Side : エリーシア
ここで大丈夫です、と戸口でリィンさんが笑いかける。
せめて街の門までと言うのを辞退されてしまった。
きっと酷い顔をしているのだろう。涙はとまっても目が腫れているのが自分でもわかる。
見送ったあと自分も帰るつもりだったが、泊まりでも悪くないと思い直した。
先ほどまで精霊の光で満ち溢れていた家は、もうひっそりと静まり返っている。けれど、あの暖かさ、懐かしさは、今もまだこの胸の中に残っていた。彼の説明にはまったく理解が及ばず、だがローズ様というその一言で迎え入れると決めた、その判断は間違っていなかった。
「せめて掃除をしておけばよかったわ」
長期休暇になりこうして帰ってくるまで閉め切っていた為、部屋は埃っぽく湿ったにおいがしていた。空気は入れ替えたものの、彼の来訪は思っていたよりも早く、十分だったとは言えない。
これまでのことを思い出す。
貴族の学校、と身構えていた割には意外にも普通で、虐められるようなこともなかった。
その学校生活の中でたびたび耳にする、ある令嬢の噂。そんな方がいらっしゃるのかと驚いたが、同時に自分には関係のない話だと思っていた。彼女が自分をかばって飛び出してくるまでは。
その後、具合はどうなのか気になってはいたものの、やはり侯爵令嬢と言葉を交わす機会など平民の自分にはない。そう思っていたのに、意外にも早くその機会は訪れた。お茶会という席で。
ただでさえ、殿下と同席という緊張する場面なのに、重ねて話している内容がさっぱり分からなかった。どこどこの避暑地がよかっただの、今日の昼食の紅茶は産地がいまいちだっただの。故郷を離れたことすら初めてだったのに、他の地のことが分かるわけがない。
ただ曖昧にうなづくことしかできなかった私に、彼女は故郷の話に置き換えて私に話題を振ってくださった。
何よりも嬉しかったのが街の角のパン屋の話だ。
そこの店のフィッシュサンドが大好物で、ふわふわのパンに甘辛いソースがたっぷり染みこみ、噛んだ瞬間口の中にあふれるジューシーな白身とシャキシャキの野菜の絶妙さと言ったら!
その美味しさについて思わず力説してしまったら、彼女は笑うどころか、「ずっと食べてみたかったの!」と熱く同意までしてくれた。
今思えば、ホームシックになっていたのだと思う。
行ったこともないと言っていたのに、まるで見てきたかのように話が通じることが嬉しくて、ついついたくさん語ってしまった。
侯爵令嬢の見識の深さに驚かされると共に、彼女の心遣いにいたく感動した思い出深い日だ。
その後も、このぼろぼろの手を握り、好きだと言ってくれた。彼女がプレゼントしてくれた香油のおかげで、あかぎれなどもかなり治ってきている。
本当に本当に、彼女には感謝しかない。
「ご恩をお返しするためにも、もっと勉強を頑張らないと!」
なにせ彼女は、体を張って平民を助けてしまうような方だ。
きっとこの能力が必要になる時がまたやってくる。そのためにも更なる研鑽を積んでおかなくては。
ローズ様、と今は心の中でだけ呼んでいる。
いつか自分に自信がついた時、胸を張って彼女にそう呼んでもよいか尋ねられるように。