118話 子ども
少女は徐に、しかししっかりとした意思を持って、レヴィに抱きついていた。
何せ、こうして自分の過去を知りたいと。そういう風に自分に興味を持ってもらうことが久しぶりで――否、初めてだからだ。
アンは涙を蓄えた目で、レヴィを見上げる。
キラキラと涙で輝く瞳が、三日月を描いた。
見上げたレヴィの目は、今まで出会ってきた誰の目よりも。どんな「下劣なニンゲン」よりも美しく、慈悲に溢れ、そしてアンのことを知りたいと欲していた。
「アン……?」
「ボクの過去なんか……知ってもつまらないよ」
そうじゃない。何か面白いことを欲して、彼女を知りたいのではない。かといって、可哀想だからとかやむなしに話を聞いてやるのでもない。
他のなんでもない、アンの力になりたいと、そう願っていただけで。
「……単純に知りたいんだよ。君の過去を」
「そんな……ぼ、ボクの過去を聞くよりももっと……知りたいことがあるんじゃ……ぅ」
言われた通り、もっと知らなければいけないことも、彼女にしか聞けないことも沢山ある。
だが、優先順位というものは不安定で、何かの拍子に入れ替わったり、崩れてしまったりするものだ。
天界での三人の関係はどうなっているのか。どう、絡まっているのか。殺意の原因は何なのか。そんな謎をも払拭するくらいに、アンの瞳は憂いに満ちている。その瞳を無視するほどのレベルまで、レヴィは廃れていない。
「いいんだよ、君の話が先。簡潔にでも、長々と話してもいい」
「……死神の話が聞きたいなんて、君は本当に物好きだね」
彼女の言う「話」。それが指すのは、彼女が現実に「存在」していた人間であること。
彼女の実態は分からないが、実年齢はかなりのものと思っても良さそうだ。
「物好きか、昔はよく言われたよ。でもまぁ、いいじゃん。話、聞かせてよ」
その促しに、アンは静かに首肯した。
だが、その反応はかなり小さく、何かに怯えているような――。
大きく息を吸い込んだ。
彼女の秘密が語られる、その合図だ。
「…………ニヒェス」
「っ……!」
――まさか、と。
その名前が彼女の口から放たれることは流石に想定外だった。
この場に出るはずのなかったその名前が飛び出したことへの驚きを隠せないレヴィは、息を呑み、アンの次の言葉を待った。
しかし、アンの唇は、その名をもう一度発することを躊躇ったようにギュッと噤まれていて。
「アン……?」
声をかけるも、アンは動揺を具現化したように瞠目し、額に冷や汗を滲ませる。
レヴィの声かけに応じず、ただひたすらに、地面に枯れた花々を凝視するアンに、
「アン!」
「っ! ……ごめんね、ちょっと怖くて……」
ニヒェス――その名が天界で意味するのは、「食人鬼」。その異名の意味が恐ろしいことは、レヴィでも分かる。
だが、口に出すのを躊躇うほど。二度、その名を言い出せないほど恐ろしいものだとは思わない。
と、思ってみたはいいものの、アンの怯え様から見ると、レヴィの認識しているそれとアンの認識しているそれの間には、かなりの隔たりがあるように感じられる。
「大丈夫? 名前を言うのが無理なら、『彼女』とか『あれ』とかでもいいと思うんだけど……」
「そ……うだね、じゃあ間を取って『王』で続けるね」
平然を装って、話の流れを変えまいと続けるアンだが、その瞳にはじんわりと涙が滲み、唇は震えていた。
「怖い?」
「う、ううん、怖くない。それなら大丈夫……」
大丈夫とは言いつつも、その裏側には一目瞭然の恐怖が刻み込まれてしまっている。
だが、それに対して何かを模索するのは意味がないことだったよう。アンは「王」で続けると明言した後は、スラスラと話を続けた。
「……『王』はボクに言ったんだ。逃げられないって」
「逃げられない?」
先の心配は杞憂でなかった。
やはり平静なアンは、隠しきれない「恐怖」に縛り付けられている。
まるで「王」と、そういう風に彼女を呼ぶことすら恐ろしいというような。
「うん、多分、呪術の術式が埋め込まれてる。まぁ、そもそも逃げる方法に思い当たる節はないんだけどね」
「ちか……」
「――力づくでも逃げようとしたら、食べられる」
力づく。レヴィがそう提案する前に、アンは先回りした。
そもそも、呪いの類から逃れるのに力づくとはどういう意味なのか、レヴィにはさっぱりだ。
「逃げる……何から逃げるの?」
「仕事。ボクらは死神と関連付けされてる。紐付けっていうのかな。それから逃れようとすると、ボクらは……」
「――? ごめん、具体例が無さすぎて分からない」
何とか簡潔に纏めあげようと言葉を繋げたアンだが、彼女が伝えたいことはレヴィには全く伝わっていない。
聡明である以前に、難しい言葉の羅列だけでは何のことなのかを察するのは至難の業だ。
「ん、例えば……君は王様なんだろ? 王様を辞めたいって思ったこと、一回くらいあるでしょ?」
「……ごめん、ない」
「無駄に働き者!?」
王を辞任する。それは魅力的な選択なのか、それとも今の幸福を投げ捨ててしまう選択なのか、よく分からない。
ただ、王であるからアリスに出会い、王であるからリリィと出会えた。その事実と照らし合わせた答えがそれだった。
アンがレヴィの勤勉さに驚愕の一声を上げると、彼女はすぐさま話を一変させる。
「じゃあ、学生は勉強するのが義務でしょ?」
ならば、と話の方向性を変えた。
確かに、学生は勉強することが当たり前。それは、多少の齟齬があるにしても、大抵は揺るがない義務であり、果たすべき勤労の一つだ。
――まぁ、トオルのような例外も、別世界にはいるようだが。
レヴィは首肯し、アンは続けた。
「もし、学生を辞めたいって思ってる子がいたとしたら、その子は何をしたいと思う?」
例えばの話で、アンは話し続けた。
レヴィはそういう風に、現実の義務に不満を持ったことがない。しかし、これはあくまで可能性の話だ。
もしもレヴィがそういう風に現実逃避し、今の状況から脱したいと思うならば、王の次の仕事は――。
「……パン屋さんとか、ケーキ屋さん?」
「女子か!!」
そう言われても言い返す気は起きない。
我ながら、女々しいだったりそういった女子らしいところがあるのは、周りから指摘されているからよく知っている。
多分、今周りにいる女の子全員からは言われた。
「でも、そういうこと。今の自分とは違う自分になりたい……それは学生にも、騎士団長にも、王様にも……死神にもある欲求だよ」
悲しげな瞳で、視線を落としながら言うアン。死神という畏怖すべき存在にも関わらず、アリスやリリィたちにそう思うように「助けたい」、「守りたい」と思ってしまう。
何故か。そう、何故か。
「つまり、君は『死神を辞めたい』……?」
「大方間違いじゃないよ。正直に言うと……ボクは死神なんか嫌だ。死んでも誰かの、何かの命を奪い続けるなんて。天使とかに、なりたかったな……」
切実な願い。聞くだけでも胸が痛くなるような、そんな願い。
叶えることが出来ないとは分かっていながらも、どうにかしてあげたい。そう思う。
出会って間もない慈悲の視線に、アンは少し笑みを浮かべ、レヴィに向き直る。
視線の先のレヴィは、何やら頭上にはてなマークを浮かべている。
「? 君は死んでるの?」
「何、その質問?」
普通に考えて、死人と会話をするというのはおかしな話だ――という以前に、死神というものの定義として、「死」を体験しているということが大前提なのでは。
少々ぶっ飛んだ考え方であるのは否めないが、そうである可能性もゼロではないはずだ。
まぁ、この世界にいるということは死人であるのに間違いはないはずだが。
アンは「はぁ」とため息をつき、肺の中の空気が入れ替わったように清々しい表情を浮かべると、言った。
「死んでるよ。とっくの前にね、ミカエルと同い年くらいかな」
せいせいするほどにさっぱりとした答えに、タチの悪いのを加えつつ。
そんなことは置いておくにしても、レヴィには一つ気になることがあった。
彼がそこまで「呪術」を知らないからこその質問だろうが、
「……死んでるのに、呪術?」
「呪術にも色々あるよ。拘束系の術式、苦痛を与え続けるだけの術式……一番怖いのは死じゃないんだ。一番怖いのは、死の先にある果てしない地獄」
レヴィとリリィが半年ほど前にかけられた術式は、恐らく発熱のような術式なのだろう。アンの口からその類の術式が飛び出してはいなかったが、前者二つがあるのなら、彼がかけられた弱々しい呪術もあっても良いのでは。
そんなことを考えるより先に、地獄という言葉が気になったが、更に更にそれよりも気になるワードがかなり前に飛び出している。それについての言及を――。
「ついでに『食べられる』の意味も知りたいみたいだね。いいよ、教えてあげる」
「っ……!」
表情に出ていたのか、頭の中に浮かんでいた質問を見透かされたレヴィ。
更にその反応が顔に出ていたのか、アンはこちらを見て微笑んだ。嘲笑でなく、微笑んだ。
「『王』のおかげで、ボクはこうして意識だけだけど生きていられる。それもこれも、『王』である『彼女』のおかげ。『彼女』の力。……もう分かるでしょ? そんな権力者が、ボクらを食べる。その意味……」
「――つまり、意識の消失」
「そ、一回死んでるボクらは、意識が消失する恐怖を知ってる。だからこそ、その恐怖がボクらの首輪で鎖なのさ」
流暢に事情を説明するアンの微笑みは、もはや希望を映してはいなかった。まるで、自分が逃げられないことを十分に理解しているような、それにほとんどの不満を持っていないような、そんな表情。
簡潔に言うと、諦めが映し出されていた。
「……ニヒェスがその権限を持っている、か。気持ちの問題でどうこうなりそうじゃないね」
「諦めるのが早いね。でもそういうこと。たとえ君がボクらのために奮闘しても、結果は変わらない……むしろ、最悪の事態になるかも」
彼女の言うことに一理はある。
否、彼女の言うことは正論だ。何も間違ってはいなかった。なのに、どこか引っかかる部分がある。あってしまう。
それは多分、「どうにか出来る」と、レヴィが信じてしまっているから。
ミカと同じ年月、おおよそ三百年を生きた彼女が、解決策は無いと、そう言っているのだから、解決策はないはずなのだ。
なのにどうして。出会って間もない少女の願いに、こうも入り込んでしまうのか。
「抗うだけ無駄、か……?」
そんなことはないと、ヴェリュルスなら言うだろうか。
「そう、だからボクの話はここで終わり。死神が鎖で繋がれてる話なんて、長々と聞きたくないでしょ?」
「……どうにも出来ないんだね」
違う。何か解決の糸口はあるはず。
何か、先っぽが。端くれを掴むことが出来たならきっと――。
「分からない。希望はゼロではないと思うけど、ボクはもう諦めてる。だって、希望の糸口どころか糸屑すら掴めない」
先手を打たれ、どうにも出来ないと改めて確認させられた。
どうにもこうにも出来ない。それはただ、心の負の感情がそうさせているだけで、本質は違うはずなのだ。
だが、アンは三百年間の諦めが募っている。そんな、積み重ねまくった負の感情をどうにか出来ると思うほど、レヴィは思い上がってはいなかった。
「そんな真剣に考えなくてもいいよ。こうして、生きてる人間と話が出来たのは久しぶりだから、今は楽しい……君がボクにくれるものはその楽しさだけでいいんだ」
「――違うよ」
首を傾げ、分からないふりをするアンに歩み寄る。
アンは、レヴィの少し下げたトーンに驚きを覚えたのか、少し顔を強ばらせた。そして、彼の言葉に耳を貸さないといった様子で顔を背けた。
――彼の言葉に少しの期待を乗せていることに、気付かれないように。
「楽しい……? それならそんなに悲しい顔はしない」
「……昔から、思ったことと違う態度が顔に出てしまう奇病なんだ……よ……」
冗談めかしく言い張るアン。
言葉尻があやふやになり、少し焦りを見せた。
レヴィは畳み掛ける。
「誤魔化さないで。君はさっき泣いたんだ。それを見て……放っておけるほど、僕は男をやめてない」
「――……かっこいいね」
素直な感情であることに間違いはなかった。
気を抜いていれば惚れてしまうほどに、その言葉には重みがあった。その言葉から、レヴィの男らしさが垣間見える。
「君が沢山の女の子に囲まれている理由が分かった気がしたよ」
「……そのことは一旦置いておいて。あとで詳しく話そう。話がだいぶ逸れちゃったね」
アンのジョークには目を瞑り、彼女の悩みに目を向ける。
それを約束すると、レヴィは肺の中で凝り固まった空気を一気に吐き出し、そして新しい空気を大きく吸い込んだ。
「……君がここに呼ばれた理由。天使ミカエルらとの面会じゃなく、何故死神と話をすることになったのか。どうして死神の六人全員がここにいないのか。そういったことは聞きたくないんでしょ?」
「聞きたくないわけじゃないけど、優先順位がある」
アリスの悟った、「自分がニヒェスである可能性」。それに関してや、レヴィとアリスの感情を、理性を全て覆して暴走しだす殺意の原因。それらについての言及が、何よりも先だ。
「じゃあ、アズリサイアと君。プラスアルファで『王』との関係を聞きたいってことだね」
レヴィは深く首肯する。
アンはそりゃそうだろうねと言った表情を浮かべると、すらすらと言葉を紡ぐ唇から、少しを語った。
「単純な話だよ。君が作ったのはアズリサイアだけじゃないってこと」
「――どういう……?」
レヴィが瞠目し、しかしながら、わけの分からない言葉の羅列に首を傾げた。
少し考えれば分かったことなのかもしれない。だが、彼が自分で理解するよりも、考えが先走るよりも前に、アンは答えを提示した。
「ボクたちの『王』は、君の子どもさ」




