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BLANCA  作者:
43/56

Extra Track 08 聖夜

 飛び込んだはずみに、店のドアベルがからんと大きな音を立てた。

 窓際の席で本を開き、深緑の万年筆を頤にあてていた少女が顔を上げる。瞬いた若葉翠の眸がふんわり緩むのと、「ごめん」と息を切らした彼が彼女のもとに駆け寄るのは同時だった。


「こんなに遅くなると思わなかったから……、ごはんもう、食べた?」

「ううん」


 彼女は首を振って、「お茶だけ」とテーブルに置かれた茶器に目を落とす。おそらく何度か替えられたのであろうポットはけれど、もうすっかり冷たくなっているようだった。すこし遅れそう、という言伝を彼がメッセンジャーの少年を捕まえて持たせてからゆうに数時間は経っている。帰ってくれていたらよかったのだけれど、彼女の性格を熟知している彼はきっと待っているだろうな、という予感がしていて、約束をした店に走ってゆけば、彼女はやはりひとりきりでそこに座っていた。

 聖夜のカフェにたったひとりきり。


「ごめん」

「いいよ」


 彼女は苦笑して、彼の釦のかみ合っていないコートを直した。テーブルに出していた本やノートを片付け、コートを取って、出ようか、と彼を促す。壁に掛けられた時計を見れば、すでに二十三時を回り、給仕の青年がテーブルを飾った造花や赤いキャンドルといったものをしまい始めていた。


 こういったことは彼と彼女にはしばしばあった。

 この夏からサン=トワ通り軍付属病院で看護婦として働き始めた彼女自身もまた、忙しい身の上ではあったけれど、たいていは彼のほうが自分からした約束を破った。そのたび彼は彼女にごめんと謝り、彼女は苦笑して、いいよとそれを許す。そんな栓のないことを飽くことなく幾度も繰り返してしまっている。

 店はどこもしまっていた。かといって、家に買い置いている食材もあまりない。結局、彼らは付き合いの深い女主人の営む酒場を訪ねた。幸いにも店はまだ開いていて、酒と煙草のにおいがぷんと籠もった、帰りそびれた酔いどれだらけの店の片隅に座る。


「あんたこんな日に、こんな店に恋人連れてくるんじゃないよ」


 木偶ったらありゃしない、と女主人はたいそう不機嫌そうに、けれど、宵口にふるまったクランベリージャムの添えられたローストチキンの残りや、かろうじて出すことのできたサラダやチーズといったものを並べてくれた。淡い黄金色のシャンパン。気泡をあげるそれだけが、かろうじて聖夜らしい。

 コートを椅子にかけた彼女はふわふわの白いセーターを着て、ようやく胸にかかるくらいになったアッシュグレイの髪を左にまとめ、シュシュを巻いている。髪のかかる耳たぶに挿された真珠のイヤリング。珍しくおしゃれをした彼女が、煙草の煙でけふんと咳をしているのを見ると、彼は少しやるせなくなる。


 店を出る頃には零時に近かった。見上げた空は凍てついて昏く、銀砂をまぶしたような星ばかりが瞬いている。吐く息は白かった。


「きれいだね」


 シャンパンのせいか、頬をうすべに色に上気させ、彼女は天を仰ぐ。


「リユンは、明日もおしごと?」

「そうなっちゃうなぁ。早く帰ってこれたらいいんだけど」


 嘆息すると、そう、と彼女はうなずいた。


「ごめんね、ブランカ」


 数歩前を歩く彼女の背中から目を伏せて呟く。

 聖誕祭である明日は祝日であり、彼女は休みをもらえたようだが、彼のほうはそうはいかなそうだった。思い返せば、彼は聖誕祭も、その前夜も、彼女と家でのんびり過ごせた試しがない。彼女が今よりずっと幼く、彼が父親の役割をしていた頃からそうで、彼は彼女より早く家に帰り、おかえりなさいと言ってあげることすらほとんど叶わなかった。本当はさみしがりの彼女と一緒にいてあげられる時間だって、きっと他の家よりもずっと少なかったにちがいない。

 彼女はそれについて一度だって彼を責めることはなく、彼もまたそんな彼女にずっと甘えてきてしまったけれど、きっとこの先も、よそに比すれば、自分はできの悪い恋人であり、伴侶である気がしてならなかった。


「リユン」


 不意に伸ばされた彼女の手のひらがそっと彼の手のひらをくるむ。冷たくなった指先を折って、彼女は胡桃色のコートのポケットへと彼の手をしまいこんだ。「さむくない?」と訊いてくるので、瞑目したのち、うん、あったかいよ、とうなずく。彼女は若葉翠の眸をゆるやかに細めて、彼のコートの肩口に頭を擦り寄せた。


「じゃあ、帰るまでこのままね」


 睫毛を伏せて、そんな風に彼女が甘やかに微笑むものだから。胸のうちに凝っていたものまでもしまいこまれた気がして、彼はつくづくこのむすめにはかなわない、と思う。うすべに色の頬を引き寄せて、ふわりと口付けた。それから、真珠色の石の挿されたましろい耳たぶをなぞり、また蜜の刷かれた唇を啄ばむ。溶けるような蜜の甘さを味わってから離すと、彼女は朱色の差した眦を非難がましく細める。


「キミが可愛すぎるのがいけない」


 すこしわらい、あいしてるよ、と彼は彼女の額に口付けを降らした。手を繋いで、日告げの鐘の鳴り始めた道を歩き出す。今度はふたり、一緒に。

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