111話 分裂、逆流と夢
「――はっ、は、……ぁ」
目の前に君臨した「死」という存在に怖気付き、逃げようと必死に四肢を動かすが、それらはびくとも動かない。
どうやら体の中で意識がある――動くのは首から上だけのよう。
これでは止められない。死ぬという恐怖はどこかに消え去ってしまったようだが、それ以上にレヴィが遠くへ行ってしまうことが恐ろしくて仕方がない。
「ま、て…………」
「うちの、モノ。ヴェルは、うちの」
片言で言葉をやっとで紡ぐニヒェスは、その気持ちが悪いくらいに整った顔を笑顔に。卑屈な笑顔に歪める。
畏怖、恐怖、敬意――それらの言葉が、勝手に脳内で何度も再生される。
「あー、アイラだぁ!」
「……? うち、は、ニヒェス」
相も変わらず嗤い、狂気に染まった素振りをするのはレヴィだ。
片腹に風穴が開き、腹に一筋入った大きな剣傷を自らで抉り出しながら、彼は嗤い、嗤い、嗤う。
アリスは達磨になったその体をモジモジと動かしながら、少しずつニヒェスへと近付く。だが、それはニヒェスの強大な魔法によって止められた。
――時間停止魔法。噂に聞くことはあったが、実際にあるとは誰も思ってはいない。
倒れ、大木に背を打ち付けられたままのリリィは、アリスにかけられたその魔法を直に見ていた。
「じ……かんて、いし……」
「うん。時間、停止の、魔法」
辛うじて意識した言葉を口に出来るようになったリリィは、頭だけをもたげた。
その目に映るのは、狂ったレヴィの手を引いて連れ去ろうとするニヒェスの姿。
「……させ、ない……」
――本気、出すんです。体の奥底に眠ってるそれを。どうにかして。
そう心中で呟くと、自然に。不自然な呼吸をする度に力が湧いてくる。
比喩ではない。身体中の魔力が増幅したように膨れ上がり、魔力線から放出された魔力は、背中を。腕を。脚を。――それらを包み込み、
「レヴィ様は渡さない!」
「?」
身体中を、風の魔法が包む。
それは、自らは傷付けず。それでいて敵だけを刻む烈風だ。
地面はリリィの魔法によって抉れ、砂埃を巻き上げる。視界が悪くなるのもお構い無しに、リリィはとにかく――。
「レヴィ様も! アリスも! みんな救う!」
「救、う? うち、殺したり、しない」
「それでも……! あなたがレヴィ様たちを連れ去ろうとするなら、容赦はしない!」
風を放つ。
手のひらから流れ出した魔力の流れは、突如出来た巨大な魔法陣によって風の魔法へと変換され、ニヒェスの元へと飛んでいく。
辺りを切り裂きながら飛んでいくその魔法に、ニヒェスは為す術もなく――。
「ぐ、でも。大丈、夫」
「なんっ! あぁ!」
烈風を、魔力を噴き出すことによって防いだニヒェス。
その表情は先程と変わらず冷静だが、その額にはじんわりと汗が滲んでいる。
――いける!
「レヴィ様を! リリィの! 大切な人たちを! 奪わないで!」
「…………リリィ……ボクも……」
猛り叫ぶリリィの追撃に入ろうと、倒れながらも手をニヒェスの方向へと伸ばすレイラ。だが、
「黙っていて! リリィ一人で……!」
「う、ざい」
ニヒェスの放った水が、リリィの魔法とぶつかり合う。互いに互いの魔法を相殺しあっているが、どちらが優勢というわけでもなく、押され、押しを繰り返すだけ。
これでは、魔力が尽きた方の負けだ。
――正直、リリィはそこまで魔力量と体力に自信がある方ではない。結構貧弱で、打たれ弱い。だから――。
「これでっ! 終わらせる!」
「――!」
体に残っている内の八割の魔力を、全て使い切った攻撃――そうすれば。
「ぐ、ぬぅーーーーー!」
「お願いっ!」
水を、押し返す。
ニヒェスは自らが放った魔法の衝撃に尻もちをつき、そしてリリィは――。
「これで――」
風の魔法。八割を使い切って満身創痍だが、これを乗り切ってニヒェスに隙を作ることが出来たなら――あとは二割の魔力を本気でぶつけるだけ。
爆風と呼ぶのか烈風と呼ぶのかは分からない。ただ、物凄い勢いの風が、ニヒェスの体に裂傷を刻んでいく。
「ぁ……」
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全てが終わった、とは言い難い。
いつもの血色の良い顔色とは言えないが、それなりに「生き物としての」顔色を取り戻したレヴィとアリスは、未だ怪我が治りきっていない。
今、治癒魔法をリリィがかけている最中だが、負傷者が多すぎて間に合っていない。
言葉通り切り刻まれたレヴィとアリス。満身創痍の状態でレヴィらにその傷を負わせたアブセルト。ニヒェスという、謎の女が現れた際の衝撃に吹き飛ばされ、各々が所々に傷を負っているミーナとリリ。
彼らの治癒魔法を、一人でこなすのは至難の業だ。
「治る。絶っ対に治る」
そう呟きながら、出来た魔法陣の上に彼女らを寝かし、魔力の意識を治癒の方向へと向ける。
ジュクジュクと、傷口から白と赤の何かが伸び、それを治していく。
――。
「治……る」
流石のリリィも、魔力のほとんどを使い果たした後では分が悪い。やはり人間なのだから、体力に限界はあるし、話す相手もいないから退屈を紛らわせることも出来ない。
もっとも、仲間たちが生死の境目にいるこの状況でそんなことを考えたりは出来ない。
だが、その毒はいずれリリィのことを蝕んでしまう。それは周知の事実だ。
瞼が落ちていき、横たわった少女らへ向けられた手がだらんと落ち。
リリィは知らぬ間に眠りに落ちていた。
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「ここ……は?」
リリィは草原の中に立っていた。
シロツメグサが沢山咲いた、草原。
そこはいつか、レヴィと遊んだ草原だった。
「……ィ……リリィ?」
「え」
靄がかかっていた聴覚が一気に開け、聞き覚えのある声が聞こえる。
幼馴染で許嫁で今のリリィの生きる理由であるレヴィその人だった。
彼はこちらを覗き込み、不安げな表情を見せる。思い出せるのは――。
「ママ、どうしたの?」
「え……ママ?」
――子どもがいた。見覚えはないのに、目にするだけで心が優しくなるような可愛げのある少女。
銀髪に二本の黒髪を流したその少女は、レヴィと同じく大きくくりっとした目でこちらを見上げている。
その表情もまたレヴィと同じく、不安げ。
「ママ、何かあったの?」
「なんなんだろうね? どうしたのさリリィ?」
二人して顔を見合わせ、クスクスっと笑うその表情は、いつもリリィが笑顔を作るそれと良く似ていた。
それが表すことはつまり――。
「あなたは……リリィの……?」
「? カナエだよ?」
カナエ。そう名乗った少女は、リリィの手を掴み、ずんずんと前に歩いていく。
その歩みもまた、誰かに良く似ていて。
「え、ちょ……カナエ、さん……」
「え? なんであたしのことをさんで呼ぶの?」
不思議な世界に迷い込んでしまったのだろうか。レヴィは少し大人びているように見えるし、自身の胸も少し大きくなっているように感じる。
それどころか、「リリィの子ども」という存在。これは――。
「え、夢? え? どういうことなんですか?」
「リリィ、僕らのこと忘れちゃったの?」
「いえ……あなたのことは覚えて……でも、カナエち、カナエのことは……」
パニックになり、目の前の少女の存在が認識出来ないのか。それとも、自分が記憶喪失なのか。それとも、これは夢なのか。
最も最有力なのは最後者だが、夢にしては感覚が妙にリアルだし、何より――。
「痛い……」
頬をつねると痛いのだ。
夢なのか現実なのかを判断するのには、頬をつねればいいというものがあるが、それが本当ならばここは現実だ。
――覚えているのは、アブセルトたちが戦闘不能になって、彼女らを治癒魔法で治しているところまで。もしや、その後から今までの記憶が無くなってしまったのか。
もしそうなら。
「ママ……あたしのこと忘れちゃったの?」
「――そんなはずはないでしょ? 馬鹿ね。ちょっとボーッとしてただけです〜」
彼らから見てのいつもの様子を繕うと、彼らの表情はみるみるうちにパーッと明るくなる。
そうやって満面の笑みでこちらを見上げる少女の顔はまさに、リリィの娘のものだった。
「………………ぁ」
不意に、体が浮いた気がした。
否、それは思い違いではなく、実際に彼女は浮いていた。
視界が黒く染まっていき、レヴィの。カナエの顔が段々と霞んでいき。
体の感覚がなくなり。
そして意識がなくなり――。
「ィ! ぉい! リリィ!」
「……戻って、来てしまったんですね」
目を開くや否や、飛び込んできたアブセルトや仲間たちの顔に、少し残念と思うのは不謹慎だろうか。
正直なところ、もう全てから逃げ出してレヴィと一緒になりたい。その気持ちが二番目にあった。
「あ……だからか」
「何ごちゃごちゃ言って……?」
上半身を起こし、辺りを見回す。
倒れた巨木らと、抉れた地面。そして、消えかけた魔法陣の上に寝ている二人の少年少女の姿を見た。
――一番目の望み。それは、他でもないレヴィとアリスが、幸せに暮らすことだった。




