金曜日、26時45分、キミと
彼女は捨てに行く。まるで粗大ごみのように自分を。
カーテンの隙間から覗く窓の外が群青に染まる頃――つまり夕方に『彼女』の声でボクは目覚める。
もう何年もろくに運動していない身体は、中学三年の成長期だというのにひょろりと細く白い。筋肉とはまるで縁がない腕をついて布団から起きあがり、ボクは薄暗い自室を横切って窓辺へ近寄る。
そして寝る前に拳一つ分だけ開けておいた窓から、アパートの階下をこっそり見下ろした。
目に入るのは、街灯に照らされた茶色の巻き髪と短いスカートの集団。キャッキャとはしゃいでいるその集団の誰もが同じようにつけ睫毛をつけ、コーラルピンクのチークを塗り、ラメの入ったリップグロスを塗っている。
大量生産されたように無個性だな、と思いながら、その集団で一番華奢な少女に視線をしぼった。
「じゃあね、胡桃! あとでメールするー」
「うん。んじゃまたねー」
ボクの視線の先にいる少女――――胡桃は、友だちに手を振るとアパートの階段を駆け上がってくる。
ボクは胡桃の足音が近付いてくるのを感じて、そっと窓を閉めた。その直後に、胡桃がアパートの廊下を通過する気配がする。
その際、ボクの部屋の窓の前で立ち止まって
「コウ、まだ出てこないの?」
と小さく呟いたのが聞こえた。
ボクは散らかった部屋の中で小さくなり膝を抱える。胡桃は諦めたように溜息をつき、隣の自分の家へと入っていった。
ボクと胡桃は物心つく前からの幼なじみだ。二人とも母子家庭という境遇だったせいか、いつも母親の仕事の帰りを待って一緒にいた。
一緒にホットケーキを焼いたり本を読んだり、毛布に二人くるまって星空を眺めたりする時間がとても好きだった。
大人しいボクとは違い、胡桃は小学生の頃から活発で可愛らしかった。太陽のように明るい胡桃がボクと一緒にいてくれることが何より嬉しかった。
けれど。
「コウの母さんってよー、ケバイよな。なあ、お前んち、父さんいないんだろ? お前が小さい頃に他の女作って出ていったんだって?」
「お前の母ちゃんキャバクラで働いてるんだってな! オレの母ちゃん、コウの母ちゃんが知らない男と腕組んで歩いてんの見たって! 不潔って言ってた! フシダラだって」
「あ、知ってる! ドウハンだ! ドウハン! うわー引くわー」
小学五年生の時だった。
夜の仕事の出勤前に、時間を割いて母さんが参観日に来てくれた次の日のことだった。
出勤前ということもあり、髪を盛って胸元のあいた服を着てきた母さんは、クラスメイトや保護者には奇異に映ったのだろう。
気弱なボクはクラスメイトたちが母さんのことを馬鹿にするのを、拳を握って耐えるしか出来なかった。
けれど胡桃は、クラスメイト達に向かって決然と怒ってくれた。
「くだらない。コウのママはねぇ、女手一つでコウを育てるために一生懸命働いてんのよ。人んちの母親けなしてるあんた達のママやあんた達よりずっと立派だわ」
胡桃は大きな瞳でキッとクラスメイトたちを睨みつける。皆は気圧されたように一拍の間黙りこんだ。が、今度は強気な胡桃に牙をむいてきた。
「なんだよ、そういや胡桃んちも父親いねーよなー!」
「ああ、コウの仲間だから肩持ってんのか」
「カワイソウだよねー、父親がいないとさ。あんたの家の父親も出てったんでしょ」
勝手に可哀相な子だというレッテルを貼られた上、ボクと胡桃は陰口を囁かれ、次第に苛められるようになった。
指をさして笑われ、教科書を目の前で捨てられ、ゴミを投げつけられるようになった。
弱いボクは自分と違うものを叩き淘汰しようとする学校に行くのが怖くなり、毎朝ご飯をもどすようになった。そしてひきこもるようになった。
部屋に閉じこもり、全てがだるくなって昼夜逆転した生活を送るようになったボクを母さんは初めこそ叱りとばした。
が、胡桃から話を聞いたのか、自分が原因で息子が苛められたと知ってからは、悲しそうに「ごめんね……」とドア越しに謝るばかりだった。
母さんが負い目に感じることなど何もない。だってボクを養うために働いてくれてるんだ。なのに、申し訳なさそうに謝る母さんの声を聞くのが辛くなり、思考を停止させたくて眠る時間が増えた。
胡桃は苛められても学校に通い続けた。時折チャイムを鳴らしてボクを学校へ誘いにきたが、ボクは寝たふりを決めこんだ。
同じように苛められているのに我慢して登校する胡桃に、ボクは引け目を感じていた。
昔のことを思い出し、敷きっぱなしの布団の上で何をするともなくぼーっとしていると、思考を断ち切るようにガチャンッと扉のしまる音が隣から聞こえてきた。ついで、窓越しに胡桃がアパートの廊下を横切る姿が見え、階段を下りていく音が聞こえた。
ボクは埃をかぶったデジタル時計を一瞥する。時刻は金曜日の二十六時すぎ。つまり、土曜日の午前二時を回ったところだった。
毎週この時間になると、胡桃はある場所へと向かう。
「……よいしょ」
運動不足のせいか鉛のように重い身体で、ボクは靴を引っかける。一週間で唯一ボクが外へ出る時間だ。
静まり返った住宅街を歩きながら、ボクは胡桃のことを考える。
胡桃は中学になってから、急に変わった。そして苛められなくなったようだった。
肩甲骨辺りまで伸びた髪を茶色に染め上げ毛先を巻いて、同じような見た目をした友だちとつるむようになったようだった。それまで動きやすさを重視した服を着ていたのに、急に流行の服ばかり着るようになったことに、窓越しに気付いた。
はっきりとした目鼻立ちの顔にわざと濃いメイクを施し、周囲ととけこむ代わりに彼女の個性は死んでいった。
でも胡桃は笑っていた。
「皆にとけこめば大丈夫、苛められない。だから一緒に学校に行こう」と誘ってくれた。
そんな頃、胡桃は深夜に出かけるようになった。
あわす顔がないと思いながらも、こんな深夜に何処に行くのか胡桃のことが心配だったボクは、ある日胡桃のあとをつけることにした。久しぶりに外に出ると、風が責めるようにボクの背を叩いた。
胡桃の背中を、気付かれないよう追いかけるうちに校区外までやってきた。三十分は歩いた。
比較的きれいなゴミステーションまで来た時、いよいよ何処まで行くつもりなのか不安になってきたボクに気付かないまま、胡桃は立ち止まる。
そしてあろうことか――――……胡桃はゴミ捨て場におもむろに寝そべった。
「……胡桃!?」
だらりと腕を放りだして仰向けになる胡桃に呆然としたボクは、気まずさなど吹っ飛んでしまい、胡桃に駆けよった。
「何してるの? 汚いよ」
「……コウ? コウだぁ。つけてたの?」
久しぶりに胡桃の素顔を見た気がした。今の胡桃はけばけばしい真っ黒なラインを引いておらず、髪もストレートだ。スッピンの胡桃の方がずっと柔らかな印象で可愛かった。
「出ていく音が聞こえたから……何してるの?」
ボクが問うと、胡桃は自嘲気味に唇を歪めて言った。
「捨てに来たの」
「何を?」
「私をよ」
訳が分からなくて眉をひそめるボクに、胡桃は笑った。
「嫌いなのよ。今の弱い私が。自分を殺して周りと同じように振る舞っている私が」
「だから捨てに来てるの」と胡桃は続ける。
「こうやって自分を捨てたら、来週からまた髪を巻いて派手な化粧して周りと同化してヘラヘラ笑って過ごせる。そしてまた、週末になったらそんな自分を捨てるの」
それは胡桃なりのリフレッシュなのだろうか。引きこもりのボクが言うのもなんだけど、普通は友だちと話したりしてストレスを発散するものじゃなかろうか。
そこまで考えて、ボクは唇を噛む。友だちに無理に合わせたせいでストレスを溜めているなら、相談出来るはずないか……。
胡桃が自分の心の平穏を保つために取った行動が、文字通り自分を捨てること。その事実にボクは悲しくなった。
「コウには知られたくなかったなぁ。見られたくなかった」
胡桃は笑う。ボクは俯いた。
「どうして胡桃は……」
そんなに頑張れるんだろう。
似合わないメイクをして、チャラチャラした性格の合わない同級生たちとつるんで。
そう尋ねたい気持ちを押しこめ、ボクはせめてと、毎週胡桃を迎えに行く役目を自分に与えた。
だからボクは今日も、胡桃を迎えに行く。
けれど、今日の胡桃は明らかに様子が違った。ボクがゴミ捨て場についた時、胡桃は膝に顔を埋め、声を殺して泣いていた。何事だ。
「胡桃……? どうしたの?」
ボクがおずおずと声をかけると、胡桃は小さく肩を揺らし、蚊の鳴くような声でこう言った。
「友だちに万引き、させられそうになった……」と。
ボクは小さく息をのんだ。遠慮がちに胡桃の肩に手を置くと、胡桃は小さく嗚咽を漏らした。
「……やったの?」
ボクの問いかけに、胡桃は頭を振る。それから「してない」と、押し殺すような声で言った。
「誰でもやってるから、皆やってるから大丈夫って友だちに言われた……しないとノリ悪いって……。でも……」
皆と一緒だから平気ってなに? 皆と同じことしてたら苛められないって、何で? じゃあ正しいこと言っても、周囲の意見と違ったら淘汰されちゃうの?
吐きだすようにそう言って、胡桃は塞ぎこんだ。ボクは情けないくらいおろおろするしか出来なかった。
が、とりあえず背中を撫でてやると、胡桃がボクに寄りかかってきたので、ボクは何度も胡桃が落ちつくようにと背中を撫でてやった。
それから十分くらい経っただろうか。胡桃が零すように語り始めた。
「情けないよね。ホントはね、皆と同じように振る舞っていれば苛められないことを示して、コウに学校に来てほしかったの。人が自分と違う奴を苛めたがることは小学校の時に十分思い知ったから、無個性になって周りにとけこめば問題ないよって、体現したかった……けど……」
胡桃が言葉を切って涙を拭う。泣きすぎて腫れた瞼が痛々しかった。
「……無理して皆に合わせることで、どんどん自分を嫌いになってくのが、もう辛い。周囲に嫌われないためなら万引きも簡単にするような……コウに胸張って友だちだよって言ってもらえないような自分になりそうで、怖い」
「…………っ」
……自分の頭を鈍器で殴ってやりたいと思った。
「ごめん」
何をしているんだろう、ボクは。何をしていたんだろう。
胡桃は自分を捨てに行く時さえ笑ってた。だからボクはどこかで安心して逃げたままでいたんだ。
「ごめん。こんな風に胡桃が、自分を捨てに行くようになったのはボクのせいだ」
ボクが他人に怯えて引きこもっている間に、胡桃はボクのために頑張ってくれていた。実際に自分を捨てに行くほど胡桃を追いつめて無理をさせていたのはボクのせいだ。
「ごめんね胡桃……」
どうしてこんなに自分を大切に思ってくれる子が泣き出すくらい追いつめられるまで、ボクは踏み出せないのだろう。胡桃はこんなに頑張ってくれた。なら……なら今度はボクが頑張る番じゃないのか。
踏ん張りどころだ。そう思った。
「胡桃がいてくれさえすれば十分なんだって、どうして気付くのに時間がかかったんだろう」
「コウ……?」
胡桃は不思議そうに首を傾げる。その際に頬をつたった涙を拭いてやりながら、ボクは不器用に微笑みかけた。
世界はそんなに怖いだろうか。自問する。こんなにもボクのことを思って心配してくれている子がいるのに。何を怖がることがあるんだろうか……。
「元の胡桃に戻って。無理に周囲の人間と同じようにならなくていい」
「え……でも……」
「学校、行くよ。だから胡桃、もう無理に茶髪にしたり、化粧して自分を押し殺さないで。ゴミ捨て場に自分を捨てるのはこれで最後にして」
胡桃の黒目がちな瞳が大きく揺れる。その瞳に映るボクはどこが清々しい表情をしていた。
二人毛布に包まって仲良く星空を眺めていたような、あの頃のありのままのボクらに戻ろう。
「胡桃と二人なら、もう怖くないよ」
強がりだ。本当はまだ怖い。何年も引きこもっていたんだ。外の世界はとてつもなく冷たく思えた。
でも……。
学校に行ってたとえ苛められたって、ボクにはこんなにもボクのことを思ってくれる幼なじみがいるじゃないか。大勢の友と笑いあえなくても、隣で星空を一緒に眺めてくれるかけがえのない友がいるじゃないか。
それだけで十分だ。だからもう逃げない。
「……コウの馬鹿。ずっと待ってたんだよ」
ややあって、胡桃は泣き顔をくしゃくしゃに歪めて幼子のように笑った。
ボクは胡桃の手を取り、久しぶりに星を眺めた。
――――彼女は捨てに行った。まるで粗大ごみのように自分を。ボクは拾いに行った。かけがえのない友人である彼女を。
完全に自己満足で書いた作品ですが、とても自由に書けました。続きをもしかしたらこっそり違う短編で上げようかなと考えています。