68話 無力に苛まれた僕
いつか、父イヴァンと夜明けの綺麗なシーガへと行ったことがあった。それは酷く美しく、心を打つもので、まるで幼いレヴィを死が包み込んだような、そんな景色だった。
何故、死なのか。
死直前に見る景色は、生の間に見てきた景色よりも美しいと、この帝都では言われている。実際、夜明けを見てレヴィが思ったのもまさにその通りだったから、齟齬は無い。
――その時のことを、思い出していた。美しく広がる夜明けと鏡。それらが微妙にズレることで、見事なコントラストを生み、見るもの全てを圧巻させるような。そんな美を見た。
だが次の瞬間、世界は歪曲した。
美しく、どこまでも広がっていた景色はいつの間にやら砕け、捻れ、ゼロに還元され、最後には暗闇の中にレヴィがただ一人、取り残されているだけだった。
誰かを呼びたいが、声が出ない。どこにも行けず、ただ呆然とその場に立ち尽くしていた。もう上も下も、右も左も分からないその世界。まるで俗に言う「ムジュウリョク」のような感覚だった。
世界は明転した。急な稲光のような光が、レヴィを包み込み、目の前の世界を映し出す。そこに広がっていたのは――。
床に打ち付けられたミーナと、レヴィ、そしてアリスや傭兵達の姿。そして彼らに忍び寄る、大きな黒い蛇――あの時の“unknown”だった。
「やめろ」と叫ぶも、声は出ない。
「頼むから」と縋っても、手は伸ばせない。
「なんでだよ」と怒りを湧き立てようとしても、そんな感情が湧いてこない。
湧いてくるのは、負の感情――絶望だけだった。
素早くミーナに近付く“unknown”。だがその時間も、レヴィにとってはとても長い時間に感じられた。
次の瞬間、ミーナが目覚めた。目をパチクリと開き、閉じ、目の前に佇む蛇を凝視する。まだ良く見えないのか、目を擦り、意識の覚醒を図る。
彼女の口から漏れたのはただ一言、「ぁ」。
蛇が身体中から沢山の棘、触手を出し、ミーナの目の前に翳す。
死を直感したミーナは、口をぱくぱくと開け閉めした後、涙を一粒流しながら言った。
「イルマ、元――」
「――ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
風にも似た感触が、今まで感覚のなかったレヴィの頬を撫ぜる。
その瞬間、ミーナの上顎が吹き飛び、手が千切れ、内蔵を抉り出された。身体中から鮮血が吹き出し、所々白い骨が見え、神経なのか何なのか分からないような黄色い液体や白い筋。それらが、蛇の触手や棘の放つ風によってふわふわと揺れた。
声が出、体も顕現した。なのに、動くことが出来ない。ただ身体中の感覚はあり、瞬きも出来る。なのに体がピクリとも動かない。
「あぅ……おぇ……ぐべぁッ!」
胃の中身を全て外にぶちまけてしまうが、体を斜めに向けることすら叶わず、背筋を伸ばした状態で、口から吐瀉物を吹き出す。それらが顎を、喉を、服の中を伝い、地面へと広がっていく。
吐瀉物特有の臭いと、吐いた後のスッキリ感が混じりあって変な感覚だった。
「なんで……なんで僕の周りの人間だけえッ! おかしいだろうがッ! なんで! なんで! なんでなんでなんでなんでなん――」
そろそろ言動の自由の制限時間が来たらしい。この暗闇世界はレヴィを捉え、離さない。実際に起きた悪夢のような出来事を次々に目の前で見せ、彼を壊すのが目的だからだ。
再び世界が暗転した。
――次はなんだよ……。
世界が明転した。
そこには、倒れ、腹から血を流すレイラとリイラの姿があった。
「うあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」
猛り叫びながら、死肉を漁る。
――食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない食べたくない。
願っても、レヴィの体は言うことを聞かない。
咀嚼する。
咀嚼する。
咀嚼する。
その繰り返しで。
もう、自我が保てない。
「いや、待てよ! なんで! なんでお前がレイラを殺すんだよ! 意味わかんねぇよ!」
「ぅあ?」
咀嚼していたレヴィが、レヴィに振り返る。咀嚼していたレヴィの目の前に置かれたレイラの死体には蠅が集っており、見るに堪えない状況だ。それを見たレヴィは嗚咽感に苛まれる。
「ぅ……な、なぁ……頼むから……レイラも、リイラさんも、食べないでくれ……戻れないのは知ってる! で、でも!」
「……やだね!」
咀嚼。
咀嚼。
咀嚼、そして吐いた。
まるで叱られて、「外に行っちゃダメ!」と言う親に、幼児が言うように、そんな軽い感覚で、咀嚼するレヴィは言った。
頭に血が登るまでもない。
ただレヴィは立ち尽くすだけで。
涙も出ない。嗚咽も出ない。ため息すら、出て来なかった。
「――ぅん?」
「――君?」
「レヴィ君?」
目が、
覚めた。




