Side : フリード
母親は貴族の妾で、少なくとも彼女は貴族ではなかったらしい。
幼い頃、魔力持ちだということが判明して金と引き換えに実父に引き取られることになったが、邸宅には本妻と3人の男子がいた。歓迎されるはずがない。結局折り合いがつかず、他家に引き取られることになった。
だが、そこでも俺の存在は忌避されるものだったらしい。そうしていくつもの家を転々とした。
貴族の間では血を継ぐために子を選別するなど珍しいことではないし、純血ではない忌み子があちこちをたらい回しにされるのもよくある話だ。
平民で親から捨てられたとあれば、運が悪ければ道端で野良犬のように死ぬしかない。
現実を見ろ。それにくらべればずっとマシだ。
そう自らに言い聞かせてきた。
数か月前、書斎で養子の書類を目にしたあの時、ああ、やはりここも自分の場所ではなかったのだと知った。
貴族としてのマナーも社交も、勉学も、侯爵家に恥じないよう努力してきたつもりだった。不興を買わないよう話も合わせ、好悪の感情など捨ててきた。成績もフォーロマンの一人娘より余程いい評価をもらっていた。
それなのに、身に覚えのない噂がいくつも立ち上り、結局何の努力もしていない、純血の高慢女が選ばれる!
怒りも悲しみもなく、ただ虚無感だけが支配する。
もう、疲れた。そう思った。
「……っ」
いろいろと思い出していたからか、気もそぞろになっていたらしい。切れた唇の端でワインを口に含んでしまい、痛みに思わずグラスを落としそうになった。
フォーロマン侯爵――義父が、テーブルの向こうで同じワインを燻らせながらこちらを見て笑った。
「ブロッサム公に相談したら、こぶしで語り合うことも時に必要だと言われてね。さすがにそんなことはできないと思っていたんだが……案外いい方法だったのかもしれないね。やはり先輩の言うことは聞くものだな」
どうも口元の腫れから、ローズがこぶしを使ってわからせたと思われているようだ。確かに力強く締められたりはしたが、そのように暴力的な解決方法ではなかったのだが……。
そもそもブロッサム公爵は国防を一挙に任されており、軍務大臣も兼ねている根っからの武闘派だ。老いてなお鍛錬を絶やさず、先日は釣りの最中に襲ってきたはぐれ魔獣の突撃を正面から受け止め、単純な力比べで倍以上ある巨体に競り勝ったと聞いている。そのような人と殴り合いをしたら流血どころの騒ぎではないだろうに。
「それにしても、あの子に酒は禁止だな。あんな姿を見られたら、嫁の貰い手どころか侯爵家の評判を落としかねない」
メイドたちにきっちりガードされ運ばれていくローズの後ろ姿を思い出したのか、眉間にしわを寄せつつ義父がため息をつく。
晩餐の後、2人でワインを呑んでいたところに、彼女が自分も味見をしたいと現れた。まぁ、一口だけなら構わないだろうと、本当に舐める程度に与えたのだが、突如くすくすと笑いながら「ボンオドリ」というらしい謎のステップを狂ったように踏みだしたのがつい先ほどのことだ。
「ああいうダンスは初めて見たが、どこの地方のものだろうか」
「私にも分かりかねます。おそらくリィン――友人に教わったのでしょう。各地を旅していたそうで、様々な話を聞けると喜んでいました」
「あの子にもやっと、ようやっと友達ができたのだな。くぅっ、感無量だ」
目頭を押さえて喜んでいる。どうやら義父もかなり酔いが回っているらしい。
「……あの子が成人しても絶対に酒は飲ませないように。いいね、くれぐれも頼んだよ」
「はい」
笑って答えたが、実は先ほどのローズの醜態は嫌いではない。いつもすました顔が相好を崩し、ずいぶんと可愛らしくなっていた。いや、今日は本当に彼女の様々な顔をみたが、そのどれもがとても好ましかった。女性に美醜以外の感想を持ったのは初めてだ。とは言っても、あの姿を他の人間にみせてはならないことは義父と同意見だが。
「父上、お願いがあります。女性領主の件、どうぞ賛成に回ってください」
「……それがどれだけ自分の地位を脅かすか知って、言うのかね?」
「ローズが私のために戦うというのなら、私もまたローズのために戦いたいのです」
貴族の世界がどれほど理不尽なものか身に染みて知っている。どのような形であれ、彼女への負担は可能な限り減らしたい。
「親の私が言うのもなんだが、あの子はかなりの問題児だよ。それでも守ってくれると?」
「はい。一生をかけて」
「さすが、私の息子だ」
義父が本気でそう言ってくれているのが、今の俺にはわかる。少なからずそのことに衝撃を受けた。
「あの子は、難産でね。やっと生まれてきたときには、泣くこともできず全身色が変わっていた。そのせいかずっと体が弱く、熱を出しては倒れる日々が続いた。10歳まで生きられるかどうかと言われ、夜中に目覚めてはあの子が息をしているか何度も確かめに行ったよ。毎日怖くて……ただ、おかげで甘やかしすぎた。生きてさえいてくれれば、それでいいと思っていたんだ」
話す声がかすれている。アスター家に援助を申し出たのは、きっと義父なりに子を失う恐怖や苦しみが理解できたのもあるのだろう。
「しゃべりすぎたな。私も酒が回ってきたらしい」
「義父上、手を」
「いや、一人で大丈夫だ。――子どもと酒を酌み交わすのが夢だった。フリード、叶えてくれてありがとう」
義父が手にしたボトルを置く。種類は変わってもプライベートで口にする酒はいつも同じ年代のものだ。ローズが生まれた年の。
「お前の年も揃えているのだよ。今度帰ってきたときは、それを開けようじゃないか」
「はい。楽しみにしています」
迎えに来た執事に支えられて去っていくのを見送り、ソファに深く腰掛けた。
成人して今までこのように何度か誘われ、その度に何を話せばいいのかわからず理由を付けては断っていた。だが、今日義父と腹を割って話をするのは緊張したが、悪くなかった。
部屋の空気はまだ葡萄酒を含んでおり、深く息をすれば芳醇な赤紫の香りが胸いっぱいに広がる。まるで、彼女の存在が体中に染み渡っていくかのような錯覚。
「酔ったつもりはなかったんだが……」
ワインのラベルを指でそっとなぞる。
酒の良し悪しはまだ分からないし、義父にはああ言ったが、次も飲むなら絶対にこの年がいい。心から、そう思った。