53話 マチガイダラケ
「やめろっつってんだろうがァっ!」
満月になりかけの月が明るく光る夜、青年は大声を上げて唸っていた。
人を見るや否や腕が空を裂き、それと共に一つの命の灯火が吹き消える。首を引きちぎり、腕をもぎ、最後は食す。
──食べたくなんか、ない。
「だからやめろってえっ!」
言葉には出来ても、行動には移せない。むしろ、自分が意識を働かせて言葉を放っている時の方が体の制御が効かない。もう、坂道を走り出した列車のように、邪精霊が体を蝕むスピードは刻一刻と早くなっていく。
──見られた。こういう時はどうするんだっけ。嗚呼、そうだ。口封じに殺してしまおう。
「ぐらぁうあっ!」
「ひぃっ!」
「っ……!」
鋼の意思で踏み留まり、高く掲げた右腕をゆっくりと下ろす。眼中には、怯えて失禁する四十路の女の姿が。その顔は、見られた瞬間よりも幾分か窶れており、青年の恐ろしさが如何程なのかを知らしめていた。
青年元いレヴィは心の中で唱えた。
──ダメだ。ここで殺しちゃあ、罪が増える……踏み留まれ、留まれ!留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ留まれ!
「ぐあっう……」
「ひぃあっ!」
女はやっとのことで逃げ仰せたらしい。霞んだ目に、もう女の姿が見えないことがその証拠になった。
問題はこの後どうするかだ。ただ人を殺し、人肉を漁り、それを弄ぶ。そんなことを繰り返していては、ヴェリュルスの思う壷。予想した通りの結末になってしまう。
狂った自分と、それを他人事のように嘲笑うヴェリュルス。そして自分を蝕んだ邪精霊は、彼の体をいとも簡単に殺戮兵器に仕立てあげてしまうのだ。
「やめろやめろやめろ。俺は違う。僕は違う。人殺しなんかじゃない。アリス。アリスだ。何がアリスだ?全部アリスだ。リリィ?それ誰だっけ。あぁ、レイラ……覚えてないよヴェリュルス」
頭の中では分かっている。頭の中、と言うよりかは、雁字搦めに縛られた意識の中では何もかもが冷静に把握出来る。なのに、口から漏れる言葉は狂いそのもの。傍から見れば頭のネジが飛んだ狂人だ。
──違う。僕はそうなりたかったんじゃない。狂いたかったんじゃない。ただ、力を手にしてもう一度アリスに会い、彼女に認められればそれでよかった。
「遅いよぉ」
そう、遅い。
自分がこんな強大な邪精霊の力を制御出来るなんて勘違いしたことが大元の原因だったのだ。最初からヴェリュルスの言うことを聞いていれば。もしくは自分がもっと強ければ。
なんて思っても、それは全部後の祭りだ。
「誰が……ぇ」
「むぇ」
レヴィの独り言を聞きつけて洞窟の付近にやって来た五十代程の男。レヴィの辺鄙な姿を見るなり、彼は言葉を失った。発しようとしても、喉に何かがつっかえて空気の流れ以外は何も流れない。
声に反応して振り向いたレヴィは、男に飛びかかった。心の中で、何度も「やめろ」と唱えた。これ以上やったら、もう戻れなくなる。
レヴィが制御出来る体の割合は僅か一割程度。その一割に賭けて、彼は祈った。
──どうか逃げて。
「や、やめろっ!」
「うるせ……逃げて……」
これが一人の心なら、彼の心情は「葛藤」と呼べるものだったのだろう。しかし今は違う。別の意識が、今のところ三つ含まれて、それと戦っている。ヴェリュルスは意思疎通が不可能になり、今はどこにいるやらだ。
邪精霊はレヴィへの縛りをより強くして、彼を逃がすまいと押さえつけている。
「う……うぁっ!」
「逃げろっ!」
──遅。
かった。遅かった。なんとかレヴィは足を踏み留め、つんのめりながらも彼の命を断たなかった。が、問題はその後。鮮血が吹き飛び、男はうつ伏せに倒れた。
レヴィが顔を上げると、そこには背中をパックリと。まるでアジの開きのように綺麗に引かれた真っ赤な線が、彼の背中に塗られていた。その線から溶けるように赤い液体が広がり、彼の命は絶えた。
「俺じゃねぇっ!僕じゃない!君だっ、君がやったんだっ!僕じゃねぇっ!」
自我が飛びそうだ。
もう飛んでいるのかも。
何の悪気もない人を初めて殺した。それはまるで、子供が何の罪もない無視を踏み潰すように。戦争で何の罪もない一般人を戦車で散り散りにするように。あるいは偶然にもぶつかった星の所為で地球が割れてしまったように、いとも簡単に彼は壊れた。
どうか、戻ることが出来るなら全てを巻き戻したい。自殺が叶うのなら、これ以上犠牲を出す前に死にたい。
しかし、そんな願いを邪精霊は聞き受けてくれるはずもなく──彼は夜闇にニタリと笑った。
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沈黙。暗黙。目の前に対峙するのは、黒く彩られた例の部屋。レヴィは突如、壁から噴出された蔦のようなものに手足の自由を奪われ、今は千切れそうな意識をやっとのことで繋げている。
まるで全身を金属バットでボコボコにされ、メンタルさえも某で八つ裂きにされた感覚。言っても、それをしたのは自分自身なのであるが。
「俺はこんなことがあるんじゃないかと思って拒絶を勧めたんだがな」
ふと声がした。聞き覚えのある、毎日聞いている自分の声だ。
だらんと下がった思い頭をゆっくりと上げると、目の前にはいつもの表情。「特に何も気にしてはいない」といった顔で佇むヴェリュルスの姿があった。
「ヴぇ……りゅるす」
「……酷いな」
蔦で雁字搦めの自分を見兼ねて、ヴェリュルスはこちらへ歩み寄る。
──ダメだ、近付いたら君まで犠牲になってしまう。
「ん?俺が捕まること考えてんのか?ちょっと見下しすぎだぜ。俺を誰だと思ってんだ」
とは言われても、記憶や当時の感情は希薄だ。ほぼ無い。こんな状況でそんな重要なことを思い出せるはずもなく、レヴィは考えることを諦めた。どうせ、「神だ」何じゃ言うのだ。
──もう疲れたよ。
「白鴉だよ!マジで忘れてんのか?重症も程々にしとけよ……てか、これ解けんのか?」
──やめろ。棘が付いてるのが見えないのか?お前まで囚われて、それこそ一巻の終わりだ。だからもう僕に関わるな。もう出て行ってもいいんだ。僕に……構うな。
「聞こえてっけどよ、無理だぞ?そんなの」
そう言いながら、棘の付いた蔦に手を伸ばすヴェリュルス。
掴んだ。血は、流れている。パタパタと、痛そうに傷口から黒い血が流れ出している。
痛いはず。痛いはずなのに、彼は全く顔を顰めずに蔦を思い切り引っ張る。やはりそう簡単に千切れるものではないのだろう。
剣を抜き、ノコギリのように前後させ始めた。無駄だ。剣の方が段々とボロボロになっていき、終いには折れた。恐らく塩酸か何かが分泌されたのだろう。
「こりゃあ……手強いな」
──だからもういいって言ってるだろ。早く逃げちまえよ。なんでそこまでして構うんだよ。助けなんて要らない。ただ、「救ってくれる」とただ一言言ってくれるなら……僕を殺してくれ。それが唯一の望みだ。
そんなことを考えるレヴィの前で、何も言わずに手をせっせと動かすヴェリュルスは反応しない。もしや聞こえていないのか。
蔦はヴェリュルスの動きに反して、縛りを強める。レヴィの腕と足の骨が、ギシギシと軋み始める。
「なぁレヴィ。覚えてないなら言うけどよ、俺──」
不意に、靴音が聞こえた。
ブーツではない。カツカツじゃなく、何やら死体を躙り踏むような音。
ヴェリュルスが振り返り、レヴィも同じく顔を上げた。音の鳴るほうには、どこか悲しげな、憂いを帯びたフレイの姿が。
狂気は、ない。故にレッカではなくフレイだ。心優しい、指揮官の一人息子。
のはずなのにレヴィもヴェリュルスも、両名が感じたのは緊迫感。決して油断は出来ない。
「フレイ……君」
「……」
──これは幻か。殺したはずの彼が、まだ生きている。いや、違った。ここは意識の中で、ヴェリュルスもいる。ここは想像の世界。支配者がいるとすれば僕。もしくはヴェリュルス。こんな所にフレイ現れる理由なんて。
「レヴィ……待て」
「なんで?……もしかして、フレイを模した邪精霊?それでも、あんなに大人しい」
レヴィの言う通り、彼の動向は嫌に大人しい。それで油断していいものか。それとも、油断させる為の演技か何かなのか。
どちらにしても、今の彼に近付かないに越したことはない。
それよりも、今考えるべきはここから脱出する方法だ。
「大丈夫じゃねえよ。見ろ、目が赤だ」
「目が赤だったら……何かあるの?」
「邪精霊、もしくは仰望師団だ」
言われて見ると、彼の目は赤い。瞳が赤く染まり、目の下には痣のように広がった隈が。
やはり何か思い悩んでいるのか。
考えるべきではないと知った。ヴェリュルスに諭され、レヴィも意思を固める。
「じゃあ、フレイ君を倒せば外に?」
「分からん。けど、一個だけ言えるのは、俺らじゃ勝てねぇ」
その言葉に、レヴィは瞠目しなかった。ただ目を伏せ、最初から諦めの付いていた結論に終止符を打とうとした。
その時、フレイが行動を起こした。
「けひゃっ」
一気に暗かった視界が明るくなり、いつもの白い部屋が目の前に広がる。そこには、ヴェリュルスと話したベンチ。そこに掛けられた白い布。遠くに見える大きな壁。そこから覗く白髪の子供の影。
突然笑い声を上げて、足元の死体を蹴り飛ばしたフレイは、あっという間にヴェリュルスとレヴィの前に到達し、彼らの顎を掴んだ。
「っ!」
「……」
いきなりの衝撃に、耐えられないレヴィは喉を詰まらせ、漏れた息を発した。
ヴェリュルスはその行動が予想出来ていたのか、フレイに顎を掴まれても何の反応も示さない。表情も無機質なままだ。
「んだよ」
「みーて」
顎を掴んだのには何の意味も理由もないらしく、ヴェリュルスが荘厳な言葉を漏らすとすぐさま離し、彼らと同じ方向を向いた。
「見て」と言ったすぐ後、レヴィとヴェリュルスの目には信じられない。信じたくない光景が広がっていた。
「……」
「なん……っで!」
そこには、統員の首なし死体。
血に塗れた、クロウが一体化した腕。
怯えて慄く一般人の山。
そして。
──アリス……リリィ、レイラ。
「お、お前っ!何してんだよ!」
「何って……僕がしたいこと」
レヴィは悟った。このままでは犠牲者が半端のない数に登る。それどころではない。仮にこの拘束から放たれたとしても、誰も自分を王としては認めてくれない。
──そんなことどうだっていい!アリスが……皆が!
『レヴィ……君……い……きてたんですね!』
「っ!?あっ……ぐっ……あぁっ!」
耳に響くアリスの声。紛れもなく、彼女の声だ。心を癒す、まるで外傷にまで染み渡るような綺麗な声。のはずなのに、レヴィが感じたのは苦痛。
胸の奥が締め付けられるように痛み、腹が煮えくり返るかのように熱い。
ヴェリュルスも同じようで、黙ってはいるものの顔を苦痛に歪ませている。
「僕に……何した……」
「何が?何も。なーんにもしてない」
信じられるわけがない。実際こうして、訳の分からない場所に拘束され、目の前には死んだはずの人間がいて、終いには自分の体の制御が効かない。
そんな状態でのこの痛み。どう考えたってフレイの影響だろう。
「お前……何する気だ」
辛うじて口が開いたので、言葉を紡ぐ。
しかしフレイはいとも簡単に、しかも適当にその質問を砕いた。
「僕の気分次第かな」
気分次第。つまり、いつアリス達が死に至ってもおかしくない状況。そんな状況下で、まともにいられる者は頭がおかしい。
レヴィは唾を撒き散らし、回らない呂律でフレイに捲し立てた。
「ふざけんなよフレイっ!なんでお前の気分次第で人の命が奪われなきゃいけないんだ!?僕か?僕が悪いのか?僕の大事な人だからそれを奪おうと、僕を壊そうとしてるのか!?」
早口に捲し立て、息が上がるレヴィ。肩で息をしながら、彼は額に青筋を立てた。
そんな勢い任せのレヴィとは相反し、ヴェリュルスは静かに目を伏せ、何かを考えている様子だ。
──頭おかしいのか?なんで冷静でいられる?君もアリスのことが好きだったんじゃないのか?
「おいヴェリュルス!なんか言えよ!」
「急にとばっちり飛ばすなって。まぁ落ち着けよレヴィ」
やけに老けたように見えるヴェリュルスは、いつの間にか灰色になった髪をポリポリと掻きながらレヴィの怒りを流す。
嫌に落ち着いている。
彼の真意は掴めぬまま、レヴィの怒りは遂に最高潮に達する。
「落ち着けるわけないだろ!アリスが、皆の命が!」
危ない。そう言いかけた時、「あ」という声が漏れた。それは体の自由が少し効くようになったそれに対する驚愕であり、また自分の激昴が突然消沈したことに対しての驚きでもあった。
「大丈夫だって。お前、片方外れてんだろ腕」
「……」
「ちょっとは抵抗出来るようになったってことなんじゃねぇの?知らんけど」
何の興味も無さそうに、ヴェリュルスはレヴィの体の左半分を指差す。言われた通り、左腕、左足共に自由に動けるようになっている。
蔦が萎縮し、壁に空いた穴に引っ込んでいくのが見える。
「アリスの言葉が?僕に投げかけられたアリスの言葉がこれを解いた?アリスが鍵なのか?……おいヴェリュルス答えろよ!」
「知るかよ」
五月蝿く迫るレヴィに愛想が尽きたのか、ヴェリュルスはレヴィから目を逸らし言った。
「なんで何奴も此奴も……」
フレイ元い邪精霊は言うことを聞かない。それどころか、自分の分身とも言えるヴェリュルスでさえ聞く耳を持とうとしない。
終いにはレヴィでさえ自分の徳の無さに呆れ果て、目を伏せ俯いた。
──……なんだ、この声……まるでレイ……。
「ちょ、待て……なんで……レイラだけなんだよ……」
「権能……かな」
どうやらレイラの権能で周りの人を逃がし、自分だけが残った様子。
レヴィの脳裏に蔓延った想像は、現実になりつつあった。その想像は、誰が考えても同じ。血に塗れた競技場の姿だ。その中には、レイラや罪なき人々の姿も。
「やめろ……やめろやめろやめろ!」
「けひゃっ、やめないよ」
甲高い声で笑い、フレイは目に映る姿に重なった。横たわるレイラの首を掴み、上へ持ち上げる。背景に映るレイラはまだ奮闘中だが、この後を予想しているのであろうフレイの手の内に収まってしまったレイラは体を震わせながらもがいている。
「やめろって!……やめてくれ……もう……いいだろ……?」
「何が」
レイラから手を離し、彼女はベチャっと地面に這い蹲った。意識が飛んだのか、一つも身動きをしない。
もう分かっている。次にこうなるのは、外界のレイラだ。それを暗示していたように、フレイはニヤリと下卑た笑みを浮かべ、レヴィの顔を覗き込む。
「傷付けるなら……僕だけにしてくれ」
「心外だなぁ。僕が傷付けたいのは君でもなければこの娘でもないよ。何となくだから」
そんなことに、なんの意味があるのか。
別に傷付けたい訳でもなく、
──やめろ……。
別に誰を憎んでいるわけでもないらしく、
──巫山戯るな……。
ただ一方的に喰らい、屠り、その優越感に浸るだけ。
──殺す……。
こちらも、あってはいけない感情が芽生えた。“殺意”。それは、どの時代にも、どんな人間にも沸き起こる謎の感情。
理屈では説明出来ず、かと言って感情に任せれば罪を犯してしまう。全くもって、どうしようもない感情だ。
フレイはレヴィの目に外界の様子を映し込み、レイラの最期を見届けるように言った。
「おいやめろ……僕だけでいいじゃないか……なんでレイラを巻き込むんだ……っ!?やめろ!やめろ!やめろよ!やめろっ!やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろっ!」
「けひゃっ」
腕が、レイラの腹を貫き、中で色々と掻き混ぜている様子が手に取るように分かる。だってそうだ。自分が向けた殺意の先が、あろうことか大事なレイラに向いてしまったのだから。
ごにゃごにゃと動く手を動かしているのは、紛れもない自分。レヴィ本人だ。
「……」
「違う……違うんだよ……ははっ」
血塗れの手、剣を、霞んだ目で目視する。どう見ても血。言い逃れは出来ない。
いや、確かに空いた左腕でフレイを刺したはずだった。それなのに、目に映る死体はどう考えてもレイラで──。
「レヴィ」
「大丈夫、だ、大丈夫さ。僕さえいなければ……アリスさえいなければ……」
頭を抱えて、レヴィは座り込む。
「レヴィ、落ち着け」
「レイラ……?だれだっけ……あ、あり……リリー……?くっ……あ、殺……す……ん?違う違うっ!僕は!俺はァあっ!」
「……」
暗い空間に独り残されたレヴィ。
何も見えないその場所で、ただひたすらに何かを食べる音のみが響いていた。




