66話 不幸中の幸い
「――また……か」
目が覚めると、天井が目の前に広がっていた。こうして、レヴィが目覚める度に天井を眺めて、覚醒したことを実感するのは多々あることであり、特別珍しいことではない。だが、レヴィは少々驚きを覚えた。
それは自分の行動云々ではなく、天井が見知らぬものだったことが原因であった。ただ、一つの感覚。視覚だけではここがどこか分からないものだが、第二の感覚。嗅覚があればここがどこか分かる。だがその理解にも、その嗅覚を持っている人間による。
――アリスの匂いだ。洗剤がレヴィとアリスで別だということもないのに、彼女にはいつも甘い、穏やかな香りが纏わっている。亡くなった母親のような、しかし恋人のような不思議な香り。それが部屋中に充満していれば、それは彼女の部屋に相違ないのだろう。
「安静に。今度こそ、もうどこにも行かないでください」
「起きて早々その言葉とは、辛辣だね」
起きて早々、安静になんて言われれば動きたくなる衝動に駆られるのは仕方の無いことだ。天邪鬼な訳ではなく、何というのか――アリスの指示通りに動くのは負けた気がするのだ。
心の中で有耶無耶とした気持ちを整理しているうちに、彼は自然と体を起こして背もたれにもたれかかっていた。
それには流石にアリスも苦笑いし、目を伏せた。しかし、レヴィの言葉を思い出したかのように目線を上げると、
「辛辣ですか? そんなつもりは無いんですけどね」
「そう? 故意だと思うんだけど」
無意識に辛辣な言葉を述べる。それは昔から変わらない彼女の癖だ。どれだけ注意しても、毒舌やその類は直らなかった。
最近となっては、立て続けに事が起きた為に揶揄いは減った。ミーナが死んでからだったのかもしれない。少しは自重するようになったのか、それとも相当ショックが大きかったのか、どちらにせよ、あの日から少しずつ彼女の歯車が狂っていった気がする。
突然怒り出したり、泣き出したり、叫んだり、フレイ――レッカとの戦いの後では、相当心にダメージを被ったのか髪も白髪になってしまった。
だが、目の前の彼女のはにかんだ笑顔を見るに、彼女が変わっていったのは精神的なダメージやショックが原因ではないらしい。何かしらの力が彼女に作用しているのか、誰かが彼女をそうしようと企んでいるのか。
何にせよ、彼女が笑顔で過ごし、いつまでもは無理でも、せめてレヴィが死ぬまでは生きて欲しい。それがレヴィの願いだ。それを実現する為なら、片腕が無い状態でももう一度あの黒鴉に挑んでやってもいい。そんな気概だった。
そんなレヴィの思いや決意を他所に、アリスはレヴィの心を崩すような笑顔で言った。
「違いますよ。私は自分の気持ちに素直になっただけです。どこにも行かないでって」
「二回言われると違うようにも感じるな、確かに。うん」
実際は、彼女の今の言葉に胸を打たれた。それはもう心臓が破裂しそうな程に愛おしく感じられた。
それを隠す為の言葉の羅列はちゃんとフェイクの役目を全うしてくれているだろうか。キスまでしておいて何だが、未だに彼女に正面から「好き」だと、そういう素振りを見せるのは恥ずかしい。まだ子供だ。
アリスはまた、レヴィの気持ちなど素知らぬような表情で、自身の指をごにょごにょとしながら言った。
「そういえば、何か悪い夢でも見てましたか? 物凄く魘されてましたよ」
「いつもな気もするけど」
そうだ。レヴィが悪夢に魘されるのは、何も今に始まったことではない。今日の悪夢はもう忘れてしまったが、過去に見た衝撃的な悪夢のことは忘れない。
征伐戦の前日。初めて見た悪夢は、翌日の状況をそっくりそのまま投影したようなものだった。ミーナが死に、傭兵達は皆殺し。自分も瀕死になってヴェリュルスと出会う――最初から最後まで、何から何までが悪夢の通りだった。それに気付いた時は恐ろしさで体が竦み上がった。
思えば、レイラやリイラを自分の手で殺めてしまうなんて悪夢もあったような気がする。
どうやらレヴィは天然の悪夢体質のようだ。今の所、アリスやリリィ、五姉妹がいなくなるといった夢を見ていないことがせめてもの救いだ。
レヴィが悪夢体質だということを告白すると、アリスはあわあわと慌てながら咄嗟に、
「い、いつもなんですか? 添い寝でもしたら治りますか?」
「やめてくれ。また誤解が起きる」
そんなことをすれば、またリリィに泣きつかれ、五姉妹は幼稚らしく冷やかしにかかる。挙げ句の果てには屋敷中のメイドも呼ばれ、結婚式だといって準備される。まぁ、リリィ以外は冗談だということを分かっての行動だろうが、それに一々付き合うことが面倒でならない。
出来ることなら、誤解は無い方が楽だ。アリスもそれを望んでいるはずで――。
「誤解? 誤解なんてされませんよ」
「何で?」
「何でって……キスまでした仲じゃないですか。しかも、もう何年も一緒です。何も誤解されることなんて無いですよ」
つまり彼女が言いたいことは、もう冷やかされてもいいじゃないかと。冗談の関係ではないんだと、そう言いたいのだ。
このタイミングで、ついて今朝リリィとキスをした、なんてことを言ったら彼女はどんな顔をするだろうか。怒るか、泣くか、まぁそんな野暮はしないのだが。
アリスが一方的に好意を抱いているのなら、この誘いに似たものは受けるべきだろう。だが、未だレヴィの気持ちは揺れ動いている。一度は許嫁を解約したリリィでさえ、最近は愛おしく感じられるようになってしまった。レイラだって、まだ戻ってきていない。全てを決めるのは、全員が揃った時。それも、全員の体調、心的状況が整っている時に限られる。
――まだ、ダメだ。
「――そっか、まぁいいや。……聞きたいことがいくつかあるんだけど、いい?」
「何なりと。まぁ察しはついてますが」
ベッドに埋まっていた右腕に感覚があった。シャツの袖の感覚もあった。
魔法で直してもらったのなら、この短時間で傷口が治るはずもない。傷口を見るのが嫌だからという理由に託けて、レヴィは袖を捲るのを止めた。
指の先までしっかり治っているのは、明らかに魔法の力ではない。だが、一応聞いておく必要もある。
ベッドから長袖に覆われた右腕を引っ張り出し、それをアリスに見せて言った。
「腕はアリス、君が?」
「いいえ。そう聞かれると思って、一応体内魔力の確認を行いましたが、変化はありませんでした」
魔力を使った後の体内魔力の増減は、魔法が使えない人間でも分かる。その詳細は魔法使い本人にしか分からないのが普通だ。
アリスは自身の魔力量を測り、しかしそれが減っても増えてもいないことを確認したと言う。
「そう……か。じゃあ、僕……なのかな」
「……邪精霊の力なんですかね」
まだ邪精霊が残っている。それはヴェリュルスからも聞いたし、自身でも少しは懸念していた部分でもある。力が増すのはいいことだが、それに伴って狂人に成り下がるなんてことは流石にごめんだ。
もしもレヴィ自身で腕を再生したというならば、メリットは大きく二つだ。力の増幅。そして自己再生能力。その二つがあれば、大抵の敵は倒せるだろう。無論、黒鴉などの強大な敵を除いてだが。
「そうなんだろうね。でも、仰望師団って自然再生能力、あったっけ? それとも僕の邪精霊が特別なだけ?」
「カルヴィンは持ってませんでしたね。シリルは……レイラさんが殺っちゃったから分かりませんけど、あの焦りようからして彼も同様かと」
過去に対峙した仰望師団は、怪我をした時に自己再生はしなかった。レッカがレヴィに与えた邪精霊の特殊能力なのか、それとも。
「じゃあ僕の……フレイ君の邪精霊が特別なだけか。邪精霊にしては力が強大過ぎるような気もするけど……あ」
記憶を辿っていくと、その名の通り思い当たる節が見つかった。
レッカ戦――アリスが忽然と姿を消し、レヴィとレッカの二人だけになった時。あの時、彼は確かにこう言った。「お前、精霊隠し持ってんだろ」、と。
「? 何ですか?」
「そういえばあの時、フレイ君が何か言ってたんだ。僕が元々精霊を持ってるとか何とか。あれってもしかして……」
精霊をもし、レヴィが元々持っていたとしたら、何かしらの能力が働くはずだから、確信は持てないが、もし邪精霊と精霊が融合でもして、真の力を発揮する――なんてことが起きれば。なんていうのは単なる望みだが、起きないことは無いかもしれない。
「もしかして?」
「もし、彼の言う通り僕が精霊を持っているなら、精霊と邪精霊が合体して力が強大に――なんてことはないか……」
一度言葉に出して言うも、やはりその言葉は間違っていたと知る。
「まず何でレヴィ君が精霊を持っているのか、そして何でフレイ君がそれを知っていたのかが分かりませんね。まぁ仮にレヴィ君がそれを持っていたのなら、既に何かしらの能力が働いているはずです」
そうなのだ。もし本当にレヴィが精霊を持っているのなら、能力が。少なくとも魔法を使えるくらいの力はあるはずなのだ。もしかしたら、その力が逆に働いて、
「何かしらの能力……魔法が使えないとか?」
そんなクズみたいな能力が発揮されているのかもしれない。それとも、精霊自体に能力がないのか――。
「デメリットしか出てこない精霊なんているんですかね?」
そう言われると、流石に期待もクソもなくなる。デメリットの能力しか働かない精霊。それがもし本当なのなら、それを持っている必要はない。直ちに誰かに移植手術をしたいものだ。
「邪精霊と合体することで、真価を発揮するとか……考え過ぎか」
この考えも、言葉に出した時点で「ない」と結論付けた。結局、レッカがレヴィに植え付けた邪精霊が強力だっただけなのかもしれない。
アリスは真剣な顔から笑顔に戻ると、
「まぁ、何にせよ生きてて、しかも腕もお腹も元通りなら良かったじゃないですか。精霊と邪精霊に感謝ですよ」
「まだ確定した訳じゃないけどね。まぁ、その可能性もあるってことで留めておこう。……で、生え変わった腕はちゃんと元通り綺麗になって――」
しばらく経って、傷口も癒えたと思ったのか。自分でも分からないが、ちゃんと腕が生えているのか、不意に気になった。
感触はあるものの、それはただの幻かもしれないし、目で確かめない内は変なことは言えまい。
長袖を捲り、顕になった腕は――然程綺麗じゃなかった。なんて言葉では片付けられないほどに――。
「……」
「なん……だよこれ……」
長袖の袖の先から見える腕は、赤く変色し、歪な棘を沢山纏った、堪らなく心地の悪い腕に変貌していた。




