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君への手紙

欺瞞と肥満に満ちた世界で君を抱く

作者: まさかす

「私は太ってない。そもそも体重計等で私の人生を計れるものでは無い」

「私は太ってなどいないわ。そもそも誰が重さの基準を決めたの? 私の知らない勝手な基準を押し付けないで」


 その人達は太っていないという。見ただけで満腹になりそうな程の量を食べながらに言う。口を開くたびに頬が揺れ、二の腕が揺れ、喉の肉が揺れる。それに連動して腹部が揺れ臀部が揺れる。二重顎の下には喉の皺。三重のうなじは2つの輪っかをしているように見えた。


「それがデブだと言うのか? それでも私は太っていない」

「それが何? 私が太っていると言うの?」


 腹部の肉が重いのか、その人達は前に倒れないように常に仰け反る様な姿勢を取っていた。それはある意味で姿勢が良い。だが興奮したのかシャツのボタンが弾け飛び、スカートのファスナーが引き千切れた。


 全ては意識の問題。大きいと認識しない人もいる。骨太であれば肉が付いていなくとも大きく見える。振り切る程にボリューミーな人は逆に前面に押し出すが、それを隠そうとする者もいる。健康や医療費という問題が存在するものの、自分が良ければきっとそれでいいのだ。それが好きな人間も存在する。全ては意識の問題。その人が良ければ、きっとそれでいい。 


 時代が変われば価値観も変わる。未来に於いて肥満とは「来る世紀末に備えてエネルギーを蓄えている」という言葉に置き換わる事もあるのだろう。そこはまさに『Lの世界』、いや、『9XLの世界』なんて時代になっているのかもしれない。価値観が変わる事で肥満と呼ばれる者が存在しない世界というのも、まんざら夢では無いのかもしれない。




 

 それは100年以上前に書かれた手紙。以前温泉旅行にいった際、偶然に押入れの中に落ちていたその手紙。白かったであろう紙は茶色く変色し、文字も滲んで判別が難しいほどであった。しかしこの手紙、いや、ポエムの類だろうか。それとも肥満への警鐘だろうか、自分が太っていない事の説明だろうか。まあ、それは兎も角として、手紙の主は先見の明があったようだ。


 手紙の主の時代と違い、現代は科学も進んで便利になり、それにより人は全く動く必要が無くなり、それでも高カロリー食品に溢れ返っている事もあってか、世界的にボリューミーな社会となっている。手紙の主の言葉を借りれば『Lの世界』、いや、『9XLの世界』が今ここに在る。


 私達人間はベッドを兼ねたその人専用の高機能ソファで以って1年の大半を過ごす。そのソファが私達を何処へなりと運んでくれる。外へ行くにもソファに座ったまま。車に乗るのも座ったままで、勿論トイレにも運んでくれる。とはいえソファに座ったまま用を足すでは無く、トイレの入口まで来るとトイレから機械アームが伸び、人を抱きかかえると便座へと運んでくれる。その際、過去の人はパンツと呼ばれる肌着を身に付けていたらしく、それを脱ぐという作業が必要であったらしいが、現代では肌着を兼ねるスカートを履いている為にその作業は不要である。また男性の場合には2本それぞれの足毎に履くというズボンと呼ばれる服が存在したらしいが、歩く事も無い現代に於いてはそれらズボンという物は存在せず、老若男女問わず下着を兼ねるスカートを履いている。そして便座へと座る際、そのスカートは機械がめくってくれる。用を足し終えるとシャワーノズルで以って股間を綺麗に洗い、温風乾燥にて乾かす。過去には紙を使って尻を拭いていたというが、現代の我々では股間へ手を伸ばす事も出来ないので、紙を以って尻を拭く事等は無い。それらを終えると再び機械が両脇へと伸び、人を抱えてソファへと戻される。


 勿論バスルームへも運んでくれる。ソファに座ったままバスルームへ入ると、まずは機械アームが上着を脱がせてくれる。そしてトイレ同様に機械アームで以って人を掴んで宙に浮かせ、吊られた状態で以ってスカートを脱がす。そしてマリオネットのようにして吊られたまま風呂場へ運ばれ湯船に浸からされる。暫く浸かった後、再び機械アームが人を掴んで湯船から出し、吊られた状態のまま体を洗われる。適度な水圧のシャワーとスポンジの付いたアームで以ってごしごし体中を丸洗いされる。頭はまるで女性の手の様な柔らかい機械アームで以って洗ってくれる。それと同時に歯も磨いてくれる。洗い終わり再び機械アームによって風呂場から出されると、吊られたままの姿勢で以って温風乾燥。そしてワンピースのパジャマを機械に着させて貰い、ソファへと戻される。


 車にもソファごと乗り込む。過去の車では前を向いて横に2人3人並んで乗るのが普通であったようだが、現代ではソファに座った人の幅は2メートルを超す為、前後に乗り込むのが通常である。それも前を向くでは無く横向きに。よって、多くの乗用車と呼ばれる種類の車は3人乗りが基本であり、人が運転する事は無く自動運転である。


 リビングで寛ぐ私のソファの隣には、寄り添うようにしてソファが並ぶ。そこに座るは愛しき私の妻。互いに動けるような体では無い為に、手を握る事しか出来ないが最愛の妻。日常を営むに於いては妻も私も何もしない。食事も機械が自動で料理し口へと運んでくれる。私達はソファに座ったままで口を動かせばいいだけ。その材料も自動で家に運ばれる。日常の着替えも機械がしてくれる。シャワーを浴びる時と同様、私達はマリオネットとして扱われる。下着を含めて全部機械が脱がせ、着させてくれる。当然洗濯も機械がしてくれる。私も妻も、自分の下着を含む着替えが何処にしまわれているのかすら知らない。

 

 夜の営みすらも機械が補助する。私や妻の体を機械が操作してくれる。正に人間はマリオネット。だがそのお陰で可愛い子供も産まれた。その子供は機械シッターが常にあやしてくれる。丸々と太った可愛いわが子。そんな幸せが続く中、ふと妻がある事を口にした。

 

「ねぇアナタ。ひょっとして私達ってデブなの?」


 私は一瞬、黙りこんだ。


「何を言っているんだ? 太ってるわけ無いだろ? 政府だって平均350キロが標準体重と言ってるじゃないか。なのに君の体重は260キロしかない。どちらかと言えば君は痩せているんだよ? でもどうしてそんな事を思ったんだい?」


「だって私達は自分の足で立つ事も出来ないでしょ? 腕を上げる事すら難しいわ。ひょっとしたら私はデブなのかなって……」


「君は可笑しな事を言うね。ははは。人は誰だって自分の足で立ち上がる事なんて出来やしないよ? 足なんて神様が悪戯心で以って作りだしたアクセサリーに過ぎないさ。自分の足で立って歩くなんてどうすればそんな事を思い付くのか僕には不思議だな。それにだよ? 例えデブであったとして、何か困る事でもあるのかい?」


「別に無いけど……」

「ならこの話は終わりだ。君は太っていない。むしろ痩せているさ。もっと食べないとね」


 私の家は人通りも少ない閑静な住宅街にあった。家の前や家々の間に柵や壁も無く、緑も鮮やかな庭で隔てられるといった欧米の様な住宅街である。


 とある日の午後、そんな住宅街に黒い大型のバンが1台現れ、私の自宅リビングから見える向かいの家の前へと停車した。車の横に「第1種葬送車」と書かれたその車の側面ドアが開くと、1台のソファが降りてきた。それに乗っていたのは体重400キロはあろうかという強面の男。黒々とした短髪に黒いワンピーススーツを身にまとい、濃いめのサングラスという近付きがたい印象の男。それと同時に後部ドアが開き、「ウィィィィィン」という機械音と共にストレッチャーと思しき車輪の付いた長さ2メートル、幅1メートルといった機械が降りてきた。無人で動くそれは主人とも言うべきソファに乗った男の元へと近寄り停止した。そしてソファに座ったままの男はそのストレッチャーを従え、隣人宅の玄関へと向かった。


 玄関前へと到着した黒スーツの男は、スーツの内側からカードらしき物を取り出し、玄関付近に設置されたカメラへと掲げた。すると隣人宅の玄関ドアが勝手に開き、男は完全バリアフリーの住宅の中へとソファごと入り、無人のストレッチャーはその後に続いて家の中へと入って行った。


 それから10分程して、ソファに座ったスーツの男が隣人宅から出てきた。それに続いて黒いシートが掛けられたストレッチャーも出てきた。ストレッチャーはそのまま車の中へと自動で乗り込み、後部ドアが自動で閉じられた。ソファの男もそのまま車に乗り込むと、黒いバンは静かにその場を去って行った。


「お向かい方、亡くなられたのね……。全然気付かなかったわ……」

「そうだね……。残念だね……」


「でも第1種って事は痩せちゃったのね……。と言う事はだいぶ前に亡くなられたのかしらね……」

「そうかもしれないね……」


 個人専用のソファには、体重等の情報全てが分かる総合生体監視モニターが付いている。それらは心音等の情報を随時監視し、薬が必要であればその情報が当局へと自動で届き、勝手に薬が送られてくる。当然それらの薬も機械が勝手に口へと運んで飲ませてくれる。又、ソファに人が座っているのにバイタルサインが出ていない場合、その人が死亡したという情報が当局へと伝わる。それを受けた当局は葬送車を派遣する。ソファの肘掛には緊急コールボタンも存在し、それを押せば救急車が来る事になってはいるが、向かい宅の人はそれすらも出来ない状況で亡くなったという事なのだろう。


 第1種と書かれたその葬送車は痩せている人専用であり、そのまま第1種火葬場へと向かう事になる。他に第2種火葬場も存在するが、それぞれ目的が異なる。第1種は痩せている人専用の火葬場。そして第2種火葬場はそれ以外の人専用。その違いは火葬用機械の効率化の為と言われている。当局へと伝わる情報には体重も伝わり、死亡時に痩せている事が分かっていたが為に、向かい宅には第1種葬送車が派遣されたと言う事だ。本来であれば、亡くなった時点で葬送車が派遣されるが故に、痩せている人専用の「第1種葬送車」が来るという事は稀である。かく言う私もその車を初めて目にした。恐らくは高機能ソファに何か問題があって、当局への通知が遅れたという事なのだろう。


 だが1種2種の本当の役割について、多少事実は異なる。2つ共に火葬場であるのは間違いないが、その本当の用途が少し異なる。私はその事を知っていた。全てを知っていた。私がデブである事を知っていた。妻がデブな事も知っていた。国民全てがデブな事も知っていた。


 現代では人が亡くなれば即座に葬送車が当局によって派遣され、亡くなった人を火葬場へ送る。その事を誰も何とも思わなかった。私もそれが当たり前だと思っていた。死んだのなら仕方がないと、ただただ粉と言える骨だけを返して貰って土の中へと埋めるだけなのだと。だが私は知っている。誰も知らないが、昔は葬儀という儀式が行われていた事も知っている。


 それは地球規模とも言える各国政府主導で行われている陰謀とも言える物だった。人の平均体重が300キロであるという言葉を信じ込ませるため、デブが当たり前であると国民に信じ込ませるため、各国の政府は自国の水源に対して神経に作用する薬品を混ぜ、それらを容易に信じ込ませた。ある種麻薬といってもいいそれが含まれた水道水を飲まない者は大勢いるが、それは皮膚からも容易に浸透する物だった。故に手を洗う場面があれば容易に体内へと浸透する。


 過去のテレビ番組が再放送される事も多々あるが、そこに映し出される人間は太った状態に加工され放映されていた。故に人々は自分達の体重が200,300,400キロとなっていたとしても可笑しいとは思わない。勿論それは薬品の効能によるものでもあった。だが私は気付いていた。私がデブで、妻もデブである事を。世の中の人間全てがデブである事に気付いていた。


 痩せている人間専用の第1種火葬場、そしてそれ以外の人間用の第2種火葬場。第2種火葬場でも火葬は行われてはいるが、火葬するその前に、火葬場地下にある工場へと秘密裏に遺体が送られる。そしてその工場には、人間の脂肪から油を採取する機械が設置されている。痩せている人間は脂が無い為にそのまま焼くが、デブは油を搾り取られ、絞り取ったカスとも言える人間を焼いていた。


 それら人間から搾り取られた油は火力発電に利用されていた。デブの脂肪から油と呼べる燃料を絞りとり、それを火力発電等に利用していた。故に政府は高カロリーな物を国民に食べさせ飲ませ太らせる。資源の無いこの国は油といった化石燃料はほぼ全てと言っていい程に海外に依存していた。だが実はその油田が枯渇し始めていた。価格調整と言う名に於いて産油国は産出量を減らしていたが、実はほぼ枯渇と言っていい程に取り尽くしていた。とはいえエネルギーにしても化学繊維といった物の原材料としても油は必要であり、それ故の総肥満化計画であった。それを私は知っていた。地球規模と言っていい政府の欺瞞を知っていた。油を取る為に人を太らせるという計画を知っていた。


 それは半年ほど前の事。政府が秘密裏に混入していた薬品が効かなかったせいか、私は自分がデブではないのかと疑問に思い、ネットで以って色々と調査してみた。だが私がデブであるという事を証明する物は見つからず、江戸時代等の過去に於いての資料でも、当時の平均体重は500キロと記され、むしろ現代の人々よりも太っていたとされていた。やはり私の考え過ぎだったのかと、その時は思った。


 だがそれらは情報統制と言える物だった。歴史に関する文章は勿論、日ごろ国民が目にする過去の映像すらも、人の姿はデブに編集されていた物であった。とはいえ人間のやる事に完璧という事は稀であり、そして私は幸か不幸か、その真実と呼べる情報にアクセス出来てしまった。


 成人男性の平均体重は70キロ弱、女性は50キロ強といった文言が並ぶ資料。当時は炭水化物や糖質などを制限してのダイエットが存在したという。現代の車ではソファごと前後に乗り込む3人乗りが通常であるが、当時の車は横に2人、若しくは3人座れるようなレイアウトが普通だったという。それもソファに座らず自らの足で以って歩いて乗り込み、車に備えてある椅子に座って自らが運転するという。そもそも殆どの人は自らの足で以って立ち、歩いていたという。パンツと呼ばれる肌着を身に着け、ズボンと呼ばれる物を履いて歩いていたという。トイレへも自分の足で以って向かい、ズボンや肌着を自分で降ろして便座に座り、用を足し終えると自分の手で紙を使って尻を拭いていたという。シャワーへも自分の足で以って向かい、自分の手で衣服を脱いで浴場に入り、自分の手で以って頭や体を洗い、自分の手で以ってタオルを使って体を拭いていたという。そこには今の私の知識とはまるで異なる世界の情報が記載されていた。


「Project FatTheMoonLig(月光のデブ)ht」


 表紙にそう書かれた計画書。そこには国民にハイカロリー食を与え続けて太らせるという政策が書かれていた。それら太った人間が死んだらその脂肪から油を搾りとり、エネルギーとして利用するという国家主導の計画。常に体重を管理し、痩せるような事があれば医療機関から薬を送付し直ぐに太らせる。また、自分がデブである事を気付かせない為に、過去の資料はすべて改竄するという事まで書いてあり、それが歴史的に価値があるような紙媒体であったとしても、改竄が不可能な物は全て焼却するといった事も記されていた。更には水源に薬品を混ぜ、デブを疑わないように精神的にも支配するといった、まるでSF世界の事が書いてあった。だがそれは決してSFではなく、まさに現代社会そのものであり、現実に実行されている事だった。


「ピンポ~ン」


 半信半疑ながらもそれらの資料をつぶさに読んでいると、自宅玄関前に誰かが来た事を知らせるチャイムが鳴った。ソファに着いているモニターに映し出されたのは、濃い目のサングラスを掛け、黒いワンピーススーツを身に纏った大柄な男2人がソファに座っている姿だった。私はソファ肘掛にあるドアホンボタンを押した。


「どちら様でしょうか?」

「厚労省の者です」


「厚労省? えっと、それでうちに何かご用でしょうか?」

「とりあえず家に入れて貰えませんかね?」


 大声を張り上げる訳でも無かったが、その低くゆったりとした口調に何かとてつもない恐怖を感じた。一旦何らかの理由を付けて断ろうとしたが、それはそれでとんでもない事になるのではと思い、ソファ肘掛に着いている玄関ドアの開閉ボタンを押した。


「それでご用件は?」


 ソファごとリビングへとやってきた男達に、恐る恐る聞いた。


「あなたが見た資料について、誰かに話しましたか?」

「資料? 資料……と言うと?」


「10分程前に、あなたがネットで見つけた資料の事です」

「な――――」

「見ていらっしゃいましたよね。それを誰かに話しましたか?」


「あ、いや、その……」

「見ていらっしゃいましたよね。それを誰かに話しましたか?」


「あ、あの……あ、い、いえ、ま、まだ誰にも話していませんが……」

「そうですか。それは良かったですねぇ」


 現代は監視社会が当たり前。現に私がその資料を見てから10分と経たないうちに、男達は私の自宅へとやってきた。漠然と監視されているであろう事を知ってはいたが、本当に監視されていると知ると背筋がゾっとした。そして私が見たという資料について、もしも妻に話していたらどうなったのかと質問したかったが、答えを聞くのが怖かった。


「まあ見てしまった物は仕方がありませんねぇ。それを残しておいた我々にも非があるという物です。とはいえ、このまま放っておく事も出来ないんですよねぇ」


 男は勿体ぶる様にして言った。どうやら私が見た資料は禁忌の資料であったらしい。


「あ、あの、その……。ど、どうすればいいでしょうか……?」

「そうですねぇ。どうしましょうかねぇ」

「あ、あの、この事は誰にも言いません。勿論、妻にも言いません」


「それは名案ですねぇ。こちらとしてもあなたが黙っていてく――――」

「わ、わかりました。誰にも話しません」


「そうですか? まあ、そう言って頂けると私達も非常に助かります」

「……」


「ああ、それと一応言って置きますが、我々は常に皆さんを監視していますので」

「……」


「ご理解、頂けましたよね?」

「あ、は、はい……」


「では、私達はこれで失礼します」

「……」


「ああ、そうそう。言い忘れてましたが」

「な、なんでしょうか?」


「ちゃんと食べ続けて下さいね」


 男達はそう言って家を後にした。そんな事があってから早半年が過ぎた。私は恐る恐るその資料へのアクセスを試みたが、それらの資料は既に消されていた。どうやら「自分はデブなのでは?」と疑問に思ってネットで調べると、即座に政府にマークされるシステムが構築されているらしい。そして私の家のすぐ近くには毎日のようにして同じような黒い車が止まっている。その中には先日来た男とは別の、私よりも遥かに大きい500キロはありそうな2人の男が乗っていた。ネットを監視しているのであれば家の近くに居なくてもいいだろうとは思うが、再び何かしたら直ぐに家の中へと踏み込むぞと言うプレッシャーを与えているつもりなのか、男達は交代しながら昼夜を問わずそこにいた。


 それから更に1か月程が経過し、家の前にいた黒い車もいつの間にか見なくなった。ようやく許してくれたという事であろうかと、私は胸を撫で下ろした。正直怖かった。万が一にも寝言でアノ事を口にして妻が聞いてしまったらどうなるのだろうかと。


「ねぇアナタ、旅行にでも行きましょうよ」


 ある日の朝食時、妻が唐突にそんな事を言った。


「旅行? どうしたんだい急に。何かイベント事でもあったかな? それとも面白い場所でも見つけたの?」

「いえ、何か分からないけど行政から私達夫婦に旅行をプレゼントしますって葉書が届いたの」


「行政から旅行のプレゼント? いやいや、そんなの悪戯に決まってるだろ?」

「私もそう思って行政に連絡したら本当だったの。何でも『健康優良家庭で表彰されました』とか言ってたわよ? ね? 行きましょうよ」


「まあ、無料だと言うなら行っても良いけど。しかし本当の話かい?」

「私を信用しないの? ちゃんと聞いたんだから。それでも疑うというなら、アナタが直接聞いてみたらいいじゃない」


「怒らないでくれよ。わかったよ、信じるよ」


 そして数日後、1台の白い大型のバンが自宅の前へと停車した。聞いた事の無い旅行社の名前が側面に書かれたその車からは、身長1メートル程といった2足歩行のロボットが「ギュィィン、ギュィィン」と音を立てながら降車し、家の玄関前へ歩いてきた。そして玄関に設置されたカメラと光通信でもって会話を始め、その内容が私のソファのモニタへと送られてきた。旅行者の名前と「お迎えに上がりました」といった文字が表示されると共に「確認」ボタンが表示され、私はそれを押下し、傍にいる妻に迎えが来た事を伝えた。


 私達の着替え等の荷物を、2足歩行の家政婦ロボットが外へと運び出す。それに続いて私も外へと出ると、少し遅れて妻も出てきた。その妻の後ろからは後を追うようにして、眠ったままの子供を乗せたソファが外へと出てきた。そして私達が白いバンへとソファごと横並びで乗り込むと、荷物を車の後部へ積み終えた家政婦ロボットが私達を前に、「いってらっしゃいませ」と恭しく頭を下げた。それを合図に車のドアが自動で閉じると、迎えに来た2足歩行ロボットは、車の前席付近へ格納される様して乗り込んだ。そしてすぐに「発進します」という機械音声が車内に流れると、車は緩やかに発進した。


 家を後にしてすぐの路地を曲がった際、一台の黒い大型バンが停車しているのが見えた。それは私の家からは見えない絶妙な位置で、最近まで私の家近くに停まっていたのと同じ車。すれ違いざまに車の中へと目をやると、車内にはサングラスをかけた大柄な男2人が乗っていた。サングラス越しではあったが、その男達と目があった気がした。その際、瞬間的な事だった故に見間違いかもしれないが、男達がニヤリと笑った様に見えた。私への監視は未だに続いていたのかと一瞬思ったが、男達はその場所に留まったまま動かず、私達の車の後を追う事もなかった。


 私は安堵のため息をついた。きっと私で無く別の誰かを監視していたのだろうと、若しくはそこにたまたま停車していただけかもしれないなと。


 ふと、今回の旅行は結局何だったのだろうという疑問が浮かんだ。行政から唐突にプレゼントされたこの旅行。健康云々だからプレゼントなんて制度があるなんて初めて聞いた。改めて考えてみると不思議な制度に思える。すると突拍子も無い答えが脳裏を過る。「ひょっとしてこの旅行は彼らによって仕組まれた旅行ではないか」と、「手間暇かけて私を日夜監視するよりは永遠に消えて貰った方が安上がりであり確実である」と、そう考えての旅行のプレゼントなのではないかと。


「ちょっとアナタ大丈夫? 汗が凄いわよ? 暑いの?」


 知らず知らずのうちに、私の額からは汗が流れていた。いや、額だけでなく背筋にも汗をかいていた。当然それは冷や汗と言える物。


「え? ああ、大丈夫だよ。ソファの冷房が調子悪いみたいだ」


 私は笑顔で答えたが、妻は怪訝な表情を浮かべた。当然その冷や汗の理由を説明する事は出来ない。「旅行中に事故死に見せかけて」などと思ったが、冷静に考えればそんなのは馬鹿な妄想以外の何物でも無く、こんな手間暇かけて私に何かをするなんて、全ては私の妄想だろう。高度なセキュリティシステムで守られている訳では無いのだから、家にいる時に始末すれば楽だし早いだろう。男達が笑った様に見えたのは気のせいだろう。つまらない妄想で危うく折角の旅行を台無しにしてしまう所だった。


 とはいえ、一度芽生えた疑念を払拭しないままの旅行は楽しめそうもなく、私は妻に気付かれぬよう間違ったふりをして、車内に設置してある緊急停止ボタンを押してみた。それは想定内か想定外か、はたまた案の定とも言うべきか、それを数回押しても、車は何の反応も見せずに進み続けた。


 私は妻に気付かれぬよう溜息をついた。やはりあの時男達が笑っていたのは見間違えでは無かった。いや、嗤っていたというべきだろうか。もうすぐ終わる私達を嘲笑を以って見送っていたのだ。だが今それが分かったとしても、私にはこの状況に抗う術が無い。私の体は400キロ弱。身一つで逃げる事も出来ないし、300キロの妻を抱えて逃げるなど到底不可能だ。ましてや100キロ近い体重の赤ん坊もいる。車は先のロボットが運転している訳では無く、全ては自動運転で行われている。運転手もおらず止める術もないその車は、ただひたすらに目的地へと向かって進むだけ。そしてその目的地は、私を含めた家族の終焉の地といった所だろうか。


「ねぇ、今日行く温泉って実は高級旅館らしいわよ? 得しちゃったわね」

「え? あ、ああ、そうだね。良い思い出になりそうだね」


 横向きに座るその車の中、私の隣には愛する妻、その隣奥には妻との愛の証しでもある大切な子供がソファの上でスヤスヤと寝ている。その子供にはもう手が届かない、2度と子供に触れられない。私達に逃げ場は無く、私の余計な好奇心が妻や子供を巻き込んだという悔恨が私を襲う。


「ちょっと何?」


 私は世界で一番愛おしい人の手をそっと握った。だが何年もした事も無い私のその行動を、妻は訝しんだ。


「夫婦なんだから手を繋いだっておかしい事では無いだろ?」

「何か怪しいわねぇ。何か後ろめたい事でもあるのかしら?」


「ははは、無いよそんな事。考えすぎだって」

「本当かしら? まあ、そんなに握りたいなら握らせてあげてもよろしくてよ? フフ」


 いじわるな笑みを浮かべながら妻は言った。世界一愛おしいその笑顔。もう2度と見る事が出来ないかも知れないその笑顔。思わず目頭が熱くなるのを感じ、決して涙など流さないように歯を食いしばり強く目を瞑る。


 知らなかったでは済まされない私の愚行。自分の愚かとも言える好奇心により、その笑顔を絶やす事になった。政府の思惑を知っていても食べ続けた。今を維持しようと食べ続け飲み続けた。痩せないように食べ続けた。事情を知らない妻や子供にも食べさせ続けた。だがそれは全て水泡に帰す事となった。そしてそれは全て私の所為。もう今の私では腹の肉が邪魔して妻を抱く事は出来ない。妻の腹の肉が邪魔して抱く事は出来ない。どんなに頑張っても、私の腕の長さでは妻を抱きしめるには短すぎ、手を握る事しか出来ない。もうそれ以外、何も出来ない。


「こうして君の手を握っているとホッとするよ」


 妻の手はとても暖かかった。ふと、私の脳裏に昔の出来事が浮かんだ。それはまだ子供が生まれる前の事、私の手が妻の5段腹に挟まれた時の事。私の手を挟んだ妻の肉は暖かかった。私が世界一愛する妻の手は、あの時同様に暖かかった。私はこの手の暖かさを忘れる事は無いだろう。例え今日全てが終わってしまうのだとしても、その暖かさを未来永劫忘れる事は無いだろう。


「ねぇ何なの? 言いたい事があるなら早く言いなさいよ」

「だから何も無いって」


 私はずっと目を瞑っていた。開けば涙が零れ落ちてしまう。だからもう妻の顔を見る事は出来ない。いっそ目を開いて流れる涙をそのままに、その涙の訳を、これから起こるであろう事を全て話すべきかとも思ったが、それを話したとてどうにか出来る訳でも無い。それはただただ妻を動揺させ悲観させるだけであり、最後とも言える今のこの時間を終える事になるだけだろう。ならば黙っている方が正しいだろう。妻からすれば、何が起こったのか分からないままに終えるのは不本意かも知れないが、私は今のこの時間を優先すると決めた。目を瞑り続けると決めた。


 夫婦の間でそんな重要な事を話せないような人間を夫と公言するのは口憚るが、それでも私は何時だって妻を想っている。とはいえそんな気持ちを口にするのは恥ずかしい。恥ずかしさを我慢し言ったとしても、きっと妻は笑うだろう。若しくは何か魂胆でもあるのかと勘繰られかねない。だがその気持ちを伝えられるのは今が最後かも知れない、恥ずかしがる時間すら無いかも知れない。いや、伝えられるのは今のこの瞬間しかきっと無い。


「なあ」

「何? やっぱり後ろめたい事でもあるの?」


「違うって」

「じゃあ何よ」

 

「君を愛してるよ」

「愛し……は?」


「こんな欺瞞と肥満に満ちた世界であっても、私は君を愛してるよ」

2020年03月23日 初版

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