
飄々としたアーサー様とは反対に、グエンダイク様は怒っているというよりは、どこか焦っているようにも見える。
彼と目が合った。
「――……嬢ちゃんは、血の魔術を知っているか?」
「いえ、魔術の授業は選択しておりません」
私の言葉に彼は変な顔をした。
想定外の返答だった、という顔だ。
「なら、『森の中で迷ったら指を切れ』というのは?」
古いおまじないだ。試したことはないけれど。
「今日ではまじないレベルまで落ちちまったが、実際には魔術だな。原始の」
「原始の魔術?」
「ああ。別に森の中でなくても構わねえが、嬢ちゃんは血を流して不思議な体験をしたことはないか?」
「血を……?」
そう言われて思い浮かんだのは地図に注がれた光、あれこそまさにそうではなかっただろうか。
「その顔は心当たりがありそうだな。そういうこった。迷子に道を指し示す、その程度の小さなものだ。必要なものは少量の魔力を帯びた血と適した草や石で、大したもんじゃねえ。そういう力は総じて、古代語で<神々の小指>と呼ばれた」
「「奇跡」の語源ですね」
「そうだ。大きな術ともなると大量の血が必要になるし、非効率でもある。魔術と魔法の研究が進む中で廃れていったものの一つだ」
それがどうしたのだろう。なぜ、急にそのような話をするのだろう。
いや、今、関係のない話などする訳がない。
思い出すのは夢の中の会話、それに先ほどの話。
「……それが地下で行われていたのですか? 辺境伯家が魔力を取り戻すために? 血の魔術とは具体的にどのようなことをするのですか?」
あの雨の日に強く上がってくる、肉が腐る直前の甘くすえた臭い。
グエンダイク様は地下で何を見たというのか。
血族結婚で血を強めても取り戻せなかったもの。それを手にするために辺境伯家は何を――。
突然私たちの頭上で音、いや金属をこすり合わせたような鳴き声が響く。
「緊急連絡?」
グエンダイク様がコインを上空にトスする。
すぐにコインを咥えた<鳥>が舞い降りてきた。
伝書の鳥はくるくると満足げに喉を鳴らし硬貨を一呑みしてから、おなかのポケットより前ビレを器用に使って文を差し出す。
手紙を見たグエンダイク様が苛立たし気に舌打ちする。
「へましやがって。……弟が亡くなったのがバレたそうだ。奴が、見張ってた屋敷から姿を消した」
ふと影が差したように感じ、私は見上げる。
厚い灰色の雲に覆われた空には何もない。
「気のせい……?」
いいえ、気のせいではない、と何かが告げている。
「レディ、どちらへ?!」
駆け付けた部屋の扉は開いていて、やはりベッドの傍らには彼が佇んでいた。
弟の手を取るでもなく、声をかけるでもなく、ただ傍に立って見下ろしている。
どのような手段を使ったのかは分からないが、無理を押してきたのだろう。ただでさえ白い肌は血色が悪く蒼ざめていて、随分とやつれている。
息も乱れているようだった。
「……あ、あの」
彼がこちらを向く。その顔に表情はない。
私が見えていないかのように、ふらりとそのまま部屋を出て行ってしまう。
追いかけようとして、グエンダイク様を呼んでくる方が先かと迷う。
その逡巡の間に、階下から叫び声が聞こえた。女性の悲鳴だ。
辺境伯の書斎の前に使用人が集まっていた。皆こわごわと中を窺い、目を背けている者もいる。
その部屋から時々くぐもった音とも声とも知れぬものが上がる。
中には、辺境伯代理と思しき人と彼がいた。思しきと言ったのは、それがもう顔が血だらけで元の面影は片鱗もなかったから。
床に横たわる代理にまたがって、彼は殴りつづけている。
殴られる度に神経の反射か、代理の体がビクンと震えるのがおぞましい。こぶしをふるう度に、血が飛び、えぐれた肉から粘着質な音がする。
それでも彼はただただ殴り続けている。
「おやめください!」
「嬢ちゃん、もう無駄だ!」
とめようとした腕をつかんで引き戻される。
グエンダイク様は険しい顔をして彼をにらんでいる。
「ああなったら終わりだ」
「終わりって、何が……」
「大丈夫だ。俺は慣れてる。できるだけ苦しまないように、終わらせてやれる」
「何を言って……」
突然の咆哮にさえぎられる。
何とも形容し難い叫びは彼から発せられていた。
「領境に出た魔獣の正体だ。とっくの昔に限界は来てたってことだ。まぁ、あの時はなんとか正気に戻れたんだろうが、もう無理だろう……」




