一握りのパンを喰らうステレオタイプ
チャイムを押さなくてはならない。換気扇から名知らずの黄色い野花の香が、猪野田の顔に吹き掛けてくる。シャワーを浴びているかもしれず、やや脈拍は緩やかになった。おそらく、断定的に言えば「きっと」数人の同業者は雨後の筍のように顔を出したこの真新しいマンションを訪れただろう。それでもわたしは先ほど競合が残した指紋付きチャイムの、丸いボタンを押さなくてはならない。商売敵の垢も中で、――らしきものを浴びせ消し去ってしまえば良い。そんな想念に励まされながら、彼は押した。右腕の袖元から微風が上がった。甘いような電子音が鳴る。この音は隣人への警戒音にもなり、遠隔法のような音が周期を保って近づいて来ると勧誘人の訪れとばれる。だが彼らの雑菌はそのボタンに洗われるまで残る。家族の者はまず押すことはないから、几帳面な内妻でも清掃しないだろう。とどのつまりこの世の中には、二十年来の垢が付いたチャイムが無数なほど存在するということだ。まだ出て来ない。もう一度押してみよう。
何度も来ている。こちらも知っていた。「パン」をもらうためにだめ元だ。だから御用聞きは失敬極まりない。「しつこいぞ」と悪態をつかれる。京都からの転勤族らしき旦那の声で「まったく不愉快だわ」と郷土色豊かだ。旧財閥系企業の保険代理店なので紋切り型に愚痴をこぼされる程度だ。それはそのはずでテレビ電波に企業名が流れないことはない。一時間に一回はその企業名を聴くことになる。街を歩けばビルの広告塔や看板、旗のぼりがあった。言葉を覚えたばかりの幼児でさえ、その企業名を植え付けられる。この面白い放送番組は手前どもが提供し、あなた方へ贈る心からのしるしです。子孫代々、その恩恵は育まれ続ける。
金がある人間が世相を牛耳った。いっぽう金が無い猪野田は、その御加護を後頭部に浴びながら、勇気を出してそのボタンを押す。その瞬間一つ上の階から、男の声が響いた。麗らかな声で発せられたその言葉を猪野田は頭の中で繰り返した。たしかに「〇〇保険」と高らかに聴こえた。間違いなく敵の声である!……同じことを考え、同じような恥辱を抱き喰う同朋でもあった。気色が悪い。同じ人間である。だが一昨日やる気溢れる高齢者から、一足先に一握りのパンを取って行ったやつだ。事後事実上、認識されているだけの人間が、上にいる。ミスター上が発する文句も、月並みだった。猪野田はちらと、階段踊場の隙間から彼の髪型を見た。親しみ易い短髪である。良い御用達聞きだと思った。
間もなくインターフォーンから声が出た。
「……はいどなたでしょうか」
それから猪野田はミスター上と同じ文句を並べ立てた。あくまでもだめ元である。昨日、一昨日と同業者は再三再四、訪問したはずであった。そしてあえなくこの扉も、閉ざされたまま開くことは無かったのである。猪野田は自分自身が幽霊ではないかと思った。そしてミスター上が、わたしの体を遊体離脱して分裂した「〇〇保険」を名乗る生き物ではないだろうか。そしてこの資本主義社会で、喰らうという怨念のために出没したに違いないのだと。
霊界の人間と、この社会の人間とを隔てるのはパンがいるか、いらないかということに尽きると思う。
そして押してもだめならば引いてみろと開き直って、猪野田はこの世界をあとにして行った。