外伝24 ブロッサム領 1
湖のほとりに街はある。
対岸すら見えないそのずっとずっと先、霞んで連なる山のふもとにブロッサムの領都があるそうだ。
想像していた湖とは全く異なる様相は見渡す限り水しかなく、視線の先でいくつもの船が行き交い、潮の香りがあったら間違いなく海だと思っただろう。それ程までに大きい。
いくつもの運河が放射状に延びて水を王国各地へ運ぶ。
このいずれかの先がフォーロマンにもつながっているのだと思うと不思議な感じがした。
しかもこうした川や湖が大小いくつもあり、合わせると領土の3分の1にも匹敵するというのだから、<王国の雨>の名は伊達ではない。
街の建物も今まで見たそのどれとも異なっている。
屋根はどこも急こう配で、ほとんどが高床式になっていた。
「治水のおかげで昔ほどじゃないが、ここらは春は雪解け水で一帯が水浸しになる。だから、たいてい入り口は少し上げてつくる。浸水の恐れのない高台の金持ちだけだな、1階から出入りするのは」とはグエン様のお言葉。
夏の暑い季節は避暑地として人気とのこともあって、街は大きく活気があった。おしゃれなお店も多い。
その中のある洋品店にグエン様は入っていった。馴染みのお店らしく交わす言葉が親し気で、働いている女性方の彼を見る目も温かい。
「北の地方を知らないそうだ。見繕ってやってくれ」
「あらまぁ、坊ちゃまが女の子をつれてくるなんて! しかもとびきり美人の女の子を! お祝いが必要ね!」
「さぁさ、こちらにいらっしゃい! まずは羊毛のドレスに毛皮の外套、帽子に手袋、ブーツも必要よね。軽くて暖かいのはどこだったかしら」
「んまぁ、こんなに細くっちゃ骨身に染みるじゃないの! たくさん食べないと、ブロッサムで生きていくのは大変よ!」
「い、いえ、こちらで暮らすわけでは……」
明らかに今の季節には必要なさそうなものまでがどんどん出てくる。この冬は寒さが一段と厳しかったから、次に備えて絶対に用意しておいたほうがいい、とかなんとか。
「ねえ、色男さん、こっちのほうがいいよねぇ?」
「――わたくしですか?」
護衛騎士らしく、柱の陰にじっと控えていたアーサー様に急に話が振られ、呼ばれる。
「……そうですね、わたくしとしてもこちらの方が」
「だよねえ!」
美形の青年に賛同してもらって、随分と嬉しそうだ。
「――ただ、こちらの組み合わせの方がわたくしはレディにお似合いだと考えます」
柔らかな笑顔で、壁にかかっている雪の刺繍が入っただけのシンプルなファー付きのマントとドレス、それから柔らかな履き心地のショートブーツをあわせて持ってくる。
寸法を口にしてもいないのに、サイズもぴったりだった。
「おや、これが今の王都の流行なのかい?」
「少し異なりますね。ですが、レディは大層お美しく華やかでありながら控えめな心持ちのお方ですから、より素晴らしさが引き立つかと」
急にファッション談議にアーサー様が加わり出した。
結局、ああでもないこうでもないと話は大層盛り上がり、グエン様が戻っていらした頃には小山のように品が積み上げられていた。
「おう、悪かったな。全部任せちまって。なんせ、男所帯だから何買っていいやらわかんなくてよ」
「あ、あの、こんなにも買っていただくわけには……」
「男には花を持たせるのがいい女ってもんだよ、お嬢さん。このくらいしないとブロッサムの名が泣くってもんさ!」
ブロッサムでは随分と領民と領主一家の間が近いらしい。
店員さんが自分の息子にするようにグエン様の背をたたく。
先ほどアーサー様にも「レディに贈る栄誉をいただきたく」と言われ、幾つか彼が見繕ったものを買ってもらっている。
尻込みする私を、「金を落とすのも貴族の務めだ」と言い含められ、結局グエン様からも大量のプレゼントを頂くことになった。
遠地に引き留められ、すぐに故郷に戻ることができない私への、お2人なりのお心遣いなのだろう。
その後、船に乗って湖を渡り、馬車を乗りついで、ようやくブロッサムの領都へとたどり着いた。
もう春だというのに領都に近づく度に、風は冷たく気温は低くなり、寒さが増していく。買っていただいたものがなければ風邪をひいていただろう。
丘を登った先では山を背に、街が広がっていた。
そこからさらに山肌を縫うように道が続き、遠目からでも山腹に巨大な砦が雲をまとうように突き出ているのが見てとれた。
きれいな店舗が軒を連ねていた明るい湖畔の街とは異なり、いくつもの厚い城壁に囲まれた領都はそれ自体が武骨な印象であった。
ブロッサムの屋敷も含めて、ほとんどが灰色の石で堅牢に建てられており色が少なく、何と言うか、まるで冬の厳しい寒さから身を寄せ合うみたいにして建っている。
壁の内側の建物は必ず1階のほかに出入口が上階にもあり、冬の雪への対策だと教えられた。この高さまで積もることがあるのだと。
その街の一番奥、ブロッサム公爵邸は屋敷というよりは城塞のようだった。
石造りの建築物は、極力暖気を逃さないためだろう、部屋の出入り口が小さめに作られ、床や壁には厚い織物が広がっている。その上をはく製や何の動物か分からない骨などの野趣あふれる調度品が埋め尽くしている。
柱は見たことがないほどどれも太く、2重窓にはすべて横板が取り付けられている。
日中でも厚い壁であまり光は入ってこず、どの部屋も暗い。
「嬢ちゃん、よく来たな!」
昼間でも明かりをともす必要があるホールに、低く威厳のある閣下の声が響き渡る。
歓迎の意を表しているのだろう。珍しく軍服ではなく正装の恰好は、おそらく誂えたのがかなり昔であり、久々に着たのだと思われる。
サイズがあっておらず服の上からでも筋肉の隆起が分かるほどにぴちぴちで、張り裂けんばかりだった。
たくましい腕で抱きしめられ、足が地面から浮く。硬く岩のような胸で頬がつぶれそうになった。
「クォーターが早く返せのなんのって。まだ、着いてもねえっていうのによ」
着替えることもなく案内された大食堂にはすでに夕餉の準備がなされていた。
大きなテーブルに所狭しと並べられ湯気を立てているものは9割9分がタンパク質類で、ただ、申し訳程度に添えられている野菜の中には見たことのないものもある。
「やはりフォーロマンの血だな。そういうものに目が行くか」
閣下が嬉しそうに表情を緩めた。
「それは、先代のフォーロマンが寒冷地でも育つよう選別、品種改良してくれたもんでな。ここの特産だ。できるまでに、あいつに生で何度かじらされたことか……」
随分と祖父と仲が良かったらしい。
父から語られるものとは異なる、少年のような思い出をお酒の肴にいろいろと聞かせてくださった。
故郷から遠く離れた場所でも祖父の足跡を知ることができるとは思わなかった。祖父は大層みんなに慕われていたそうだが、その理由が改めて分かった気がする。
それから話は王都へ、やがて一昨年の聖夜の事件の顛末へと移っていく。
閣下は愉快そうに大声を上げ、ジョッキを掲げる。
「――膝蹴りか。いいぞ、喧嘩の基礎を分かってるな。手が動かないなら頭か膝が有効だが、頭の場合こっちにもダメージが残る。膝は威力は劣るが、追撃にも移れる。おまけに口から鼻の下にかけての急所を狙うなんざ、嬢ちゃんは最高だ!」
褒め方がおかしい。全く嬉しくない。
「もうこの際、フォーロマンに戻らずここで俺の養女になるってのはどうだ? その胆力なら大歓迎だ。こいつでよけりゃ、嫁でもいい。うちは警備やらなんやらで皆出てるからな、嫁姑問題もなく、気が楽だぞ?」
「親父殿……」
お酒が入って興が乗った閣下にはグエン様の苦言も届かない。
「俺は娘が欲しかったんだ! 小さくってかわいいのが! 7人もいるんだぞ、1人くらい生まれてくれたっていいだろうが!」
「ごつい息子で悪かったな」
「閣下はご自分より小さくて可憐なものがお好きですからね」
国を守る者同士普段から交流があったのかもしれない。
アーサー様の方がいつものことだと慣れた様子だった。
そもそも小さいものを愛でるのが好きというならこの世の中のほとんどのものは閣下より小さいのだから、閣下にとってこの世界は可愛いものばかりであふれているということになる。
それに、胆力だなんて乙女ゲームの世界で最も必要のないものだろうに、それをひたすら褒められても……。
ご機嫌なブロッサム公爵はその後もなにかにつけては私の肝をほめたたえ、見かねたグエン様が強制的に晩餐を終わらせるまで嫁に来い、娘になれと誘い続けた。