104話 堪え
「ぁ――ぐっ……」
頭、心。脳、脊髄。体のそこら中に散りばめられた「殺意」が、猛烈な勢いとなって、雪崩のようにこちらへと、流れ込む。
「恋心」にも似たそれは、似通っただけで全くの別物。本質が全く違うのに、それ同士が多少似ているなど、とんだ皮肉だ。
眠っているはずなのに、抑えようのない「殺意」が、彼の体を操作する。手を、口を、足を――。
「――っ」
意識が海の底から這い上がってき、現実世界の淵に手をかける。
狭窄していた視界が元に戻ると、レヴィの手は、アリスの首に手をかけようとした状態だった。
寸前の所で意識が戻ったようで、その手はまだ首に触れてはいなかったが、意識が戻るのが少しでも遅かったら――そう考えると、おぞましさに体が震える。
まぁ、彼女を物理的に殺そうとしてもそれが不可能であることは言うまでもない。だが、レヴィが一番恐れているのは、「自分がアリスを殺そうとしたという事実が残ること」だ。
あくまでアリスも人間だ。痛みも感じるだろうし、首を絞められれば苦しみも感じるだろう。結果的に、レヴィが彼女の首を締めれば、目撃者がいなくともその恐怖は現実のものとなる。
目撃者がいたならば、衝動で殺してしまうかもしれないほど、今は気が立っている。
アリスだけを傷付けないようにではなく、誰も彼も傷付けないように振る舞わなければ、今は危険だ。
「…………」
四つん這いになって、アリスの上に被さっていたレヴィ。
リリィと一緒に、アリスの部屋からは一番遠い部屋で眠っていたはずなのに、いつの間にかここに来てしまっていることには、それほど疑念を抱かなかった。
ベッドから降り、アリスを殺めそうになった手を、穴が開きそうなほど睨む。自分がしようとしていたことのはずなのに、手は震え、今にも発狂しそうだ。
「何がどうなって……」
邪精霊の仕業でない。自らが思考して起こした行動でもない。ならば何が、彼の体をここまで動かすことが出来るのか。
言いなりにならなければ、恐ろしい苦痛が襲うぞと脅されているようだ。否、実際そうであるし、言いなりになったとしても自分は傍から見れば殺人未遂者だ。
「ただ……」
殺人未遂者になるだけなら、まだ希望は微かに見えていたのかもしれない。自分を信じてくれる、数少ない少女らの信念が歪んだものならあるいは。
それ以上に恐ろしいのは、レヴィの意識があるうちに自分に刃を立てること――。
アリスの殺し方を知っている以上、彼が意識のあるうちにあの苦痛が襲ってきて、それに対処出来なかった場合。その時は、レヴィ諸共死んでしまう。
誰の得にもならない、本当のバッドエンドがそこにはあった。
「……それだけは防がないと」
「んぅ……あっ、そこは!! ちょ、ダメですレヴィ君っ!」
突然色っぽい声を出しながら体をくねくねさせ、まるでそこにいるレヴィを誘うかのような寝相のアリス。
いや、これは寝相ではなく。
「アリス、分かってるよ。起きてるんだろ。目を開けなよ」
「……」
往生際が悪い。普段なら――半年前なら、こう言えばすぐに違う冗談に走ったはずだ。だが、今の彼女はそうはいかず、口は噤んでいるものの、未だ体はくねくね。
「殺意」が蔓延る中、彼女の行為に多少の苛立ちを覚えるのも無理はない。
思えば今まで、彼女にこういった感情を胸に抱いたのは初めてだ。
それほど仲が良かったし、喧嘩もほとんどしなかった。喧嘩や、例のすれ違いの時でさえ、そういった感情を孕んだことはない。
「……」
「レヴィ君っ! あっ……あぁ!」
「アリス!」
喉から締め出し、声を荒らげる。
余程大きな声を出したのか、部屋には少しの反響。
初めて怒りを露にしたレヴィに驚いたのか、アリスは目を開き、唇を震わせる。
こういった、他人の感情をまともに体に受けたのは、彼女も初めてだ。受け止めきれず、アリスはただじっとしてレヴィを見つめる。
「……」
声を絞り出し、冷静さを取り戻したレヴィはハッと気付き、アリスを見つめ直す。
アリスがこういった表情を見せるのはいつ以来だろうか。軽薄で、ニタニタとした表情が印象的だったのだが、今は打って変わって怖がっている。
石のように固まり、目尻から涙を零すアリスに、レヴィは歩み寄る。彼女は逃げようとも、彼に触れようともしない。ただじっと見つめるだけ。
アリスの、胸に手を当てた手を優しく取り、レヴィはベッドに腰掛けて言った。
「……ごめん。ちょっと考え事をしてて」
「……」
嗚咽もせず、瞬きもしない。
本当に固まってしまったかのようなアリスを、レヴィが抱き寄せようとした。その時、背後にただならぬ気配を感じる。
楽しみ。哀しみ。嬉しい。楽しくない。憎い。邪険。愛。恋。全ての感情がひと混じりになったような、ごちゃ混ぜの感情の具現化が、背後にいた。
だがそれは不可視で、後ろにはただ、白い壁があるだけ。
「……」
アリスはレヴィの突然の行動にも動じず、固まったままだ。余程レヴィの怒号が怖かったのか。
「アリス、ごめんね。別に怒ってたわけじゃないんだ」
「……ずっ……と……えんじ……つづ……けていたはな……」
彼女の口から零れたのは、ありきたりな言葉の羅列。その続きは、掠れたように聞こえない。
演じ続けていた花。確かに彼女はそう言った。意味が理解出来ずに、取り敢えずこの不気味な部屋から飛び出そうとした。
「アリス、一旦出よう。ここは――」
「ぶっ殺してやる」
彼女の口から放たれた言葉に感じたのは、恐ろしさ――などではなく、ただの快感だった。
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「ぶっ殺してやる」
突如放たれた言葉に、たじろぐレヴィ。
そりゃそうだ。アリスは今までで一度だって、そんな感情を表に出したり、それらしい素振りを見せなかった。狼狽えるレヴィの内心は、レヴィが抱いていた感情と同じものを彼女が抱えていたことへの感動も含まれていたかもしれない。
何故、彼女が。
何故、そんな顔で。
「アリス……やめよう。もう、やめようよ。こんなのおかしいよ。僕らは傷つけ合うべきじゃない。むしろ逆なんだよ……」
嗤っている。
そう言いながら、レヴィも、黙ってこちらを見つめるアリスも、同じく。同じように、お互いを嘲笑うように嗤っている。
「なんで……僕も……嗤って……」
気付かぬうちに引き攣るような笑みを浮かべていたレヴィは、口角をぐにぐにと解し、なんとかいつも通りの表情――この状況下で普通の顔ではいられない。少しは強張った。
アリスは自制が出来ていないはずだ。
そうでもなければ、不自然な程にああいった笑みを浮かべ、心の昂り故に笑い声が漏れたりなどはしないはずだ。
「アリス、やめようよ。もう、こんなのおかしい……」
「……はっ……はははっ」
歯止めが効かずに嗤い出すアリスを止める手立てはもうない。アリス本人がおかしくなってしまったのか、レヴィの殺意が伝染して彼女がおかしくなってしまったのか。
どちらにせよ、この場から脱することが得策であること以外は、頭に浮かんでこない。
少しずつ後退する。出来るだけアリスを刺激しないように、彼女がそれに気付かないように。
だが、彼女の目は確かにこちらの足を凝視している。眼は足に釘付け。
足が一歩――。
「ぅぬ――っ!?」
秒速どれくらいだろうか。
恐らく、蜻蛉が空中を移動するよりかは遥かに速い。人間が出来る動きではない速さで、アリスはレヴィの肩に噛み付く。
――熱い。ただ熱く、痛みは感じない。
咄嗟に避けることも出来なかったレヴィは、ただアリスに肩の肉を貪られる。
抉られ、千切られ、舐められ、再び抉られ。その繰り返しの中、ふと走馬灯が走る。
「――ヴェル。私……ずっとあなたを殺したかった」
「奇遇だね。俺もだ」
肩を喰われたくらいで走馬灯が走るようなヤワな体だったのかと、不意に疑問に思ったりもするが、それが起こった原因は肩を噛まれたことではなかった。
「ぇ?」
振り返るとほぼ同時。いや、それよりもコンマ一つ速い段階で――。
レヴィは腹を貫かれた。
意識が朦朧とする中、振り向くことが出来ないレヴィの後ろで誰かが囁く。
「次はちゃんとあ」
声が、消えた。




