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溶け残りのコーヒー

作者: KEITA

※ちょっぴりお下品ワード含みます

※やっぱりフィクションなので、細かいことは気にしない方向でお願いします

 


 幅広のカップに、砂糖をティースプーン二杯。

 続いてコーヒーの粉末をどさっと。

 沸騰したてのお湯を注いで、適当にかき混ぜて。

 最後に、クリームならぬ牛乳をちろっと。


 小さな手で大きなマグカップを持ち、彼女は唇を尖らせて熱々の表面にふうふうと息を吹きかける。軽くうつむいたのでさらっと髪が頬にかかった。手元の褐色とは別の風味、学生らしい明るい茶髪はコーヒーというより紅茶に近い。

 まだ傷みの少ないそれを軽く耳にかけ、彼女はもう片方の手でもう一つのカップを差し出してきた。こっちはミルクのみで砂糖が入っていない。

「ん」

「さんきゅ」

 大きさからして持ち難そうだというのに、相手が受け取りやすいよう取っ手を掴んでない辺り、ぶっきらぼうに見えて気遣いな彼女らしい。カップの側面を掴んでる手の平が熱そうで、めいっぱい伸ばされた指が辛そうだ。

(ムリすんなよ)

 苦笑を堪えつつ、ぷるぷるしてるその手元からありがたく受け取って、和明かずあきは突っ込まれたままのスプーンをかき回す。ふっと形ばかり息を吹きかけ、まだ飲めないと判断してかき混ぜを続行する。猫舌でない彼女はもう一口含んでおり、その横顔は満足気だ。グロスを拭った唇はほんのり濃いめな桜色。

 和明は手元にまた視線を落とす。乳白と褐色のあいだのにごりがカップの上部で渦巻いている。黒点のように浮かんだ顆粒がかき混ぜるごと、すじを引きながら見えなくなり、ミルクを加えたコーヒーらしい色合いとなっていく。少し冷めたかなという案配で口をつけたが、まだ熱い。「あち」と舌を出す和明を見つめ、彼女は唇の端で笑った。

 ちょっと悔しくなって、カップを持ち上げわざとらしい声を出す。

「この深み皆無な苦さ、ぺらい香り、飲む方の都合などカケラも考えていない暴力的水温、安っぽさと適当さ……まさに壷口の淹れたコーヒーだな。違いの解るおれ。だばだ~だ~ば♪」

 某CMで有名になったメロディを口ずさめば、茶髪の下、上向かせてマスカラを塗った睫毛が瞬く。

「ネタが古い」

 容赦無いツッコミである。続いて黒色で囲った目で、ぎろりと睨み半分の笑み。

「コーヒー飲みたいっていうから淹れてあげたのに……そんなにでこピン食らいたい?」

「すいません、猫舌の負け惜しみです」

 素直に謝った。あれは結構痛い。

「冗談だって。おれ好きだよ、こういうの」

「……ばーか」

 安っぽい適当コーヒーを手に、彼女はそっぽを向いた。無表情に厚めのファンデーションで顔色は隠れてるけど、薄めの耳たぶに一瞬だけ赤みが差したことに、和明はちゃんと気付いている。気付けた自分が、誇らしい。

(そのアイライン似合ってないとか言ったらでこピンされるよな、やっぱり)

 手の平に感じるカップの熱よりも何よりも。彼女は、誰より確かな色で和明の心を温めてくれる。


 ◆◆◆


 彦村和明ひこむら・かずあき壷口希つぼぐち・のぞみと出逢ったのは、今の大学に入った直後のことだ。

 高校時代、とある事情から対人恐怖症気味になってしまった和明は、新しい環境下でも中々踏み込んでいけなかった。押し寄せる人の波、貼り付けた仮面のような人の顔、無機質なスピーカーから流れてくるような人の声、ついていけないオンライン上のやり取り、中身がまったく頭に入らない会話。友人らしい友人が誰一人出来ず、途方に暮れていた。和明個人としては他人を拒絶したいわけでなく、その反対だったから。

 和明は恐らく同年代連中の誰よりも、友人を欲していた。大学という新しい環境に、人一倍期待を抱いていた。しかし、現実はこうだ。相応の機会が目の前にあるというのに、踏み込んでいけない。他人に合わせるという、出来て当たり前のことが出来ていない。やり方もわからない。そんな己を自覚するごと自信もますます失われていくという、実にわかりやすい悪循環。

 そんな和明に差し伸べられた小さな手、それが彼女のものだった。

『隣、いいですか』

『は、はい……ッ!?』

 独りで受けていた講義の席、隣の椅子に座りつつ話しかけてきた高めハスキーな声。横を見れば、思ったより低い位置に細い肩と小さな横顔があった。あの頃はまだ染めていなかったきれいな黒髪が、首の半ばでさらさらと躍る。

 手触りの良さそうなそれを耳にかけ直し、小慣れない化粧の小さな顔がこちらを向く。やや細めに切れ上がった奥二重の瞳がまっすぐに和明を見上げてきて、内心で息を飲んだ。男子校出身者にとって、異性との(物理的)急接近というのは緊張するものである。

 そればかりか。

『よくご一緒しますね』

『へッ!? そ、そ、そうなんですか』

 どうして、こんな可愛い女の子が自分に話しかけてくるんだろう。

『ええ、よくお見かけするので……あ、もしかして、後期第二言語コレとってますか』

『はッ!? そ、そ、そ、そうですっ』

 ひょいっと無造作に鞄から日程表の写しを取り出し、蛍光ペンでラインされている箇所を惜しげも無く見せ、確認してくる女の子。シャンプーだろうか香水だろうか、甘い匂いがほのかにする。緊張のあまり、つい勢いで自分のも見せてしまった。

『一緒だ。すごい被ってますねえ』

『は、は、はい』

 どうしてこんなことになっているのだろう。


 彼女はそれからも、ちょくちょくと和明の隣に座り、何かと話しかけてきた。なんと、少し前から和明に声をかけたいと思っていたらしい。

『ど、ど、ど、どうして、おれに、』

『少し前の講義で、いきなり担当教室と日程が変更になったことがあったでしょう。そのとき私、後ろの方の席に居たんですけど、みんなが慌ててスマフォとかタブレットとか取り出して一斉に情報確認してるのがよく見えたんです』

 和明達の通う私立大学は学部が多彩で講堂が広く、教室の数も多い。その分移動が大変で、慣れない新入生にとっては一つの変更が大幅な時間ロスともなる。大学側はそれを考慮し、オンライン上に案内ページ並び連絡網を作り、会場の位置など分りやすい図解付きで情報発信しているのだ。もちろんこういった公式アプリは慣れていくうち使わなくなるのだが、キャンパス入門編としてお手軽なそれを利用している新入生は数多かった。

『当たり前なんだけど、みんなライン確認後にすぐ立ち上がって移動して。でも、その中で、』

 和明だけが、他と違う行動を付け加えていた。すなわち、鞄から講義日程が印刷された紙と蛍光ペンを取り出し、その場で情報を修正し直すという行動を。

『入学の時の大量の資料、それを捨てずに使ってる人が私以外に居たんだって知ったら嬉しくなったんです。大抵スマフォで全部纏めちゃうけど、一部アナログでやってる人いたんだなって。しかも、蛍光ペンでマーカーなんて私と同じやり方で』

『そ、そ、それは、』

 和明のこれは、癖のようなものだ。受験勉強の延長、ただ単に手で書いた方が覚えやすいから、という。

 そのことを言うと、彼女は奥二重の瞳を一度ゆっくり瞬かせた。そしてあの高めな掠れ声で。

『一緒だ』

 同年代の女の子に有り勝ちな大袈裟な喜びようでなく。ただ静かに、和明を見つめて発されたその一言は、全開には見えずとも、和明の胸のどこかにすとんと落ち着く、感じの良い同意であった。


 彼女の動機はわかったが、正直、和明は戸惑った。戸惑って、最初は様子を伺うようにしか接することが出来なかった。同じ日程表を使っていたからなんて、そんなちっぽけな理由で、自分なんかに打算抜きで話しかけてくれる人間(しかも女の子)がいること自体、信じられない。

 入学当初、早々に挫折してから和明は疑心暗鬼になっていた。容姿はもちろん会話が巧いのが単純にモテる、それが学生の普通だということはわかりきっている。こんな外見からしてパッとしない、口を開けば無様にどもるような会話下手は相手にされないはず、これは絶対何か裏があると。

 今考えると自意識過剰にも程がある。しかし恋愛どうこうは勿論、共感や人間的な好意を疑い無く受け取るのが難しかったのは、当時の心境として仕方ない。なにぶん、高校時代に受けた心の傷が浅からぬ時期。普通のモテない男なら勘違いしてしまいそうなシチュエーションを勘違いせずに済んだのは、ひとえにこの(情けないが)自己卑下のお陰である。

 幸いだったのは、そんな和明の内心を無意識に思い遣るよう、彼女は必要以上には踏み込んでこなかったことだ。こちらの事情なんて知らなかっただろうに、ビクビクしている手負いの犬を優しく手懐けるよう、間合いを図りながらゆっくり近づいてくれた。

 入学した当初から自分のコミュ障ぶりはわかっていただけに、和明は戸惑いつつ驚いた。というのも、話しかけられることが全く苦でなく、(どもりつつも)普通に受け応えが出来たから。和明は前述の如く会話下手、彼女自身もおしゃべりというわけでない。しかし、接していると不思議に落ち着いた。彼女は話しかけて欲しい時に話しかけてくれるだけでなく、和明が言葉に困った時、すっと一歩引いて待っていてくれる人なのだ。まるで声無く手招きをするように、途方に暮れていた和明を導いてくれる。

 過去に、わずかだが気の赦せる友人は居た。でも、事情ゆえの切羽詰った環境で和明が縋りつくように救いを求めた結果であり、少々同情混じりに馴れ合ってくれた連中だった。最初からなんのしがらみ無く、他人と仲良く出来たのは一体何年ぶりだろう。……これほど自分と相性の良い人間は、果たして今までいただろうか。対人恐怖症ながら話し相手が欲しいという矛盾した願いを抱いていた和明にとって、それは本当に心地よくありがたい、絶好の縁だった。己を否定しない他人と接することでほのかな自信が湧き、彼女の友人をはじめ少しずつ交友関係も広がっていった。学校という学生交流の場が本当の意味で居心地の悪くない場所になったのは、紛れもなく彼女のお陰である。

 異性云々など関係なく、いつしか彼女と席を一緒にするのが楽しみになり。

『おはよう』

『あ……! お、おはよう!!』

 いつしか敬語を取っ払って話せるようになって。彼女の姿を人ごみで見つけるだけで、ぱっとその場に光が差したよう気分が明るくなって。視線が合って言葉を交わすと、心がぬくぬくぽかぽかとして。彼女相手ではどもることも、滅多になくなり。

 親しみを親しみと受け取ることが出来るようになってからは恐縮が感謝に変わり、抱えていた疑心を申し訳なく感じた。そして和明は、いつしか勇気を振り絞り、彼女に言ったのだ。『友達になって欲しい』と。

 彼女は笑って、こう返してくれた。

『もうそのつもりだけど?』と。

 根暗なコミュ障男はその瞬間、彼女を――壷口希つぼぐち・のぞみを、生涯の友にしようと決心したのである。勿論、自分の中だけで。


 ◆◆◆


「ところでさあ、どうして最初に砂糖入れんの?」

 丁度いい温度となったインスタントコーヒーを啜る。ぐるぐるとかき混ぜつつふと気になったことを訊いてみると、彼女は答えた。

「だってその方が溶けやすいから」

 ミルクが顆粒のものだったとき、入れるものが固形物の場合。彼女は全部をカップに開けてから湯を注ぐ。後入れするのは、それが液状のものだった場合だけだ。

「それに、」

「それに?」

 小さな唇であっという間に一杯飲み干し、空になったカップを置く小さな手。そこに新たにまた砂糖と粉末コーヒーをどさっと投入し、スプーンでさくさくと山を崩す。彼女はそうしてそれを和明の方に傾け、カップの中身を示した。


「見てよホラ。これ、雪みたいでしょ」


 指されたものを覗き込む。純白の砂糖の山に、ぱらぱらと散った茶褐色のコーヒー粒。軽く混ぜ合わされたそれは、まるで溶けかけの雪とその隙間からまばらに見え隠れする土のようだった。

「……言われてみれば」

「ん」

 和明の同意に、満足そうに一つ頷いて彼女は席を立つ。保温ポットから熱湯をカップに注ぐためだ。六分目くらい入れてからまた、牛乳をちろっと後入れするのだろう。

 カフェオレというよりミルクティー前といった風合いの髪、その後ろ姿をちら見しながら和明は言われなきゃ気付かなかったな、と考えた。

(てゆうかたぶん、壷口以外に言われてもぴんとこない)

 彼女に言われたことだからこそ、こんなにもあっさり同意の気持ちになるのだとも。和明は彼女にかけては、自分でも呆れるくらい従順だと自覚している。犬というより、物知りの先生から知らなかったものを教わる児童のような、素朴な興味と純粋な納得。

「ふーん、雪、ねえ」

 なんの気なしに呟くと、くるり、と紅茶色の髪が振り返った。切れ長の瞳と目が合って、一瞬どきりとする。じっとその後ろ姿を見ていたことに、気付かれたのだろうか。

 湯気の立つカップをくゆらせつつ、小さな唇は開く。

「……まあ、雪とか、見えなくもないってだけで。冗談だし」

 彼女の耳たぶは、またほんのり赤くなっていた。

「いや、急に決まり悪げにされても」

「うるさいな」

「壷口がけっこうポエマーなことは、随分前から知ってるし」

「シャラップ」

 自分の言葉に時間差で恥ずかしがっている彼女に対し、またにやにやとした笑いがこみ上げてきた。こういう反応が返ってくるから、自分は彼女のことが知りたいのだ。そして予想通りだと口の端が緩む。

(壷口って、そういうのが好きなんだよな)

『霜柱ってざくざく踏むの気持ちいい』

『ツララって武器ってより楽器になりそう』

『雪祭り、行ってみたい。でも混んでそうだよね』

 そんなことを常々言っていることを、和明はちゃんと覚えている。机の脇に置かれたシンプルな肩掛け鞄、その内部には、有名なアニメ映画のキャラストラップが控えめにくっついたペンケースが眠っている。ちなみに携帯の待ち受けはそのキャラクター。彼女はクールそうな見かけと裏腹に、結構メルヘンちっくな嗜好の持ち主だ。本人は隠したがっているけれど。

(コーヒーに砂糖どばどば入れるしな)

 つんっと横を向いたちっちゃな鼻、短めながらつんつんと上向いた睫毛。薄い唇がちょっと引っ込んでいるのは、むくれた時の癖だ。そんな顔を見るとまた、何かを仕掛けたくなる。でこピンされるのは勘弁だけど。

「それ以上笑ったらでこピン」

 思ったそばから。

「へいへい」

 笑みの形に曲がった唇を、カップに埋めることで誤魔化した。



 狭い屋内に漂うのは、コーヒーの芳香とゆったりした時間。

 講堂脇に建てられた木造家屋には、無数の愛好会や研究室が在る。和明達がいる場所もその一つで、彼女が所属している「音楽部α」はつい最近設立された新部である。彼女いわく「好き勝手に自分の好きな音楽を持ち寄って聴きまくる」だけの部らしいが。

 レコード台やカセットデッキなど、二昔前くらいの音源がその場に置いてある。「音楽部α」はそういうのが主流らしい。部室は部外者でも基本出入り自由、ソフトは各自持ち寄り、場所を取らせないため貯蔵は別の場所。他にあるのは教授らから譲り受けたお古の電気ケトルとティーバック、インスタントコーヒーと無骨なマグカップのみ。暇潰し材料はおろか現代人らしい娯楽の無い空間だが、和明は飽きなかった。この部の緩い空気が気に入ってるし、彼女と一緒に茶を飲んでいるだけで、個人的にとても落ち着くのだ。

 さほど大袈裟でもなく、彼女の姿を見つめながら話していると、耳と目が両方しあわせだ。ぽかぽかと温まっている胸に柔らかいものがぴたっとくっつくような、そんな気持ち。これはなんだろう、もっともっとと求めたくなって、意味無くまたじっと見つめてしまう。見つめていると、更に近づきたくなる。近づいて、黒で囲った奥二重の瞳を誰より近い位置から覗き込みたくなって。ファンデの膜で覆われていないぶぶん、赤みの差している小さな耳たぶに、齧りつ――

(いかんいかん)

 そこまで考えて、和明は視線を外した。だいぶぬるまり水深の浅くなった手元の褐色を眺め、意識をそこに持っていく。「また」思考が変な方向に行きそうだった。

「彦村、」

「ん? ……ッ」

 呼ばれて顔を上げ、びっくりした。彼女がいつの間にか近くにいる。机にマグカップを置き、そっと手を伸ばしてくる。空気が動き、ほんのりコーヒーが香った。それと、彼女自身が纏う甘い香りが。

「顔赤いけど。なに、風邪引いてたっけ?」

 ふんわり。小さな手の平が、和明の額に触れる。温度が低めな、優しい感触。そして、大きめに開いた袖口から見えた、服の中へと続く細い手首。淡く翳ったその向こう。

(柔らかそう。甘い。気持ちいい。……気持ち良さそう)

 視界と匂いと感触の正直な直結に、慌てて顔を逸らす。払われた風になった彼女が訝しげな表情を浮かべたが、笑顔でごまかした。

「な、なんでもない。大丈夫だって。ちょっと暑いだけ」

「そう?」

 押し隠す。浮かんだものと、ちょっとした身体の反応を。

 椅子に座ったまま何気ない風を装い、こそこそと身体の向きを変える。まだ初春の肌寒い時期、長めのジャケットを羽織っていて良かった。小さな部室に二人きりというせいもあるけど、男ってのは本当に情けない。

「暑いなら脱げばいいのに」

「冷えのぼせってやつだよ」

「なにその女子感」

「女子ですからー」

「ウソつけ」

「おお即効でバレた」

「アホか」

 談笑しつつ、知られないように唇を噛み、脳内で自分を罵った。

(アホか、この童貞野郎。「親友」に何考えてんだよ)

 そう、彼女は和明にとってそういう対象ではない。そういう対象に見てはいけない。

(壷口は壷口だし)

 そこらへんの週刊誌に載っているような、きわどい水着でポーズしている大衆的な存在と一緒にしてはいけない。レンタルショップの暖簾向こうに積まれているDVD、その中で「大学生」顔で出演しているのとごた混ぜにするなんてもってのほかだ。まして、同じ学校の同年代のとはまったく別の位置に居る存在なのに。

 彼女は、当たり前だけど女の子。女の子だけど――「そういう意味での女の子」ではない。

(壷口は――初めて出来た、おれの親友なんだから)

 その事実を、壊してはいけない。


 ◆◆◆


 壺口希と仲良くなれたことは、和明にとってまさに僥倖だった。その後の大学生活が円滑になっただけでなく、生まれた気持ちの余裕が学校外でもいい影響を及ぼし始めたのである。


 和明の実家は、大袈裟なものではないがちょっとした資産家だ。住まいは都心の一等地、生活基準は一般家庭より多少裕福といった程度のものであるが、それでも母親が教育熱心だったこともあり、倍率の高い幼稚園や付属小・中学校などに通った。スポーツ教室や学習塾などにも小さな頃から通い、習い事は至極充実、金銭並び学習環境は恵まれていたといえる。

 ただ、金と手間をかけた教育と人間環境が比例するかは、別問題である。

 和明の母親は、悪人ではなかったが完璧主義で負けず嫌いな性質の女性だった。他人に負けることが嫌いで、負けそうになると鬼のような努力を課し、勝つまでは絶対に相手に打ち解けない人間だった。それだけならまだしも、関連的な感情を私生活にまで持ち込み、自分ばかりか息子にまで同様の人間関係を強制する人だった。

 ……和明は幼稚園から中学校にかけて、友達らしい友達を持ったことがない。それはひとえに、母親が赦さなかったからだ。「この劇の主役をなんとしても勝ち取りなさい」「テストでこの点以上とれるまで誰とも遊ばないこと」「成績で一番になれるまで努力なさい」「あの子はお前のライバルなのだから仲良くしてはダメ」――そんな案配のことを幼少期より云われ続け、彼女が独自に定めた目標を達成するまでは余暇の時間は作れなかった。そうして気付いたら、和明は同年代の話し相手というものを一切識らない少年になってしまっていたのだ。

 締め付けが厳しい家庭で育ったにも関わらず、年頃の少年らしくグレなかったのはある意味奇跡である。和明自身が鈍感気味の平和主義で、競争以外の場所では優しい母親を慕っていただけに、鬱憤というものはさほど溜まらなかった。むしろ、母親が望むならその通りにしようと思っていた。しかし母親の望む通り優秀になれたかというと、そうではない。年子の弟がなまじ人並み以上に優秀だっただけに、並み以下の能力しか持たなかった和明は殊更厳しく当たられる。自分はとことん母親の勘に障る存在。その事実がただ、かなしかった。

 弟が出来ることがなぜお前は出来ないの、どうして一番がとれない、ここまで金をかけて育ててやったのになぜ私の思うとおりにならないの――実際にはっきり言われたことは無かったが、それも当然の空気を家庭内で感じ取り、期待に応えられない自分に落ち込み、友達がいない寂寥感にも耐え切れなくなって。和明は中学卒業間際にやっと、家を出ることを決める。

 母親が入学候補に挙げていた学校の資料内に、和明はこっそり新しいパンフレットを忍び込ませた。とある有名な男子校、そこは全寮制であり、親の目の届かないところで自分だけの生活をスタートさせるには絶好の機会。かくして、親公認で実家から離れることに成功した和明は、意気揚々と入寮する。

 ただし。

 実質同年代の友人関係において無知、他人同士の人間関係構築の仕方を何も識らない少年――しかも実家が金持ちだと知られている――は、特に曲者揃いと言われる特殊学校の生徒達にとって格好の玩具となり、キツい洗礼を受けた。そして結果、人間不信の対人恐怖症に陥ってしまったのだ。


 ……こういった背景があるからこそ。

 彼女が和明にやんわりと歩調を合わせる形で仲良くなってくれた事実が、何より和明の心を癒した。自分は他人に合わせられないだけの存在じゃなかった、世の中には自分に合わせてくれる存在もいるんだ、と。上手くいかない点だけにのめり込むのでなく、それ以外のものにも目を向けてみようと。自分に自信を持たせてくれた彼女たいせつなものを中心に、もう少し頑張って世界を広げようと、そう考えられるようになったのだ。

(完璧でなくたっていいんだ)


 ――それはまるで、インスタントコーヒーのように。全部がぜんぶ、ドリップコーヒーのように本格的でなくたって構わない。深み皆無な苦さ、安っぽい香り、暴力的水温、そんな適当さでもいいんだよと。そういうのが好きな人だっているんだから、と。


 彼女には、和明の家庭環境や暗黒の高校時代も(部分的にだが)打ち明けた。彼女は和明の黒歴史を馬鹿にすること無く否定もせず、安直な予想も口にしないスタンスで静かに話を聞いてくれた。他者に自分視点での説明をすることで、和明自身、自覚していなかった気持ちや親に対する不満、言えなかった窮屈さや思い出すだに苦しい過去の醜態なども少しずつ整頓出来た。そうしてやっと、和明は自分を好きになれた。

 カウンセラーみたいだと。大学に入ってから初めて出来た同性の友達は、そう言って笑った。

『お前、壷口にカウンセリングしてもらったんだな』

 そうかもしれない。でも、この胸に湧き上がる熱いものは、鏡や医師に対してのものではない、と勝手ながら思う。依存心かもしれない、少々刷り込み的なものかもしれない。でも、和明自身、そう思いたくない。


 彼女に感じるのは恩と、感謝と、親しみと、憧憬と、……他の何にも代えがたい、熱く確かな望み。


 姿を目にする度ぱっとその場に満ち溢れるもの。声を聴くたびぬくぬくと胸の中に生まれるもの。無意識に追う、眼差しのゆくえ。小さな手が触れたものに対する、淡い嫉妬と羨望。姿が見えなくなったときの寂しさ。いない時にふと思う、彼女の面影。離れている時こそ逢いたいと、声を聴きたいとの心の叫び。それが達成出来た嬉しさ。喧嘩しても、ひどい口論になっても、一晩寝たらまたケロッと忘れて逢いたくなり、彼女がまだ怒っているなら自然と謝罪が口から滑り出る。笑顔を思うときの幸せ。それらは今まで感じたことのなかったものであり、感じたことがなかったからこそ、興味は絶えることが無い。

 他人に対するものとしては有り余るほどの熱情が、そこには在った。

(一緒に居たい、これからもずっと一緒に)

 ああそうか、と和明は思う。彼女と接するたび、際限無く増えていく欲求を自覚しながら、こう結論付けた。

 これが親友ってやつなのか、と。


 ◆◆◆


 安っぽい、でも何より落ち着くコーヒーの香りが漂う。

「そういやさ、彦村。来月泊まりだって?」

「ああ、うん。けっこう集団で行くんだけど、初めてが多いから、連泊出来る経験者がいれば助かるって聞いて」

 和明の所属している部は、長年の伝統がある「陶芸部」である。自分達で焼き物を作る他、設備や材料を貸与してもらった場所での清掃やゴミ拾い、そして専門の連中と共同で地質調査の手伝いも行っている。

「希望したの」

「うん」

 こっくり頷き、傍らに引っ掛けてある鞄から日程表を取り出す。ここ一年、スマフォのアプリよりよっぽど目の通す率が高い紙切れだ。

 マーカーラインの他、手書きで丹念に予定を書き込んであるそれを一緒に眺め、彼女はうっすらと微笑んだ。

「無理しやがって」

「無理してねえよ。他に誰もいないなら、やるしかないだろ。それにおれ、ちゃんと打算で動いてるから。社会奉仕活動ってのは就活有利」

「ふ~ん」

 あんまり信用してない顔で、彼女は自分の鞄から同じ日程表を取り出す。和明に負けず劣らず、丁寧に書き込んである古ぼけた用紙。

「彦村はさ、変わったよね。いつの間にかコミュ障脱してる」

「脱してないから。今回のだって、本音言うと気が重い」

「でも希望したんでしょ」

「う、ん。佐倉と山田と園部がいるなら、大丈夫かなって」

「佐倉と山田はおまけでしょ、あんたの目当ては園部ちゃん」

「う、バレたか」

 へへへと笑いながら、日程表を仕舞い込む。想いを寄せる可愛い女の後輩を思い起こし頬を染めた和明に対し、心なしか、彼女の瞳が寂しげになった。

「園部、今フリーなんだって。この前話したらいい感じだったからさ、今回で前進出来たらいいなって」

「……そう」

 同じく日程を仕舞った手で、彼女は髪を撫で付けるように後ろに流す。ほんのちょっと、綺麗に描かれた眉が顰められた。おや、と思ったのも一瞬で、彼女はすぐににやっといつもの笑みを浮かべた。

「がんばれ。園部ちゃん、可愛いからねえ。ぼさっとしてると、掻っ攫われるよ」

「う、がんばる」

「フられたら慰めてやるよ」

「フられねえから。……たぶん」

「多分かい。脈はあるんでしょ? 思い切っていけ」

「思い切っていきます」

 恋を応援してくれる親友に、和明はにやっと笑み返した。すっかり冷めたコーヒーを一気に煽り、「うし」と軽く気合を入れる。その横で、彼女は心なしかぼんやりと、手元に視線を落としていた。

 ぐるぐると、褐色が渦巻いている。



「――壷口はさ、」

 インスタントコーヒーを飲み終わった後、ふと口を次いで出た言葉があった。

「彼氏とか、作んねえの?」

「ぶっ」

 ちょうど口に含んだときに話しかけてしまったようで、彼女が一瞬むせる。机の隅に置いてあったティッシュボックスからがしゅがしゅと乱雑に掴み取り、小さな手が小さな顔の下半分を覆う。

「急に、なに」

 じろり、と黒で囲った睨みがきて、和明は面食らった。そんなに悪いことを聞いただろうか。

「あ、だってちょっと気になったから。最近おれのことばっかりでさあ、壷口は気になるの、いないのかなって」

「ッたく、」

 舌打ち混じりに彼女は嘆息し、篭った声で続ける。

「コーヒー飲んでるときにそういうこと言わない」

「……わり?」

 首を傾げつつ謝った和明にふっと溜息を零し、彼女はティッシュで口を拭い顔から手を離した。コーヒーの褐色、ファンデの肌色がうっすらと移った白。擦ったせいなのか、また色を濃くした桜色の唇は、そっと答えを発する。


「―――いるよ、私だって。好きな人くらい」


 今度は和明がむせそうになった。何も口に含んでいなかったというのに、喉奥で何かが詰まったようになって慌ててごくりと飲み込む。

「マジか」

「マジ」

 どきどきと、運動もしていないのに鼓動が高鳴った。半分以上否定を予想していただけに、はっきり肯定されると新鮮な驚きがあった。そして湧き上がる、なんともいえない興味。

「ね、ねえそれっておれが知ってる奴?」

「……うん。知ってる奴」

「誰だよ!?」

「……黙秘」

「~~言わないから、秘密にするから、」

「そういう奴ほど信用ならん」

「うあー、そゆこといわずに! おれだって教えただろ!!」

 かたん、と幅広のカップが卓上に置かれた。黒のアイラインの隙間、切れ長の奥二重は真っ直ぐに和明を見上げてくる。

「――私の好きな人は、」

 真っ直ぐに。


「超鈍感な奴。こっちが頑張ってアピールしてるのに全然気付かない。気付かないどころか、暢気に自分の恋愛相談とかしてくる。そういう奴」


「……なんだそれ。最低だな」

「でしょ」

「脈無いんだろ。なんでそれなのに、」

「好きかって?」

 ごくり、と唾をまた飲み込んだ和明の前で、彼女は続けた。なぜか苛立ちと、ほんのり諦めの混じった声音で。

「それでも好きなんだから、仕方ないでしょ。完璧にフられるか、気持ちが冷めない限り、こういうのは続くの。それが恋ってもんなの」

「……」

 そのあまりにきっぱりした言葉に和明は何も返せず、目を瞬かせた。

(本気なんだ)

 他人に対して真面目で真摯な彼女が、ここまで言い切るのは相当だ。

(真剣なんだ)

 それほど、そいつが、好きなのだ。なのに、そいつは彼女のことが好きではないという。これだけ本気に、真剣に想われてるというのに、気付く様子も無いという。

 苛々と、何かがせりあがってきた。

(……殴りてえ)

 ジャケットのポケットに手を突っ込み、拳を握る。確信がある、きっと自分はその鈍感野郎を前にしたら、有無を言わさず殴りつける。彼女に想われている、そのしあわせに気付かないそいつに天誅を食らわせたい。彼女は和明にとって唯一無二の親友だ。何より大事で誰より大切なこの人を、蔑ろにするそいつが赦せない。

 そして、もし。もしもそいつが、罰当たりにも彼女の好意を断ったのなら――

「そいつの名前、聞きたい?」

「――あ、いや、やっぱいい」

 真剣な顔でこちらを見上げていた彼女が、ふっと呆れたように瞼を伏せた。

「なら、もうこの話はいいでしょ。やめやめ」

 ふう、と溜息をまたついて視線を逸らした彼女を見つめ、「うん」と小さく返す。さっきまでそいつがどこのどいつなのか聞きたいと思っていたのに、今は聞きたくない。その名前を聞いたら最後、和明はそいつを殴り飛ばして何発か蹴りを入れるために部室を飛び出してしまうだろう。そんなことになったら大問題である。

 刹那の攻撃衝動を散らすように、なるべく平和的なことを考える。人間関係について、また新たな発見があった。

(「親友」ってのは凄いな。こんなに精神影響があるんだな)

 ――平和主義だった和明が、顔もわからない誰かに、簡単に殺意を抱くほどに。


 ・

 ・

 ・


 しばらくして彼女も二杯目のコーヒーを飲み終わり、纏めて洗うため盆の上にケトルとカップを集めた。と、それを上から覗いた彼女が声をあげる。

「あ、」

「?」

 蓄音機をなんの気なしに持ち上げていた和明が、振り返る。彼女は自分が飲んでいたほうのカップを持ち上げ、低く呟いた。

「溶け残ってた」

 見ると、陶器の底にどろりとこずんだ塊がある。溶け切らなかった砂糖とコーヒー顆粒、その成れの果てが。

「何が溶けやすいって?」

「こういうのは計算外」

「壷口は砂糖入れすぎなんだよなー」

「シャラップ」

 ふんっと顔を背け、彼女は盆を手に階下の流しに向かった。部室のドアを開けてのち、ふっと零された言葉。


「どうして、溶けないのかな。最初から混ぜてたはずだったのに」


 ぱたん。閉められたドアの前で、和明はぼんやりとする。どうしてだか、今の彼女の言葉が頭から離れなかった。それはコーヒーのことでなく、なぜだか別のことを例えている気がしたのだ。気のせいだろうけど。

「……そりゃ、最初から砂糖入れすぎてたら、溶けないでしょうよ」

 独り言での答えを返しつつ蓄音機の針を元の位置に戻し、和明は鞄を机の上に置く。ごそごそとクリアファイルに挟んでおいた日程表を取り出し、その裏にメモされた店の住所を見つめる。来月向かう県にあるこの店は、彼女が好きそうなご当地キャラの限定グッズが売っている場所なのだ。和明が七面倒くさい行事を引き受けたのも、好きな女の子と接近できるからというより、この店の近くに行けるからという理由が大きい。驚かせたいので、彼女には内緒にしているが。

(……「親友」ってすごいな)

 またそんなことを考える。初めて出来た親友が、和明の中でこれほど大きくなるとは思わなかった。好ましいと感じた女の子より、まず最初に喜ばせたいと思うとは。罪悪感も抵抗も無いのが不思議だ。

(当たり前だな。壷口は、一番大事な女だから)

 そこまで考えて、ん?と首を傾げる。何かが引っかかるような気がしたのだ。動作が止まった和明の鼻腔に、ふんわりと例の甘い香りが届く。ここ二年ですっかり馴染みになった残り香。和明はそういったものに詳しくないが、確かカモミールとかなんとか。

 彼女が纏っているから、この匂いも好きになった。

「――」

 またも変な方向に行きそうになった思考を、無理矢理修正する。

(……別に、変なことじゃないよな。壷口は壷口だし。他の何かと比べること自体、おかしいし。園部だってその辺り話せばわかってくれる)

 うんうんと内心で頷く。自分に好意を向けてくれているあの娘も、きっとわかってくれる。それに、これで自分に初彼女が出来れば、「親友が想いを寄せる相手」に対する漠然とした嫉妬も薄まるだろうし、今抱えているちょっとした問題もすぐ解決する。


「童貞じゃなくなれば、壷口をそういう目で見なくて済むよな」


 なんとも罪深いことを口にした事実に気付かず、和明は日程表を仕舞い込んだ。

 彼女はもうすぐ、戻ってくるだろう。盆を手にしたままで入りやすいよう、和明は部室のドアを開けた。

 部屋に残っていた最後のカモミールが外へさらわれる。優しい香りはもとより、コーヒーの匂いは既に立ち消えになっていた。




和明くんに対する総ツッコミ、お待ちしております

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 和明君には禿げる呪いを掛けておきますね。 [一言] 初めまして。後書きを見て、思わず感想を書かせて頂きました。 禿げる呪いだけでは気が済みませんが(笑)
[一言] この超ド級の鈍さだと希ちゃんの気持ちが一段落ついて他の人と恋人同士になって手遅れになるような段階にやっと自覚するのかもしれませんね しかもその間に自分は恋人ができては別れてしかもその過程は…
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