102話 黒ユリ詛
――気付けば。否、目が覚めれば、そこは夢で見たような小さなアイリス畑ではなかった。それ以上に素晴らしく、大きく、広く、満開のアイリスたちが咲き乱れ、まるで辺り一面が黄緑と紫で染め上げられてしまったかのようだ。
上半身を起こし、隣を見やると、安らかな顔で眠るアリスの姿があった。
夢で見た「彼女」とは少し違った雰囲気に惑わされる中、アリスは目を覚ます。
眠っている間に繋いでいた手に、異常なくらいに力が入っている。それだけ離れたくないという気持ちの表れなのか。
だが、彼女の手の甲を一目見た時、その予想は大きく外れていたのだと理解した。
手の甲に刻まれた、まるでナイフで切ったような傷。それはまだ真新しく、正に「今、レヴィが爪をくい込ませて引っ掻いた」といっても誰でも理解が出来るほどだ。
だが、その証拠はアリスの自己治癒力によって掻き消された。みるみるうちに傷口が塞がっていき、最後には垢ひとつないような真っ白い肌だけが残った。
「……ぁ。レヴィ君」
「っ……アリス。おはよう」
久しぶりに彼女と話すのだというのに、先程の傷口を見た所為か、なかなか気持ちが乗らない。
痛みを感じる前に治癒力が働いたアリスは、何に対してレヴィが、これほど眉間にしわを寄せているのか良く分からない。
「……私、いらなかったですか?」
「そ、そんなことないよ! 何言ってるの? 君に会いたくて眠れなかったんだから……」
あまりのレヴィの険悪な態度に、自己嫌悪してしまいそうになるアリスを、ギリギリの縁で助けるレヴィ。
その言葉だけで、アリスの顔は綻び、パァっと笑顔が咲く。
「レヴィ君! レヴィ君! レヴィ君!」
「痛い痛い! その小高い鼻を押し付けないで!」
綺麗に整っている鼻だというのに、それをレヴィの腹に押し当ててグリグリと捻ってくる。こういったコミュニケーションも大事だが、久しぶり過ぎて体が着いていけない。
「むむ? レヴィ君、香水変えました? ルルルールの香水かな〜?」
「香水なんか使ったことないよ!? 僕の体臭そんなにいい匂いなの!?」
体臭に意外な一面を見つけてしまったアリスは、レヴィの仰天にも動じず、自分がいなくなってから彼がどうなってしまったのかをくまなく探してみるらしい。
時々くすぐったくなるし、触っちゃいけないところも触ろうとするのは少し怒らないとだめだ。
だが、そんなことをするのも普通のアリス。何ら特別なことは無いし、異常もない。ただ、唯一異常な点を挙げるとすれば――。
「あ、アリス。なんで手を繋いだままなの?」
「あれ〜? レヴィ君の手が離れないぞぉ?」
おどけてみせるが、そんなものは振り払う。それが彼女に対しての礼儀というものだ。
でなければ、こちらが異常だと捉えられるし、アリスにそんなことで心配をかけさせたくない。
フラグのようになってしまったのを首を振って払拭し、手を離してみる。フラグクラッシャーの効果が発揮されたようで、案外簡単に手と手は外れた。――離してみると、少し手が寂しい気もする。
「手が寂しいなら私の胸でも、もねぅぬぅ!」
「女の子らしくしてよ!」
――あぁ、だめだ。全部アリスの思う壷だし、このペースが心地良いと思ってる僕がいる。
アリスの口を手で塞ぎ、言葉を遮ってお淑やかにさせようとするが、彼女の猛攻は止まることを知らない。猛攻は増すばかりで、口を抑えられたまま前のめりになり、手が外れたところにキスをすらという、何とも素晴らしい強行突破だ。
「! ……アリス! 落ち着いて! はぁ……はぁ……」
「お、お……」
「……はぁ……はぁ……お?」
アリスの勢いを止めることに成功したレヴィは、少し退いて彼女と距離を取る。でなければ、このままでは魂ごと吸われかねない。そこまで激しいキスはしていないんだけども。
距離を取ったは良いものの、彼女の目からは何故か涙が溢れ出す。それも、尋常じゃないほどの量が。
また、最初の涙は赤い。夢――白い箱で見た通りの赤い涙が流れ、次第に透明になっていく。
何度も蘇る既視感と共に、忌々しい記憶が蘇る。
記憶、記憶と言うべきなのか。
予言でもなければ、事実でもない。
所謂これは、夢なのか。
それが夢なのだとしたら、彼は眠っている時に確かに言った。アリスに対して、「殺してやる」と。
「ぅ……?」
「レヴィ君、私……おかしいです……レヴィ君から離れたら……」
アリスが近付く。
それと同時に、心の底。脳みその端っこ。体の節々から生まれてくる、憎悪と憤怒。誰に対してのものなのか。それは聞くまでもなく、考えるまでもなく、目の前にいる少女。可憐で、肌が白くて、胸が大きくて、白髪の、可愛らしい、ヴェリュルスの奥さんの、レヴィの恋人の、大好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで好きで堪らない、他の誰でもない、アリシア・スパークスに向けてのものだ。
苦しい。怒り。憎しみ。残酷な殺し方。無残に。無惨に。切り刻んで。切り開いて。死んだら首を絞めて。喉の奥に剣を差し込んで。それを脳天が割れるように切り裂き。内蔵を食べ。四肢をもぎ。またゼロからや――。
「こ」
金縛りにあったように体が動かず、声も出せず、変な妄想が頭に蔓延った状況。だがそれは、五十音中の一言を口に出すことで解除された。
まるで、どこかの冒険者の謎解きのような、しかしそれとは比べ物にはならないほどの苦痛を伴うもの。
時間が止まったように感じていたが、それはただ単にアリスが恥じらって、言葉を口に出すのを躊躇っていたかららしい。
時間が流れ出すのと同時にアリスの口が開き、言葉を紡ぐ。
「死んじゃいそうなくらいなんです。あなたがいないと、私、おかしくなっちゃいます。だから、今だけは触れさせてください……」
「…………ぁ……あ、あぁ、うん。どうぞ……」
暫く我を失い、心ここに在らずだったレヴィの体にアリスが跨り、口付けを。
柔らかく、潤った唇がレヴィのそれに触れると、先ほどの痛みや苦痛はどこへ行ったのやら、彼女に愛されているという感覚だけが残り、とても清々しい。
だが、こんな時間も、いつまでも続かない。唇が離れるのが少し切なくて、離れかけたアリスの体を、頭を抱え、再びこちらへ。
アリスは驚いたように少し体を跳ねさせたが、それくらいで動じる少女ではないらしい。
キスの最中、レヴィの視界の先でリリィたちが見えたが、彼女らにはお構い無しに続ける。多分後で怒られるだろうなという予感だけはしておいて、本命のアリスと愛を育む。
それだけだ。
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「全く! キスも程々に! リリィたちだって傷付くんですから!」
アリスが戻ってきたことを放ったらかしにして、リリィがレヴィとアリスに説教している刻。
視界にチラチラと入り込んでいるアブセルトと話したい気持ちが抑えられないアリスは、徐に立ち上がって彼女に抱き着く。
「あぅ!? こら! 聞いてるんですか!? こらぁ!」
「あぶぜるどざまぁ!」
「な、何だよ!?」
怒るリリィと、アブセルトに関する記憶も全て戻ったアリス。そして、何故か鼻水ダラダラで向かってき、自分の服で鼻水を拭くアリスに本気で突き放そうとするアブセルト。
誰もが良い感情。というわけではなさそうなのだが、それなりに均衡の取れた日常が戻ったようだ。
輪に入れずに佇むリリとは違い、少し離れたところで蝶々を眺めて大人らしい雰囲気を醸し出しているミーナに、レヴィが歩み寄る。
「あのあとどうなったの?」
「王様が祠に触れてからは覚えてないんだよ。気付いたら花畑に寝かされててさ、しかも王様とアズリエルはやけに遠い所にいるしさ。めっちゃキスしてるし」
祠のあの光もまた、白い箱の中での光と同じようにどこかへ移動させるワープの機械なのかもしれない。それと同時に、神との対話が出来る――神との対話がおまけのようになってしまっているが、恐らくそういうことなのだろう。
レヴィたちが遠くに飛ばされたのは、きっと二段階目の光に触れたから。そう考えれば、かなりパズルは当てはまる。
ミーナの言い分によるとそうらしいが、彼女の言葉の中に聞き捨てならない言葉が一つあることに気が付いた。
「もう大人だからキスくらいするの!」
「ひゅーひゅー」
「棒読みじゃん……」
気持ちのこもっていない、低い声のひゅーひゅーを聞き、何故か落胆した気持ちでアリスの元へと向かう。
風が心地良い。
アイリスの香りは独特だが、あまり香りに敏感でないレヴィからすれば、全てが良い香りに感じてしまう。ある意味物凄く便利な鼻だ。
アリスに声をかけると、丁度彼女もレヴィと話したかった様子で、満面の笑みで手を差し伸べてくる。
「また手、繋ぐの? リリィに怒られるよ」
「別に……嫉妬してるわけじゃ……」
「ツンデレぃっ!!」
すかさずアリスが言葉を砲台で撃ち込むと、リリィは「誰がですか!」と撃ち返す。
全く。と言いたい気持ちも山々だが、リリィはリリィで大人な対応を取った様子。悔しさに唇を噛みながら、一人で佇むリリの元へと話しに行った。
アリスは、我こそが勝ち組だと胸を張り、周りの少女たちを見渡すが、誰も彼女とレヴィの時間を邪魔しようとは思っていない。
皆が皆、暖かい目で見つめ、しかしその目の奥には虎視眈々とレヴィを奪えるチャンスを伺っている。
「なんか私が子供みたいじゃないですか!」
「子供なんだよ。鼻水垂らしてるし」
「子供だよ。胸でかいし!?」
片方、少し論点が――と言うよりも言っていることに矛盾が生じている少女がいたが、彼女の巨乳嫌いは放っておこう。
今はとりあえず、アリスと二人きりで話がしたい。
小高い丘を超えると、そこは一変変わって一面がクローバーだ。
一見、普通のクローバーの群生地にも見えるが、所々にユリが咲いている。少し縁起が悪そうだが、黒いものも見当たる。
丘のへりに座り、二人で広大なクローバー畑を見渡す。下界で見た、ユリ畑に少し地形自体は似ている。
あのユリ畑は生の呪いがかけられていた。そこに行っていたおかげで、黒鴉を征伐し、色々あってこういう風にアリスと話せている。
あの時アリスがユリ畑に連れて行ってくれなければ。今のこの状況は少し変わったのかもしれない。
「……ここは天界なんですか?」
「そう。ノヴァーテだ。綺麗だよね……ちょっと荒廃した街でさえも、芸術的に見えるよ」
その発言に、アリスは「えぇ……?」と疑問を浮かべる。芸術そのものには興味があっても、芸術を見出すことを知らない彼女には少し早すぎる話だ。
ただ、アリスの横顔が愛しい。
こんな素晴らしい状況の中、全く関係の無いことを考えていた。
ひとつ分からないこと。
それだけが、頭に残って。
なんで。
――殺したい。
という気持ちが湧くんだろう。




