外伝29 脱走 1
あれから何日経ったのだろう。
王都はもう初夏を感じていた季節だけれど、こちらの山には標高のせいかまだ雪がしっかりと残っていた。夜中には氷点下近くまで下がることもあるようだった。
似たような寂寥の景色が続く中を私は振り返らず走り続けている。
さすがブロッサムが誇る騎士だけはある。
儀式の最中に突如飛び込んできた彼らは、一人一人がブロッサムの防壁と謳われる実力をいかんなく発揮し、あっという間にその場を制圧した。
北の地特有の灰白色の土天井と褐色の土壁、遺跡のような洞穴を散り散りに教団信者たちが逃げ惑うのを仕留めていく。やがて追討で奥に進んでいった一部の騎士が顔色を変えて戻ってきた。
何かを見つけたのだ。
魔法陣の真ん中で手足を傷つけられ、血を流し、そこで感じた悪寒。嗅いだことのあるにおい。
この地の奥の奥に、まだ別のものが隠されている。力の弱い私でも、それを感じられた。
はっきりとは聞こえなかったけれど、肉片、魔力、崩れ、共食い、そのような言葉が漏れ聞こえて来た。
頭に浮かんだのは、代理ですらそのあまりの惨さに魔獣という代替でしか行えなかった血の儀式。そして、情報料の代わりに国外への運び出しを見逃されていた人身取引。
だから、もしまだ捕らわれている人がいるなら助けてほしいと来た人たちに告げた。万全の準備で運ばれた私より、無理やり連れてこられた人たちの安全の方が大切だ。
彼らはきっと自力では動けない状態になっているはずなのだから。
命に代えてもお守りするよう閣下よりご命令を受けております。そう食い下がる騎士らを説得して、最低限の護衛で脱出した。その護衛の人たちも網の目をかいくぐり追いかけて来た信者を足止めするために残って戦い、私は一人で走った。
今のところ、追いかけてくる者はいないとはいえ、雪や凍った道には足跡がくっきりと残っている。見つかれば、追跡は容易になるだろう。
走っては少し休みを繰り返す。薄い靴に雪が染み込み、最初は痛みを感じていた足も感覚がなくなってきている。
凍傷にならないようその足先に、握っていた小袋を当てる。逃げるときに手渡されたものだ。
当てれば布を通して温かさがじんわりと体に伝わってくる。
この寒さでも温もりが衰えないところを見るに、おそらく中に入っているのは炎水晶だろう。きっとナイトスター産のものだ。これほどの大きさともなれば王都で一番大きい屋敷が買えるはず。
呼吸を整えようと吸い込んだ空気の冷たさに、思わずむせてしまう。
ずっと頭痛が止まらない。
フォーロマン特製の回復薬は血の流れを止め傷口をふさいだけれど、失った血を復元することまではできない。
風の音に混じって四方八方から重い足音が響いてくる気がする。
「……パニックになってはだめよ」
幻覚と幻聴、急性貧血の症状だ。自分に言い聞かせる。
陽は少しずつ傾いてきた。この状態で寒い夜を乗り切るのは至難の業だ。
教えてもらった道を反芻する。
木の太い方に走れ。見失えば太陽を3時の方向に。そうすれば夕刻までに橋にたどり着ける。それを渡ればブロッサム領だ、と。
魔術は当然ながら、成功しなかった。
私の血が魔術陣に注がれ溶けあう。陣が赤く染まり、光り輝き、そしてそれだけだった。
当たり前のことだ。
私は2つの加護を持っているだけで、魔力は大したものではないのだから。血を使って術を為そうとしても成功するはずがない。
「橋が……落ちてる……」
ようやく告げられた場所にたどりついて安堵したのもつかの間、さらに絶望の状況に突き落とされる。
橋はこちら側で落とされ、焼け焦げた縄と木切れの残りがブロッサム領側に垂れ下がっている。待っていると聞かされていた人影もここからでは確認できない。
「……どうしたら……?」
いいえ、大丈夫よ。
こういう時のために隅々まで地図を頭に叩き込んである。
道はあったはず。遠いけれど崖沿いに進んでいけば。ただ問題は、日暮れまでには到底間に合わないと言うことだ。
騎士を待つにしても、夜を越せる場所を探したほうがいいのかもしれない。
周囲を見回した私の視界に恐ろしいものが映った。
岩の影から吐き出されるように人が出てくる。ブロッサムの騎士ではない――教団信者だ。
まだ残っていた人がいたの? どうして? どうやってここまで?
彼らは呪詛を吐きながら、逃げ出した私をじりじりと取り囲んで行く。手足を使ってもまだ多い人数だ。簡単には抜けられそうにない。
切り立った崖を背に追い詰められていく。吹き上げる風を感じて下をのぞけば、はるか遠くに霞んだ地面とわずかに流れる水が見える。
一か八か飛び降りる?
ドラマや映画でよくあるシーンだ。大体物語の主人公たちは――いいえ、私はヒロインではないし、この高さは絶対に助からない!
「落ち着いて……絶対に帰るのよ。みんなに約束したわ」
繰り返し言い聞かせる。
血と酸素が足りないせいで、脳が正常な判断を下せなくなってきている。馬鹿なことを考えてしまう。
絶対に殺すなと言われている。私を捕まえたときに彼らはそう言っていた。
魔術のためかと思っていたけれど、こうして追いかけてきたということはまだ何か利用価値があると判断しているのだろうか。
単純に手足を切られるだけでは済まないであろう儀式のことを思い出す。
そのためにまだ私を必要としているのなら、少なくとも今ここではおとなしく捕まったほうが助かる確率は高いのかもしれない。
本当にそうだろうか。
捕まればそれこそ終わりじゃないの?
死んだ方が良かったという目に合わされるだけではないの?
騎士が来るまで暴れて逃げ回って抵抗し続けるべきじゃないの?
――そもそも、私は正常な思考を保てているの?
寒いし、呼吸も浅くしかできない。視野が欠けるように思考が狭窄していく。焦点が定まらず、うまく考えがまとまらない。
手の震えが止まらないのは本当に寒いからなのか。
『死』
ずっと目をそらし続けてきたその言葉が迫る。
頭がじっとりと重くなってくる。何故か過去の出来事が流れるように脳内を駆け抜けていく。
「待って……わたくしはまだ諦めていないわ……」
言葉とは裏腹に恐怖と疲労で体が悲鳴を上げているのだ。限界を、迎えている。
めまいがして、記憶が巡り始める。
現実から目を背けるように。穏やかな日々を懐かしむように。
頭の中で花が舞い、枝が揺れ、風が吹く。
男たちが近づいてくる。もう逃げられる隙が無い。手が、伸びてくる。
春の空、夏の祭り、秋の夕暮れ、そして言葉が浮かんでくる。
薄桃色の花が降り注ぐ下で、夏の夜の露台で、秋の瓦解した石礫の中で、繰り返し誓われた、あの言葉が。
人はいない。
王国は遠い。
来られるわけがない。
でも……、
「……助け、て……わたくしを……助けて、リィン……ッ!!」
「――はい。仰せのままに」
きっと幻聴だ。
このような状況なのに、いつもと変わらない穏やかな優しい声が降ってくる。声だけではない。
吐いた息の白い向こう、既に剣を抜いた黒い影が、私を守るように降り立った。