95話 蒼の天秤
「突然でごめんなさい。でも、今じゃないとダメだ」
リーフェンスとミーナを連れ、屋敷へと帰ったレヴィは徐にリルムを呼び出し、目の前で言った。
リルムは顔に泥を浴びせられたように苦渋の笑みを浮かべると、レヴィに向き直る。
「……どういうことかしら……?」
「天界……今すぐじゃないとダメだ」
その言葉と、ミーナを連れているこの状況から全てを察したリルムは、強ばらせた顔を右手でほぐした。
おおよそ、ミーナが何かを告げたのだろう。だから、こうしてレヴィは躍起になって行動を起こそうとしている。
レヴィがこうして感情的に行動を起こすのは、大抵が人の為に動く時だ。恐らく今回もアリスのことを吹き込まれたのだろう。
「……ミーナちゃんは大丈夫なのかしら?」
「手錠をはめてます。魔力鎮静剤も打ってるから、多分逃げ出そうとしても無理ですよ」
その言葉に、ミーナは少し顔を歪める。
手錠をはめられた手首が痛むのか、それとも失策だったことを悔いたのか。
「そうなのね。ところで、なんで私の所に?」
「リーフェンスのことです。全て聞きました」
屋敷に戻る途中で、リーフェンスから全てを聞いた。
彼女は「創造の智」を持つガヴェイン。その力はあらゆる創造に対応していて、例えばこの場所で大昔の建造物を創造しろと言われても、成し遂げることが出来る。
この力を彼女本人の口から聞き出したレヴィは、ふとひとつの答えを導き出した。
「――艇、ね」
「そうです。彼女の力があれば、出来るでしょう?」
ほとんど間違いではない。しかし少し違うと言うように、首をゆるゆると振るリルム。
「この力は強大過ぎるのよ。それ故に、力をかなり摩耗してしまう……気付いていたでしょう? この子が少し、元気がないこと」
「……これで元気がない方なんですか?」
そう言うレヴィの片腕を握り、頬を擦り付けるリーフェンスは元気そのもの。まさに具現化したような明るさである。
「そうよ。いつもはもっと明るいもの。今は……少し陰ってるわね」
「うっさい。陰ってるとか言うな」
言い返す口ぶりからは、そこまで気力の無さは感じられない。むしろ、今までで最高潮じゃないかというほどに。
――好きな人の選んだ服に身を包み、それをあれほど褒められたなら、そりゃあ少しは気が良くなるのも無理はないが。
「ともかく、この子にはまだ無理なの。今日とは言わず、そうね……明後日くらいには回復してるかしら?」
「……明後日……ミーナ、間に合う?」
力なく首を縦に振るミーナ。
それにはレヴィも安堵の息を漏らす。
「じゃあ……明後日か。それまでに全員には伝えておきます」
「えぇ、お願い」
それだけ言うと、リルムは体を翻し、自室へと帰っていく。その後ろ姿を見つめながら、どうにか手錠を外そうとしているミーナの頭をぽんぽんと叩くレヴィ。
「どしたのさ」
「戻ってほしいなぁってね」
「?」
あどけない表情で、レヴィに小首を傾げるミーナは、その本質さえ垣間見えなければ、ただの可愛らしい少女だ。
――ミーナの件と、アリス、そして天界の件が全て片付けば、何もかもが上手くいくはずなのだ。なのに、何かがそれを阻もうとする。どうしても、目的までに壁が生まれてしまう。レヴィの生まれた星なのか、それだけは昔から変わらない。
「『王様』、伝えに行くんでしょ?」
「……うん」
ミーナから溢れる、謎の温かみを感じながらも、レヴィはその足を進めた。
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屋敷の二階に位置するとある部屋に、トオルは立ちすくんでいた。否、頭を抱え、今にも発狂しそうな程にもがき苦しんでいた。
腹の底から煮えくり返りそうな怒りが湧き上がり、その感情は抑制出来ない。
胃の裏が痒くなり、腹を掻き毟ってはその痛みに苦痛する。
終いには手を喉に差し込み――。
「うぁあぇぶぉ!! あぁ……うぶっ……」
吐き気など優しいものだ。
それ以上に、具現化したような憎悪と怒りが、体を蝕む。
苦しい。その言葉だけが頭の中を反芻し、飛び交い、ぐちゃぐちゃになった感情が表裏ひっくり返り。
妹のこと――そんなことさえも忘れ、暴れ、髪を掻き毟り、自傷し、部屋のあちこちに体をぶつけ――。
「――」
赤眼が光った。
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それは突然だった。
屋敷の奥で小さな明かりが灯ったかと思えば、その光は突如として大きく膨張し、破裂した。
光に呑まれたレヴィ一行が目を開くと。
「なん……」
レヴィたちの立っている廊下の奥に、ひとりの影が見えた。ひとりのはずが、それの圧迫感はまるで何十人にも囲まれているような。そんな風にさえも感じさせる程の威圧感が、廊下を包み込んだ。
それは、リルムと話したことを皆に伝えて回ろうとしていたレヴィ。リーフェンスの手を引き、アブセルトと会話を始めた瞬間だった。
「……やべぇぞ」
「やばい? あれは……トオル?」
廊下の先に立つのはトオル。
その表情は暗く、口元には何やら吐瀉物のようなものが付着している。
様子のおかしいトオルに近付こうと、レヴィが足を踏み入れた瞬間、世界が反転する。
「え」
世界が反転したのではない。自分が宙に投げ出されたのだ。胃の中の何やら分からない液体が、体の中で踊るのが良くわかる。
足がおぼつき、ふわふわという感覚が体を包む。
「――……ったぁ……」
「レヴィ様!」
「レヴィ!」
アブセルトとリーフェンスの声が重なるが、脳震盪の所為で声が何重にも重なって聞こえる。
何が起きたのか――自分がひっくり返ったこと以外は全く把握出来ないまま、レヴィはゆるゆると立ち上がる。
彼の視線の先にはトオルが。
その距離は、恐らく一歩では到底到達出来ない。
なのにレヴィはひっくり返った――。
「トオル……? どうしたの?」
「レヴィ、あれはトオルじゃねぇ」
その言葉に、言葉を失うレヴィ。
全てを察したのだ。
紅く光る眼光と、体から溢れ出る狂気。幾度となく対峙した悪の存在、仰望師団であると。
「トオル……嘘だよね……君だけは……大丈夫だって思って……」
レヴィの声に微動だにしないトオル。ただ立ちすくみ、虚ろながらも鋭い目付きでレヴィを射抜くだけ。
――トオルだけは、侵されないと思っていた。仰望師団という悪に、ひれ伏さないと。それを振り払うだけの強さがあると、信じていた。
だがそれはただのレヴィの思い上がりで、実際はそれとは程遠い、悪夢のような現実が目の前に広がるだけだった。
「レヴィ、お前も気付いてるだろ。あれになっちまったら、もう元に戻る手立ては――」
「嫌だよ」
「嫌だって言っても……」
そんな言葉を発することも、彼と剣を交えることも無意味だと、レヴィは。否、彼が一番分かっている。
なのにどうしても、限りなくゼロに近い可能性に縋ってしまう。トオルが、自力で戻ってくると。
「君は……俺が救う」
「レヴィ……」
彼を身動き取れない状態にしたとしても、そこから話し合いでどうにかなる相手でないことは承知の上だ。
力でねじ伏せ、活き活きとしたトオルを取り戻す――出会ってそれ程間がないのに、レヴィは無意識にそう思っていた。
「――」
「必ず」
その言葉を筆頭に、レヴィは踏み込んだ。
前傾姿勢を取り、相手に首を取られないように注意しながらトオルの懐に入り込む。
「はああっ!!」
クロウでなく、たまたま持ち合わせた剣故に、その剣は脆く弱い。だから、本気で振り切って仕舞えば、剣は耐久しきれずに破損する。
本気で振り上げられないが、その力加減には自信のあるレヴィ。
微妙な加減を加え、剣が渾身の一撃となってトオルの首元に迫る――が。
「と――」
ものも言わないトオルは、レヴィの剣を片手で受け止めると、それを握り締め、いとも簡単に壊してしまう。
バラバラと破片が散る最中、レヴィは垣間見た。トオルの目の奥に光る、青色の光を。
「ふぇ――」
最早、狂気ではなく悪魔そのものだ。
そこにいるだけで威圧感を与え、一度触れることがあれば恐れおののいて失禁してしまうような。
そんな存在を目の前にして、レヴィは何も考えられずに倒れ伏した。
ここまでの間、たった七秒。
「レヴィ! このっ! どこの精霊か知らねぇけど……さっさと消えろよっ!」
そう叫び、陽喰の剣でトオルの腹を断ち切るアブセルト。剣に宿る淡い橙の光が、トオルを通り抜けた瞬間、眩い閃光が飛び散る。
通称、エルゼルム。陽喰の最終奥義とも呼べるそれは、「隕鉄を断ち、空を割る」と噂される。
エルゼルムが屋敷の廊下全てを橙に染め、閃光が暗闇と溶けきった時、アブセルトは驚愕に声を詰まらせた。
「――っは……?」
確かにトオルの腹を切り裂き、その手応えも確認した。更に言えば、そこから吹き出るはずの返り血も、確かにアブセルトの左肩に着いている。
なのに――いや、その血が誰のものかは、自身の腹に走る激痛から、確認出来た。
「ぐはっ!?」
真っ二つとまではいかないが、まさに腹の皮一枚で繋がれた腹部は、赤ん坊が泣くように、血が吹き出ている。
呼吸の度に空気がヒュッヒュッと腹から漏れ、その音が二度目の死へと、アブセルトを誘う。
「姉さん! はぁっ!」
どこからか駆け寄ったレイラの一撃は虚しく回避され、トオルは窓を割り、地面へ落下。
――落下如きで死んでしまうのなら、アブセルトはこうして腹を抱えて脂汗をかいていない。
くるくると回転し、綺麗に着地を決めたトオルは、漸く立ち上がり、割れた窓から覗き込んだレヴィを青い視線で射抜く。
「レヴィ様……あれ……」
「トオル……何が……もしかして、邪精霊に……?」
その問いかけにも返事はせず、トオルはただ翻ると、ゆっくりと歩き出す。
「待って! トオル!」
何も出来ずに立ちすくみ、石のように固まったリーフェンスを置いて、レヴィは階下へ向かう。
螺旋階段を下る途中、何度も足がもつれ、踊り場へと転げ落ちるが、そんな痛みは感じないも同然だ。
トオルを助けたい一心で、庭へと飛び出たレヴィを、誰かが止めた。
「レヴィ。止まれ」
「ヴェ……リュルス。ごめん、今はトオルが最優先だ」
「……一回飲み込まれたお前なら分かるだろ? あれは己の強さで立ち向かわなきゃ、勝てないし抜け出せない」
そんなこと百も承知だと、涙を溜めた目で訴える。目の前にいるはずのヴェリュルスが、涙でぼやけ、滲み、消えそうになり、涙を拭く。
「だから待て。ゆっくりでもいい。焦らず、あいつの気持ちを変えてやればいい。今近付いて、もしもお前が殺されてみろ。あいつは心に傷を負う。そんなの嫌だろ? なら、万全の用意をしてあいつを助ける。それでいいじゃねぇか」
「でも……どこに行くか……分からないじゃんか……」
それも一理ある。というように、頷き、暫く目を閉じるヴェリュルス。彼を振り切り、トオルを追うことも出来ただろうが、レヴィはあえてそれを選ばない。
彼の言葉を最後まで聞くべきだと思ったから。
「お前は……どうだった?」
「え……」
突然の問いかけに、言葉が詰まる。
どうだった――か。
「アブセルトやレイラを殺しても、それでも信じて待ってくれている人がいた。……まぁ、最後はたまたま出会ったが……それでも、信じてくれていたことに嬉しさを覚えたはずだ」
「……」
「なら、あいつにするべきことは同じなんじゃないか?」
――ヴェリュルスの言葉は、いつも核心を突いていて、僕の心を導いてくれる。
その事実があれば、彼の言葉を信じるに越したことはない。今はトオルを負うべきではなく、アブセルトの容態を確認し、応急処置をすることだと、心の中で彼が囁く。
「……ヴェリュルス、ありがとう」
「例には及ばん」
その言葉を交わすや否や、彼は目の前から霧散する。元々幻覚のような彼だ。どんな消え方をしたって、不思議には思わない。
階上では、割れた窓からリーフェンスが覗き込み、「レヴィ様!」と叫ぶ。
おおよそアブセルトの傷が――と言ったところだろう。
闇夜に溶けたヴェリュルスの影に、何故か涙を流しながら佇むレヴィは、それを拭うと翻り、足早に階段を上った。




