107話 やがて彼らは
「――君は、誰だ」
朝になりかけの部屋の中。
ちゅんちゅんと、雀の鳴き声が、窓を閉めているのに聞こえてくる。
腹や肩から滴った血は流れ、床に染み込んだ。傷は自然に癒え、痛みも収まってきている。
ほんの少し、自分の顎を持ち上げる女の瞳が揺らいだ気がした。その揺らぎは鬼と出るか蛇と出るか。
レヴィは問いかけ、彼女の行動を待つ他に出来ることがなかった。――あまりの美貌に魅了され、動くことが出来なかった。
「――」
レヴィの質問にも応えず。否、応えられずにたじろぎ、顎を持ち上げていた手をそっと離す女。
彼女は引けた腰で後退りするが、それだけの行動にも集中出来ていない様子で、へなへなと膝を折り、尻餅をつく。
美貌を具現化したような顔が、段々と歪んだかと思えば、ぽろりと一粒、涙を零した。
「え……ぁ……」
やっとの事で開いた唇も、正確な言葉を紡がない。ただ母音だけを繋げ、訳の分からない音を作り出すだけだ。
怯えているのか、それとも何なのか。
先程自分が、無意識に言った言葉が、どうしても思い出せない。
何かを言ったはずなのだが、それだけが頭の中で、靄がかかったように霞んでいる。
「君は……」
「――ッ!」
追おうとは、しなかった。
何の考えもなしに飛び出した女は、レヴィの顔を振り返ることもなく、瞬時に部屋から飛び出した。
レヴィも、アリスも、ニヒェスも、誰もが状況を理解出来ない。
ただ、ひとつ言えることは確かにあった。
「――僕はなんて……」
何を言ったのか分からない。
それがとても重要で、この三人を繋ぐ鍵となるはずなのに、レヴィも、アリスも、ニヒェスも、誰も言ったことを、聞いたことを覚えていなかった。
「……言ったんだっけ」
下界よりも遥かに近い太陽が、カーテンの裾から光を放つ。
下界と違い、少し早い春が来そうな天界の、ある早朝の出来事だった。
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「ん……?」
腑抜けた声のトオル。
嫌な予感だ。
我ながら、自分の勘はかなり当たる方だと思っている。その理由としては、今までの経験。
こうして背中がザワつき、頭痛がしてくる時は必ず、何か良くないことが起きてしまう。具体例として、カオルが熱を出したり、自身の骨を折ってしまった時など。
「……」
だが、着目すべき点はそこではなかった。
嫌な予感の強大さ。それが今回の相違点だった。
「トオルさん?」
「んぁ? 何だ?」
――顔を見れば、言いたいことは分かる。
顔色に出てしまっていたことが、不覚。ララのような小さな少女でさえ、些細な顔の変化に気付くのだなと感心する。
それか、トオルが表情に出しすぎていたのか。
「……大丈夫ですか? 顔色が優れないみたいですけど……はっ、やっぱり好きじゃないお粥で気分が……!」
「あぁいや、そういうわけじゃねぇよ? 美味かったし。ただ……なんか、嫌な予感がすんだよ」
隠す必要もない。これが、自分たちの生死に関わるものなら隠していたかもしれないが、ザワつきからしてそうではない。
これは、遠くの身内が危険にさらされる時の感覚だ。
「嫌な予感、ですか?」
「ん……なんつーか。俺の勘って結構当たんだよ。だから心配っつーか」
誰に対しての心配かは言ったつもりはなかったが、ララはその考えを汲んだらしく、「うむむ」と顎に手を当てると、探偵のようにぐるぐるとその場を回り始めた。
「おい、コケたら危ねぇぞ。目、回ったら危ねぇって……」
「つまり、こういうことですか? トオルさんの勘はよく当たるから、心配だと……?」
「うん、それ俺がさっき言った通り」
やはり魔力に栄養を取られすぎているのか、頭はそこまで回らないようだ。
もしかすると、元々結構賢かったトオルの方が、頭脳の強さでは勝ってるのではないか。なんてことを考えつくが、それは当たり前だ。
何せ、この世界は衰退している。元がどうだったかは知らないが、少なくともトオルの元いた世界に比べると、かなり学力では劣っている。
まぁ、その中でもレヴィのような秀才になると、トオルの頭脳なんてコテンパンなのだが。
「あぁくそ! 何変なこと考えてんだ!」
「な、なんですか急に!」
思いっきり頭を振り上げて叫ぶトオルに、顔を覗き込もうとしていたララは弾かれたように仰け反り、尻餅をつく。
「大丈夫か」と、屈んでララに手を伸ばすが、ララは「いいですよ」と拒否した。
「……レヴィが天界に。それもアリシアって奴を取り戻しにって? あいつすげぇよなやっぱり」
「レー様の行動力には驚かされることも多々」
この前では散髪に行くと行っていたが、それだって宣言してから数分で出かけてしまったし、仕事を終わらせると宣言すれば、たちまち仕事は完了した。
今回だってそう。アリスを取り戻しに行くと宣言したら、すぐさまだ。
こういった行動力には、日本男児であるトオルもやはり感化されなければいけないところはある。
「俺は何も出来ず終い、か……」
特に何も出来なかったことについて、気に病むことはなかった。が、レヴィが天界に行くこと。それを知っていたなら。自分が邪精霊などに取り憑かれていなければ、全戦力はレヴィのアリス奪還に注がれたはずなのだ。
これほど、自分の無力さを悔やんだことはない。
「根に持ってはいけませんよ。戻ってきたんですからそれでいいじゃないですか」
「そうよ。私たちみたいな美少女たちに囲まれているのに何が不満なの?」
先程の粥の洗い物が終わったのか、扉の向こうから入ってくるリルム。
軽口を叩く彼女も、やはりトオルのことを寝ずに看病していてくれていたらしく、目の下の隈は拭えない。
疲労感が滲む表情に、トオルは一言投げかける。
「少女っていうには大人な気がすんだけど。とまぁ、そんなことは置いといても……リルム、ララ、お前らもう寝ていいぞ」
「別に眠たくないです」
「別に眠たくないわよ」
声を揃えて言う二人。
今まで、こんなに二人の気が合ったことがあっただろうか。
それもこれも、今回のトオルの事件が理由なら――良かったとは流石に思えない。
「目の下、隈。ララなんか目が閉じそうじゃねえか」
「これはキスを待ってるだけです。眠たくなんてないんです」
「誰が幼女にキスするか!?」
それはもう、警察にお世話になる事案だ。
そもそも、この世界に警察があるのかは分からないが。
キスを待つとはいっても、虚ろ虚ろになってふらふらと揺れるララは放っておけない。
ベッドから降り、交代でララを寝かせると、リルムへと目を向ける。
リルムは――まだ大丈夫だろう。お姉さんなんだから。
「私なんかよりもララちゃんの方が疲れてるわよ。私は仮眠もしていたし」
「強情だな。別に寝てもいいのに……カオルは?」
まさか、気を失っている間にカオルに手を出したわけはあるまい。そうであれば、こうしてリルムたちが優しく接してくれるはずもない。
「まだ寝てるわよ。っていうか、まだ五時半よ? あなたが早起きすぎるのよ」
「そっか……じゃあ、叩き起してくるわ」
リルムの皮肉を余所に、扉へと歩み寄ってドアノブに手をかける。
その一連の流れの中で、リルムは一言、声をかけた。
「……泣いて喜ぶわ。それに、自分を責めてるかもだから、そこのケアも忘れずに、ね?」
「ケアって……俺がカオルにか。逆パターンはよくあったけどな」
いつも、何かしら責めないで、トオルの心を均衡にしていてくれたものだ。
それには本当に感謝しかなく、そのおかげでこうやってリルムらに好かれるような性格になったのかもしれない。
ならば、今回は逆。彼女への恩返した。
リルムへの返答を最後に、トオルは扉を閉じた。




