外伝 聖夜:ユーリウス
「着いたぞ。手をこちらに――足元に気をつけろ」
殿下にエスコートされ、ようやくたどり着いた最上階。
城にそびえたつ白い尖塔の一つに私たちは居る。
入口で靴にさよならを告げていてよかったとつくづく思う。
何とか息を整えて見渡せば、目に映るのはたとえようもなく美しい景色。夜の闇にぼんやりと王都の明かりが浮かび上がって、息をするのも忘れてしまうほどの幻想的な風景が広がっている。
風に乗りかすかに流れてくるBGMは先ほど殿下と踊った曲であり、聖夜らしい舞踏用の軽やかな音楽だ。
「美しい灯りですね」
「ああ。温かく、その一つ一つのもとに命がある。……幼い頃、この灯りを見ては、その一つが自分の家だと想像して遊んだものだ。裕福ではないながらも互いを尊重し、思いやり、助け合う両親。時に喧嘩をしながらも仲の良い兄弟姉妹。聞こえてくる犬の声は、飼っているものだと――ああ、今のように」
どこからか犬の遠吠えがきこえてきた。
彼はただ静かに、街を見つめている。
「俺には無縁なものだが、代わりにそれを守っていくのだと誇りに思っていた」
何度、来たのだろう。
どのような時に来たのだろう。
この見事な景色に不釣り合いな、悲しい小さな背中が整った後ろ姿に重なる。
家もなく寒さに震える者と家があるのに寒さに震えなくてはいけない者、どちらがより不幸であるかなど比べるべくもなく、どちらもどうか幸せになってと願わずにはいられない。
「殿下…………」
心がうずく。
ただのひとめぼれだと思っていた。
大きな舞踏会。
話には聞いていたけれど、実際目にすると何もかもが違っていて、何もかもが初めてで、その中で光り輝いていた人。
訳も分からないまま吸い寄せられるように惹かれて、胸が高鳴った。
初めてのダンスはこの人がいいと強く思った。恐れ知らずでパートナーを押しのけた愚かな自分。触れられた指が熱くて忘れられなかった。
憧れて、追いかけて――あの時、私は本当は気が付いていたのかしら。
瞳の奥に隠されているものに。その強さと、そして孤独に。
「今日の夜会は、実際のところ妃候補を選ぶためのものだ。俺はその中で一番にお前と踊った。お前もそれを受け入れた。この意味が、分かるか?」
「はい……」
返事をする私の声は震えている。
私の半分はとても愚かで、もう半分は貴族とはかけ離れたものだ。今ですら、時に貴族としてのルールに違和感を覚えているというのにその手綱を握れるだなんて思えない。
私に王妃などという重責を背負うことができるだろうか。
たくさんの人の命を引き受けることが、果たして私にできるのだろうか。
シシー様は優秀だ。彼女なら可能だ。エリーシアさんもシシー様の様な商才はなくともその優しい心根で殿下を支え、この国を導くことができるだろう。
では、私は?
己に問うたとき、誇れるものが何もないことに嫌でも気づかされる。
私は前世も今世もただの凡人でしかない。
彼はゆっくりと息を吐いた。
「俺とて理解はしているつもりだ。結婚をしてお前が得をすることは何一つない。それどころかこの求婚を受け入れれば、お前の未来は決定的に打ち砕かれることになるだろう。国のためにすべてを犠牲にし、国のために己のすべてを捧げなければいけないのだから。それでも、俺はお前を欲している。この残酷な我が儘を俺は自分に許した。許されるとは思っていない――お前からも」
返事ができない。
声を出せば代わりに涙がこぼれる気がした。
私が恐れるほどの重責をすでに背負っている人の前で泣くだなんて、失礼な気がした。
「だからこそ、せめて決定権はお前に譲ろう」
彼は笑う。
でも、私が今本当に恐れているのは、その重荷の中にこの人を置き去りにしてしまうこと。
もう答えは出ているのだ。
彼は再び街に景色に視線を移す。
窓からのぞけば、左側にも建物の上から延びる白い尖塔が闇の中にかろうじて見えた。
「ここから見える朝焼けは夜景以上に美しいぞ。霞んだ月と朝もやの、夜と朝の、深みのある青と柔らかな赤の溶け合った空が見事だ。俺がお前にやれるものと言ったらそれくらいだな――いつか、一緒に見よう」