#005 碩学者のテーゼ
「あの……。職員室には、なんの用が?」
前を行く黒髪の背中に問いかける。目指すところは告げられても、その目的は未だ伏せられたままであったからだ。
「ああ、まだ言ってなかったわね。教頭先生にお願いをしにいくのよ……」
「教頭……?」
いきなり出てきた大物の名前に若干、心が縮こまる。
そもそもぼくは教頭先生の顔も名前もよくは知らない。教員の管理職と一般生徒の間柄では接点がなさすぎるからだ。
そう言えば、”審査を教頭に頼んだ”と先程、聞かされた。もしかすると、それが関係しているのか?
「あの……。ひとつ訊いてもいいですか?」
「どうしたの、そんなにあらたまって。生徒会の日常業務についてなら、心配しなくてもおいおい教えてあげるわ」
呼びかけに前を向いたまま先輩が答えた。
――いや、そうじゃない。
「謹んでお断りします……」
「優しく接すると噛み付いてくるなんて、しつけがなっていない証拠ね」
気を抜くと、すぐ飼い主になろうとする。多分、この状況も本人にとっては軽い散歩程度のつもりなのだろう。
「ぼくが知りたいのは、どうして審査を教頭先生が担当したのかということです」
「何か疑問点があるのかしら?」
「いえ……。でも普通は絵の良し悪しを決めるなら、美術の先生にでも選んでもらう方が自然だと思いまして」
気になったのは選考の結果よりも中身だった。
確かに美術部の部長さんの絵はよく描かれている。それでも投稿作品をくまなく見れば、ぼくと同じように校舎をデッサンしたあの絵が一番だと感じる人も幾人かはいるだろう。ましてや描いた本人にしてみれば、なぜ自分の作品が選ばれないのかという不満がきっと胸に燻るはずだ。
その時、評価を下したのが専門家である美術講師なら納得もいくだろう。だが、単に学校で二番目に偉い教頭先生だとしたら素直に割り切れるだろうか?
ぼくの疑問に副会長が廊下を進む足を緩め、隣に並んだ。そして、こちらに顔を向けながら少しからかうような表情で短くつぶやく。
「難しい顔をして、そんなことを考えていたの?」
「選考過程がブラインドである以上、理由は万人が納得できる内容でなければ後で遺恨が生じると思います。それでも教頭先生に審査を委ねた理由がわかりません」
思うところを率直に述べていく。
なぜ自分は、かくもこの問題に対して憤りを感じているのだろうか?
よくよく考えれば、つまるところは結果に異論があるからだ。
「でも、東堂くんは部長さんの絵をあれほど褒めていたじゃない?」
「それは作品単体としての評価ですよ。他に並べて比べるのなら、別の意見があります」
「意外に強情なのね。ちなみに教頭先生の選評はほとんどあなたと同じだったわ」
伝えられた事実に思わず閉口した。
作品に対するぼくの印象と教頭の選考評をこっそり比較検討していたのか……。
「教頭先生はもうひとつの絵について、どのような見解なのですか?」
「悪いけど、個々の作品についてのコメントはうかがっていないわ。あくまでも最優秀に選出されたものについてだけなの。でも、きっとそれなりのお考えがあって作品の優劣を判定しているはずよ。」
「……本当にそうでしょうか」
「長く教職を続けているということは、たとえ専門外であっても様々な経験を通じて物事に長けているものなの。そうでなければ、たくさんの教員を動かして学校運営を統括していくことなんて出来るわけがないわよ」
そう語って、また先頭を歩き始めた副会長。そのうしろを付いていきながら、いまだ気持ちが晴れないぼくは静かに校舎を移動していた。やがて視界の中に【職員室】のプレートが見えてくる。
「そう言えば、教頭先生に一体、なんの用事ですか?」
いまにも扉に手を掛けようとしていた先輩に向かい、根本的な問いかけを投げかけた。ここに至って、まだ自分は職員室を訪れた理由を知らない。
「あら、言ってなかったかしら? きみが随分とあの絵に肩入れするから、すっかりここへ来た目的を承知しているのだと思っていたわ、ごめんなさい」
麗しき笑みを浮かべながら勘違いによる連絡ミスを申し訳なさそうに詫てくる。だが、ぼくは彼女が決してそのようなケアレスミスを起こす人物ではないと知っていた。なので、これも用意周到に準備された陥穽であることを念頭に置いておく。
「教頭先生に審査結果の再考をお願いするためよ」
さらりと告げて扉を開ける。「失礼いたします」と小声で挨拶しながら一礼をし、彼女は職員室の中へと消えていった。
残されたぼくはどうしたらいいのか皆目、見当がつかず、ただただ呆然としていた。どういうことだ?
◇◇◇
副会長が職員室を我が物顔で闊歩していく。
堂々と進み続け、奥まった机の前に到着した。
ぼくはそのうしろを従者のようについて回り、いつしか『教頭』と役職を示すテトラポストが置かれた事務机を目の前にする。
「教頭先生、本日もお疲れ様です」
「おや、石神くん? お疲れ様……」
書類に目を落としていた男性がかけられた声に気づいて顔を上げた。
白髪混じりの頭髪に銀縁のメガネ。痩けた頬と顔に刻まれた深めのシワが年配者であることを強く現している。
「文化祭の準備の方はどうだね?」
「万事、つつがなく……と言いたいところですが、『世に騒動の種は尽きまじ』とは、いつの時代も変わりありません」
教頭先生に向かい、優雅な語り口で日々の奮闘を訴える。
眉目秀麗な女の子にリーダーとしての気苦労を伝えられ、相手はわずかに頬を緩めた。
教師と生徒という立場の違いを超え、同じ管理者としての境遇は相通ずるものがあるのだろうか?
「君たち生徒会が頑張って事前チェックを行うことで企画の安全性が確保されている。おかげで学校側としては安心して文化祭を迎えられるよ。生徒の自主性を可能な限り尊重するという、わたしの理想を本来の意味で実現できているのは、石神くんのおかげだ」
「そのように過分な評価をいただきますと恐縮いたします。ですが、わたしたちが自由に活動できますのも、先生方のご指導の賜物ですわ。今後ともよろしくお願いいたします……」
流暢に年配者へ応答し、小さく頭を下げる。
――なるほど、これが社交辞令か!
あまりにもこなれた副会長の様子に驚くと言うか呆れてしまった。
よくもまあ、これだけライオンが猫をかぶれるものだ……。
「うしろの君は……」
そして、教頭先生の視線が後方で借りてきた猫のようにおとなしくしているぼくに向けられた。
「彼は一学年の生徒で、文化祭実行委員の東堂くんです。いまは特別に実行委員会と生徒会の連絡係として頑張ってもらっています」
「ほう……。さすがは石神くんだね。後進の育成にも手抜かりはないというわけか」
「業務にとても積極的でありがたい存在ですわ。生徒会だけでは到底、手が回りませんので……」
なんだか妙な感じで持ち上げられている。
騙されてここに連れてこられたとは、口が裂けても告げられない雰囲気だった。
「東堂くんか。いや、すまないね。まだ、一年生の子は顔と名前が完全に一致していないんだ。石神くんのそばでこれからも頑張ってくれたまえ」
あれ? なぜか完全に副会長の部下として認識されてしまった。
しかし、教頭先生ともなると全校生徒の氏名と顔を完全に覚えてしまうものなのか……。さすがである。
「それで、今日は何か用件があるのかな?」
視線を戻し、用向きを質した教頭。その声に少しだけ真剣な表情を滲ませた副会長がおもんばかったように語りかける。
「実は教頭先生にどうしてもお願いしたいことがあって参りました……」
「おやおや、どうしたんだい。そんな難しい顔をして? 君の頼みとあらば、わたしとしては可能な限りに喜んで協力させてもらうよ」
しっかりと言質を取った後、副会長は背筋をまっすぐに伸ばして自らの求めるところを口に出した。
「先生に審査をお願いした文化祭の【ポスターコンテスト】について、実行委員会より受賞結果を疑問視する声が上がりました。この件に関しましては、募集が委員会の主催となっておりますので、生徒会といたしましても放置するわけに参りません。まことに心苦しいのですが、実行委員会の代表者の意見をお聞きになった上で再考いただければと存じます」
流れるような口調でとうとうと事情を訴えていく。しかも微妙に生徒会側の責任は回避しながらだ。
まるであらかじめ発言内容を推敲していたような語り口……。
いや、明らかに彼女は最初からどのように話を持っていくのかを十分に計算していた。
「ほう……。わたしの審査に異論があるわけかな?」
「他にふさわしい作品があるというのが彼らの主張ですわ」
「具体的には?」
「校舎を描いた作品こそがもっとも受賞に相応しいと言う声が、委員会より寄せられております」
副会長の言葉に教頭先生は不意にかけていたメガネを外した。
そして、レンズ越しではない裸眼でぼくたちの方を見据える。
「なるほど。そういった意見が上がるのも理解は出来る。だが、なにゆえに彼の作品がわたしの選んだ受賞作より優れているのか、一応は納得がいく説明を受けてみたい気がする……。単に好き嫌いというのであれば、それこそ公開審査でもして、多くの支持を集めた作品を代表とすればいいのだ。そうは考えないかね、石神くん?」
一見すると落ち着いた口調で生徒からの要望に応じてみせた教頭先生。
でも、その目は決して笑っておらず、自身の判断に逆らうものを白日のもとで喝破してやろうと待ち構えているようだった。
「もちろんですわ。教頭先生のご見識に異議を唱える以上、明確に納得できる理由がなければ、そもそも審査の結果を覆すことなどあってはなりません。それらを踏まえて代表者からの説明を行いたいと存じます……」
受けた副会長は慇懃に答えながら、いつの間にか机から距離を保ち、ぼくの真横に並んでいる。そして、よそから見えないようにコッソリと肘先でこちらの腕を小突いた。
――はああああああっ!
ひょっとして、ぼくを連れてきたのはこのためか?
「なるほど……。君が実行委員会側の代表者というわけだな、東堂くん?」
鋭いまなざしが一瞬にしてぼくの姿をとらえる。
ただそれだけで体は蛇に睨まれたカエルのように激しく強張った。
「い、いえ……。その、ぼくは決して教頭先生の決定に逆らうつもりでは……」
「ハハハ……。何も大人気なく相手をやりこめてやろうなどと思っているわけではないよ。一教員として生徒の言葉に虚心胆懐、耳を傾け、お互いの思うところを存分に語り合おうとしているだけだ。安心しなさい」
やさしい言葉でぼくの発言を促そうとしている教頭先生。
でも、その視線はいささかも揺らぐことなく、こちらの心を見透かすように強い眼光が放たれていた。
――先生、態度と裏腹に目が笑っていませんよ……。
そんな慌てふためく自分の様子をただただ嬉しそうに横目で眺めている魔女がいた。かぶった皮まで『猫又』とは、とんでもない妖怪変化である。
こうしてぼくは自らが望んだわけでもないのに、むざむざとお皿に並べられた油揚げよろしく、古狐を誘い出すための餌とされた。
あとはもう、自身と引き換えに相手を罠にはめるしか手段は残されていないのである。