嫌な空間
短編ホラー第2弾です。
誰もが一度は感じた事のあるものに着目してみました。
「追加かな……」
仰向けのまま、手慣れた様子で枕元を弄りスマホを手に取る。時刻を確認すると午前3時を過ぎたところだ。外はまだ暗い。
ベッドに入ったのは午後10時ごろだっただろうか。近頃、不眠気味な俺は就寝前になると浴びるように酒を飲み、半ば気絶するかのようにベッドに倒れ込まないとなかなか眠れない体質になってしまっていた。
とりわけ今のように中途半端な時間帯に目を覚ますと、酒の力を借りずに再び眠りにつくのは至難の技なのだ。
冷蔵庫を開けて中を確認すると、どうやら昨夜に飲んだ分で酒のストックは無くなっていたらしい。遠ければ諦めもつくのだが一番近いコンビニまで歩いて10分あまり。軽く舌打ちをして、外出の準備をする。
田舎とも都会とも言い難い、そこまでの不便は感じないが、住みやすいとも言えない、なんとも微妙な街に俺は住んでいる。
小さな団地の袋小路、その一番奥に俺の自宅はあり、真っ直ぐ歩いた先にある大通りの向かいにコンビニがある。
冬も近いせいか外は予想よりもずっと暗く、未だに街灯の光が歪な円を形作っている。そこに、それはあった。
街灯が照らし出すガードレールの切れ目。
俺は勝手に"嫌な空間"と呼んでいる。はたから見ればごく普通のガードレールなのだが、二つのガードレールの間にある街灯とその真下、何も無いはずのその空間に昔からなぜか目がいってしまう。
日中ならまだしも、夜になると一層怖い。
暗闇の中、街灯の光のせいでくっきりと見えてしまうその空間が、たまらなく不気味に思えてくる。俺からすれば、照らされている方が怖いのだ。
しかし、ここは自宅に続く唯一の一本道。どうしてもこの道を通らなければ外出も帰宅も出来ない。何十年も通っているが、未だにあの空間だけは違和感を感じずにはいられない。
"だからといって今までに何が起きたわけでも無いし、噂話すら聞いた事は無い"
おまじないのようにいつもの言葉を頭の中で繰り返すが、できるだけ離れられるようにその空間の反対側を歩く。
ほら。何も無いじゃないか。
街灯の下に何者かが立っているとか、ガードレールに血がこびりついているとか、そんな事は何も無い。
いつもの不気味な、何も無い空間だ。
その場を通り過ぎ、俺はコンビニへと急ぐ。帰りはまたあの道を使わなければならないのだから。
しばらくして無事コンビニに着き、店内の照明や明るいBGMにしばし癒される。そしてお目当の酒とつまみを購入し、店を出る。 俺は我慢が出来なくなり、買ったばかりの缶ビールを取り出して喉に流し込んだ。
深夜という事もあってか、大通りには車の姿も人影も何一つ見当たらない。いっそ空が白むまでここにいようかとも思ったが、万が一警察に職務質問された時の返しが"家路が怖くて帰れない"ではなんとも格好がつかない。
意を決して自宅へ向かうが、酒のおかげか恐怖心はいくらか和らぎ、ほろ酔い気分で一本道に入る。
道を挟んで反対側、例の空間がちょうど真横にあたる位置で、俺は足を止めた。
"カチン、カチン、カチン"
ん?なんの音だ?
金属が風に揺られて何かにぶつかっているような、小さな音。風なんか吹いていないのに。
俺は反射的にガードレールに目を移す。
何もない。
"カチン、カチン、カチン"
空耳にしては嫌にはっきりとした音だ。途端に気味が悪くなり、足早にその場を去ろうとしたその時だった。
"カチャン"
ガードレールの真ん中、街灯が設置されている電信柱の上から何かが落ちてきた。
それは、小さなキーホルダーだった。
金属部分はひどく錆びついており、更に持ち手の部分に付いている人型のキャラクターを覆うように血がべっとりと付いている。
「ッ!!!?」
今すぐ走り出して自宅に向かいたいのに、恐怖で足がすくんで動かない。
全身に悪寒を感じながらそのキーホルダーを凝視していると、街灯の光が何かに遮られたかのように急に狭まった。
「◯◯◯チャン、◯◯◯チャン、イタイ、イタイ、◯◯◯チャン……」
街灯の横から血まみれの少女の顔がぬっと現れ、電信柱にしがみつきながら腕を伸ばしてそのキーホルダーを拾おうとしている。
「◯◯◯チャン、イタイ、◯◯◯チャン……!!」
(やばい、やばい、やばい!!!!)
危機感が恐怖心を上回ったのだろう。ここでやっと身体が動いた。俺は脇目も振らず一目散に走り出した。
自宅の玄関を開けて滑り込むように入ると、すぐに鍵をかける。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
信じられないくらいに激しく、吐き気を催すほどの強烈な心臓の鼓動を感じる。
家中の電気を点けてリビングの隅でがたがたと震えていると、いつしか俺は意識を失ってしまった。
気がつくと既に夜は明けており、俺はソファに寝かされていた。
「あんた、大丈夫なの!?」
目を覚ましたのに気付いた母が心配そうに駆け寄って来た。母の顔を見てようやく緊張感がほぐれた俺は、昨夜起こった出来事の一部始終を話した。
俺はどうにも体調が優れず、その日は仕事を休んだ。
翌日、母は近所の人間にも俺が見た少女の事を聞いてみたらしいが、誰一人としてそのようなものは今まで見た事も聞いた事も無いという。
俺は精神的に参ってしまい、更に自宅のごく僅かな距離で起こった出来事というのもあって、両親の勧めで隣町に住む祖母の家に一時的に住まわせてもらう事になった。
祖母の家に着いたその夜、改めてその話をすると祖母は何か心当たりがあるようだった。
今から60年ほど前、一組の外国人家族があの団地近くに移り住んで来た。しかしある時、小学生の娘が登校中に大型トラックに跳ね飛ばされて命を落としてしまったというのだ。
祖母の見た当時の新聞によれば、電信柱のボルト部分に跳ね飛ばされた少女の身体が突き刺さり、その真下は流れ出る大量の血と肉片、彼女の所持していた荷物などがボトボトと落ちて不気味な血だまりになっていたそうだ。
「あの頃はここらもそんなに人も住んでなくて、地域開発かなんかでトラックが沢山走っててねぇ……」
祖母の話を聞いて、俺は直感した。やはり俺が見た少女は、その子だったのだろう。
異国の地で子供を失った親の心情を察すれば、いつまでもその場所に住む事に耐えられずに他の地へ移り住んでいったとしても何らおかしくはない。
当時は騒がれた事件であったとしても、被害者家族もおらず、おまけに現場近くに家も無い、何の変哲もないただの原っぱのような場所なら、いつしか時が経って噂が立ち消えになるのも自然の道理だ。
あの血まみれの少女は祖国からも時代からも取り残され、何十年もあの場所で、ひとり苦しんでいたのだ。
しばらくして、俺は自宅に戻った。
相変わらずあの場所を通りながら、なんとか普段通りの生活を続けられている。
"気になっている場所に必要以上に視線を送る事は絶対にするな"
これは、祖母の友人の忠告だ。
祖母には霊感の強い友人がおり、例の出来事について祖母が相談したところ、この忠告に加えてこんな事を言っていたという。
"人の視線はあらゆる思念の集合体みたいなもので、その思念の集合体は血まみれの少女のような『実体のない者達』も送る事が出来る。
その視線と視線が合わさった時。
多くの場合は何も起こらない。
だが…………"
俺の場合は物心のついた時から実に二十年以上、あの場所に視線を送っていた事になる。
これがかなりまずかったらしい。
視線の中に込められた思念が何十年にも渡って蓄積されたため、霊感の全く無かった俺の前でも彼女は姿を表す事が出来てしまったのだ。
「お祓いを済ませておいた方が良い。これ以上"繋がり"が強くなると、誰の手にも負えなくなるかもしれない」
その言葉を聞いて、俺はしばらく震えが止まらなかった。
ーーその日は風の強い日だった。
会社の忘年会で帰りが遅くなり、俺はすっかり暗くなった路地を千鳥足で歩いていた。
年末年始の予定はどうしようか、などと考えながら自宅へ繋がる一本道に差し掛かったその時だった。
"カチン、カチン、カチン"
「うわぁ!!?」
ギョッとして俺はその音がする方向へ意識を向けた。
音の正体は例の電信柱の一本手前、別の電信柱の突起に掛けられたビニール傘のぶつかる音だった。
「ビビったぁ、ちくしょう!」
お祓いを済ませていたにも関わらず、やはりこの近辺を通る時は神経が過敏になってしまう。
悪態をついてその場を通り過ぎようとした時、俺は微かな違和感を感じた。
強風で電気系統がイカれたのか。
街灯が消えてる。
あんなに不気味だと思っていた街灯の明るさが無い。
でも、一つだけ消えてるなんて事、あるのか?
あっ……
街灯と街灯の間に作られた真っ黒な闇に、ひしゃげた顔面と血に染まった真っ赤な手が浮かび上がる。
苦しそうに、押し潰されたカエルのような声で。
まるで覚えたてのようなたどたどしい言葉で、ごぼごぼと血の泡を滴らせながら少女が呻く。
「オカアチャン、イタイ、オカアチャン、イタイ、オカアチャン、イタイ、オカアチャン、イタイ、オカアチャン、イタイ、イタイ、イタイ、イタイ、イタイ」