35 祝祭に向けて 3
祭りも終盤のある夜、こつん、こつん、と私室の窓から音がした。カーテンの端から恐る恐る外を窺うと、バルコニーの向こう側、樹の枝にリィンが立っていた。
「リィン?!」
ふわり、と全く体重を感じさせない動きで、彼がバルコニーに降り立つ。翻ったマントがゆっくりと降りてくる。闇夜の中、彼の服も髪も溶け込んで、微かに赤い目だけが幻想的に浮かび上がる。
綺麗だと素直に思った。
「夜分遅くに申し訳ございません」
彼のそんな姿にどきっとしたのは私だけらしい。彼は夜の逢瀬にも全く動揺を見せず、いつも通りの静かに柔らかな声だった。
「今日、郊外を騎士の皆さんと警備していた時に、こちらを見つけたので……。無礼を承知で参りました」
取り出したのは白い花。
百合に似て、でも香りはとても清涼感のある不思議な花だった。
「月光花です。月の光を浴びて、数十年に一度、月の代わりに月のない夜に一晩だけ咲きます。朝には萎れてしまう為、どうしても今夜中にローズ様にお渡ししたくて」
聞いたことのない名前だった。
「僕たち、月の加護を持つ者にとっての守護者とも言われています。どうか、ローズ様に幸福が訪れますように」
彼は私に花を手渡すとすぐに枝に飛び移ってしまった。
「それと、侯爵様にこの枝を切り落とすようお伝えください。侵入者がないとは限りませんから」
「でもこの枝を落としてしまったら、リィンももう来られなくなってしまうわ」
そう言ってしまってから気が付いた。
「ち、違うの! 今のは通ってほしいとか、下心があって言ったわけではなくて、ただリィンくらい身軽じゃないと通れないから、そんなに気にしなくてもいいのじゃないかしらっていう……!」
乙女ゲーによくあるシーンよね、あわよくばもう一回くらい体験できないかしら、などと妄想していたので余計なことを言ってしまった。今のは流石に淑女にあるまじき言葉であると自分でもわかる。
思わず身を乗り出して弁明する私を見て、くすくすとリィンが笑う。
「はい、そういう方ではないと存じております。残念ですけど……。ですが、やはり万が一がないとも限りません。僕の為にもお伝えください。それから……」
リィンが、私の耳元に口を寄せる。
「ローズ様がお呼びくださるなら、何処にでもまいります――僕は、貴女のものですから」
ほんの一瞬、吐息がかかるほどの距離で彼と私の視線が交差する。彼の目に映る私が見えた。私の目にも彼だけが映っているのだろう。
「それでは、失礼いたします」
リィンの姿はあっという間に暗闇に溶けて消えてしまった。
お客様として屋敷にと言ったのに、彼は律儀にも騎士団の寮で寝泊まりしている。そこへ帰ったのだと思う。領都を歩く合間にも騎士の訓練にも参加していたし、それだけ本気なのだ。彼の騎士への知識と経験の貪欲さには目を見張るものがあった。
それにしても、
「し、心臓がっ……心臓が痛いっ……」
床に崩れ落ちる。
兄と言い、リィンと言い、この祝祭のイベントの数々は何なのだろう。
今後、辛いことがあった時には、このことを牛のように反芻して心の慰めとしよう。そうしよう。
それはともかく、改めて思った。
ときめきイベントとは、やはりヒロインのための物なのだ。
動悸が激しすぎて、体への負担が半端ではない。
「狼の門」ではお姫様扱いなどと言って喜んでいたが、所詮、私は悪役令嬢であり、魂の半分は庶民なのだ。
これからは調子に乗るのはやめよう、そう心に強く誓った。